第61話 背中を押してくれる彼
台北松山空港―――
チェックインを済ませ、搭乗口へ向かう途中。
少し時間が空いたからと、私は何気なくスマホを開いた。
――その瞬間、視界が止まる。
「……えっ」
画面いっぱいに踊る見出し。
【インフィニティ・コネクト代表・胡蝶凱斗、妊娠と二股疑惑】
……名前はイニシャルだけど、職業が書かれている。
高校の同級生…これは間違いなく私の事だ。
咄嗟に足が止まり、息が詰まる…。
これって…今度は週刊誌??
星野さんが妊娠??
空港の喧騒の中で、自分だけが別の世界に取り残されたみたいだ―――
「…どうした?大丈夫か…」
隣を歩いていた相楽君が、すぐに気づいて立ち止まる。
「あ…ううん。なんでもない…璃子がお土産買った?って…」
「パイナップルケーキだっけ?」
彼はそう聞き返して笑っただけで、それ以上は何も聞いてこなかった。
相楽君は、私の動揺した表情に気づいているはずだ。
きっと何かを察してるはず…
LINEニュースも、私より先に見ていたかもしれない
……知らないふりしてくれる優しさ、それに帰って胸が痛い。
そのまま搭乗が始まり、私は半ば自動的に機内へ進む。
凱斗の記事のせいで、私の頭はずっと上の空だ…
ビジネスのシートに座り、握りしめたスマホに視線を落とす。
既読をつけてなくても、次々に入ってくるLINE。
最初は、朔ちゃんのメッセージを開ける。
≪花凛、大丈夫? 帰ったら連絡しておいで。待ってるからね≫
その優しさに、思わず胸が締めつけられた。
彼はずっと、凱斗を庇ってた。だけど、私の心配もしてくれてる…
こんな時、朔ちゃんは板挟みになって辛いんだろうな…。
――次は璃子…
≪文襲見たよ!帰国したら電話して!冷静にだよ花凛!とにかく落ち着いて≫
彼女は、私がパニックになってると思ってる…
でも今回の記事の内容は、それくらい陰湿だ。
「…戦略コンサルBのS.Kさん…」
それでも凱斗からの連絡は、やっぱり言い訳一つない…
きっと…あれから怒ってるんだ…
あんなこと言った私の事…
さらに会社の同僚数人からも、興味本位のメッセージ…
≪先輩って、もしかしてカイティの記事の“二股彼女”だったりしないですよね?≫
≪カイティの女ってまさか桜庭さん??イニシャルもだけど確か同級生だよね??≫
≪あの記事、マジですか?!≫
≪明日会社来ますよね?話せますか?≫
――やめて。
お願いだから、もうそっとしておいて。
頭の中で叫んでも、通知音は容赦なく鳴り続けてる。
もう“既読をつける勇気”すらなくて、ただ震える手で電源を切った。
窓の外に広がる夜の雲海が、やけに遠い気がする…
目を閉じても、週刊誌の活字が瞼の裏に焼き付いて消えないままだ。
胸の奥がざわついて、息をするのも苦しい…
どうしても気になって電源をもう一度入れると、また立て続けに通知が流れ込んでくる。
その中に、お兄ちゃんからのLINEがあった…
≪記事は全部デマだから、心配するな≫
≪父さんの事務所で全面的に対応することになった≫
「え…?パパの事務所で…」
これって、偶然だろうか…
法律事務所なんて、星の数ほどあるのにどうしてパパの所に?
でも凱斗は、知らないはず…。
聞かれてもいないし、わざわざいう事もないと思ってた…。
…もしかして朔ちゃん?
朔ちゃんは大学の時、お兄ちゃんに何度か会ったことがあったけど…
≪出版社にも連絡済みだ。証拠も揃ってるから必ず収束する≫
≪帰りのフライト、気を付けてね≫
LINEの文字を見た瞬間、お兄ちゃんの言葉に涙が零れそうになる。
隣の席の相楽くんが、黙ってブランケットを差し出してくれた。
「……寒くない?」
私を気遣う小さな声だ。
返事をしないまま彼の方に視線を向けたら、ただ膝の上にそれをそっと置いてくれた。
――押し付けない。でも、必要ならすぐ手を伸ばせる距離にいつもいる。
その絶妙な距離感が、今の私には救いだ。
帰国のフライトは、やけに長く感じた――――
ずっと目を閉じていたけれど、眠れるはずもなく…
頭の中では、凱斗の記事の見出しが何度も蘇る。
私もだけど、凱斗は一体どうしてるんだろう…
こんな記事…本人だって相当苦しいはずだ…
―――羽田についてからも、私の気持ちはざわつく一方だった。
そんな時相楽くんが、さりげなく私のキャリーケースを引いてくれる。
「……ありがとう…私持つよ?」
「うん…大丈夫…」
そう言って、そのまま彼は手を離さない。
そして到着ロビーを出るまでの間も、必要以上に話しかけてくることはなかった。
スマホを覗き込む私に、時々どうでもいい話を振ってくる…
だけど相楽君が隣にいるだけで、私は不思議と一人じゃないと思えた。
羽田から二人で乗り込んだタクシーは、夜の首都高に入って行く。
隣の相楽くんは、ネクタイを少し緩めて大きく息を吐いた。
「……やっぱり、出張って帰りが一番疲れるな…」
「うん……」
相槌を打ちながらも、頭の中は出張の疲れより凱斗の事でいっぱいだ。
すると相楽君は、私の方へ少し視線を向けて口を開いた…
「桜庭…さっき空港でずっとスマホ見てたよな…」
「……えっ?」
「胡蝶さんのこと、色々あるのはわかる。でもさ…俺は今、そんな時だからこそ自分の事の方に目を向けた方が、いいんじゃないかなって思うんだ…」
「……自分の事?」
「この前、人事から聞いた。桜庭、次のMBA派遣候補に入ってるだろ…」
「え……どうして知ってるの?」
「そりゃ同期だからね。俺も、候補リストには名前が出てるんだ。でも、桜庭は確実に見込まれてるよ」
心臓がドキッとした…
この間、阿東さんからは打診があった。
もしそれが実現すれば、私のキャリアにとっては大きな転機だ。
相楽くんは、窓の外に視線を移したまま続けた。
「もしチャンスを掴みたいなら、誰かに遠慮する必要なんてないから。……お前なら絶対に頑張れる」
私は思わず、相楽君の横顔を見つめた。
真剣で、真っ直ぐな温かい言葉…
それは“支えてくれる”というより、“背中を押してくれる”ものだ。
「……私、自分の事より今は、凱斗の事ばっかりで…」
「だろ? だから――まず自分を優先しなよ。そうすれば、胡蝶さんの事も違う角度で見られるかもしれないだろ…」
そう言ってこっちを見た彼の目は、私にガンバレ…前を向けって…
そんな風に、言ってるみたいだ。
タクシーは、恵比寿の街に近づいていた。
高層ビルの灯りが、ガラス窓に反射して揺れている。
私はこの時、胸の奥に小さな決意のようなものを抱いた。
“誰かのため”じゃなく、“自分のため”に――――
今、どうしたいのか…
相楽君のおかげで、それをようやくちゃんと考え始められそうな気がしていた。




