第60話 絶対に守りたいもの
名刺に書かれた名前を見て、俺は思わず言葉に詰まる…
「桜庭…拓海…?」
「初めまして。桜庭拓海です」
桜庭って…もしかして…
「花凛の兄です。いつも妹がお世話になっております」
思わず佐田と目を合わせた。
「あ…こちらこそ…いつもお世話になっております」
そう挨拶をすると、彼女とよく似た顔で微笑まれる。
こんなところで会うなんて、驚きだ…
「橘は、芸能界から政財界までうちの危機管理専門の弁護士です。私の大学時代からの先輩でもあり、この分野では右に出る者はいません」
「あ…桜庭さんも、ここの法律事務所に?」
「あ、妹から聞いてないですか?ここ父の法律事務所なんですよ」
「父?!」
「私の父は、ここの代表弁護士で祖父が会長なんです。私はここの、コーポレート部門にいます」
「……」
「今回は専門分野が違いますので、こちらの橘が担当させていただきますね」
そう花凛の兄が言うと、橘弁護士がもう一度俺たちに頭を下げる。
父親と兄が、弁護士だとは聞いていた…
≪え?私のお兄ちゃん??結局弁護士になったよ?≫
≪お父さんもだよな?≫
≪二人でほぞぼそ事務所やってるの≫
って…
確かに二人で事務所やってるけど…
これが“二人でほそぼそ”の規模か??
大手町の弁護士200人規模の事務所だろ??
「すみません…あのちょとお伺いしたいのですが…今日代表は…」
「あぁ、父なら今ニューヨークの提携事務所に行ってるんで留守なんですよ。胡蝶さんによろしくと言ってました」
「あぁ…そうですか…」
って…ニューヨークの提携事務所??
俺も調べればよかった…名前でググればこんなのすぐ出たのに…
まったく気にしてなかった!!
佐田が隣で、俺の顔をじっと見てる…
何かを言いたそうな目だ。
花凛のやつ…これくらい俺に話しておいてくれよ…
スキャンダル起きて、いきなり花凛の家族に知られるとか…
…妊娠二股疑惑で相談とか…しかも父親と兄に!!
あぁ…もう終わった…
「すみません…あの…俺…二股とか…妊娠させたとか…絶対にないんで…
レックスブリッジ法律事務所に誓って…」
小さい声でそう言うと、桜庭さんは苦笑いしてる…
「続けましょうか」
橘弁護士の声でそれはサラっと流され、話は戻された。
次の日、オフィスの会議室の空気は、いつになく張り詰めていた。
レックスブリッジ法律事務所の危機管理部門を率いるパートナー弁護士橘慎一郎が、冷静な口調で指示を飛ばしていく。
「まずは声明文だ。速やかに事実を整理。今回の記事は“虚偽”であることを明言する。ただし、感情的な反論は逆効果になる。言葉は短く、端的に。」
彼の前に並ぶのは、うちの広報チームと数人のアソシエイト弁護士。
すでにモニターには、SNS上で飛び交う俺と梓の写真、そして記事の引用が映し出されている。
炎上の拡散速度は想像以上で、秒単位で拡がっていった。
「SNSは、法的措置を示唆する投稿を一本打ち込んで。削除要請は即時に進める。記者会見は不要だ、声明文と株主向けレターで足りる」
橘の低い声に、スタッフが即座に動き出す。
佐田が、隣で小声で俺に言った。
「……頼もしいな。さすが大手法律事務所のエキスパートだ」
俺は頷きながらも、胃の奥が焼けるように熱かった。
株価は朝の寄り付きで一気に10%下落。
投資家からの問い合わせは、すでに会社の代表メールと秘書宛てに殺到している。
「株主対応は私が前面に立ちます。胡蝶さん、あなたは“揺るがないCEO”を演じてください」
橘の視線が真っ直ぐに俺に突き刺さる。
「はい…」
「ここで不安を見せたら、一気に会社が沈みます。逆に言えば、あなたの一言が市場の安心につながるんです」
「……わかりました」
声は震えていなかったと思う。
だが、胸の中では嵐が吹き荒れていた。
“妊娠”なんて、梓のやつ頭おかしくなったのか?
あいつは、どこまで俺を追い詰める気なんだ――。
その時、机の上に置かれたスマホが震えた。
「お父様からです」隣の秘書が耳打ちした。
父――大手ゼネコン「アークスホールディングス」の社長胡蝶巌。
ずっと互いに仕事では距離があった父が、昨日相談したら今回ばかりは全面的に協力すると言ってくれた。
「お前が本気で頼ってきたのは、初めてだ」と。
創業以来、俺が親に頭を下げたのは初めてだった。
これは、自分の事だけじゃないからだ。
佐田や小野寺、瀬島は勿論、従業員たちの事…
そして…花凛の事。
俺が、絶対に守りたいものがここにあった。
「はい。もしもし…」
『凱斗か』
「はい…」
『考えたんだが…父として、全面的に支援する。
資金も人脈も、全部動かしてやる。……だから凱斗、お前は一人で抱え込むな。わかったな』
「わかった。ありがとう…」
その様子をじっと見ていた橘弁護士が、短く頷いた。
「株主にも、“ゼネコン側の支援あり”という後ろ盾は強い材料になります。ご安心を」
安心なんて、簡単にできるわけがない。
父が出すのは、あくまでも個人資産だ。
アークスホールディングスの資金は今すぐには簡単に動かせない…
だが、この場に橘弁護士がいて、佐田がいて、父までもが支えてくれる。
だからこそ俺は――
表情一つ崩さず、声明文に署名するCEOを演じ続けなければならなかった。
―――昼過ぎ。
俺はオフィスの大きな窓際に立ち、遠く霞んだ空を眺めていた。
机の上には橘先生がまとめた声明文と、父からの資金援助のメールの写し。
全ては最善の形で進んでいる。株価も一時の急落から徐々に戻りつつあった。
……だが。
問題は、会社でも株でもない。
「……花凛、もうすぐ帰ってくるんだよな」
声に出した瞬間、胸がぎゅっと痛んだ。
朔の話だと、台湾出張から夜8時50分の便で帰国する。
数時間後には羽田に降り立って、きっとスマホに飛び込んでくるこの騒動の全貌を知ることになる。いや…もしかしたら、もう知っているかもしれない…
どれもこれも、梓のくだらない作り話だ。
だが、花凛にとっては――ただの噂じゃ済まない。
彼女は、梓とのSNSでずっと嫌な思いをしていた。
そして、別れようとしている…
「……なんて言おうか…」
机に両肘をつき、額を押さえる。
昨日、橘先生や父と対応に奔走している間も、このことだけが頭を離れなかった。
梓は確かに“裏切り者”だ。
俺には、一ミリもその気なんてない。
でも花凛が言ってるのは、そう言う事じゃないような気がする。
花凛は、こうやって俺が噂になる事自体が嫌なんだ…
でも、わかって欲しい。
何を言われたって、どんなに騒がれたって
俺は、花凛だけなんだってことを…
「クソっ……」
デスクを拳で軽く叩いた。
その時佐田が部屋に入ってきて、俺の顔を見て言った。
「…凱斗、大丈夫か?」
「あぁ…でも…もう花凛ダメかもな…」
「俺も一緒に説明しやろうか?」
珍しく弱気な声で、俺を気遣う佐田がなんだかちょっと可笑しかった。
「ありがとう。大丈夫…自分で言うよ」
そう言って思わず笑ったら、彼は少しほっとしたような顔で笑う。
俺は、仕事の事なら冷静に状況を処理するのは慣れている。
でも窓に映る自分の顔は、いつもの強気な経営者じゃなかった。
一人の女を手放すことに怯えた、情けない男の顔だ。
数時間後、花凛が日本に戻ってくる。
逃げられない。
俺は彼女に、わかってもらえるだろうか…。
その日の夜7時過ぎ。
CEO室にいたら、朔から電話がかかって来た。
「…はい」
『凱斗?まだ仕事?』
「あ…今日はもう終わる」
『なら、この後ちょっと会えないかな…』
「いまから?」
『うん』
「あぁ…じゃあ今日実家行くから、父さんと話した後ならいいけど…」
『わかった。別に遅くてもいいよ、うちに来て』
「じゃあ、10時くらいになるかもだけど…いい?」
『いいよ。何時でも。じゃあ家にいるから近くに来たら連絡して』
「うん。わかった…」
こうして俺は、実家で父と話してその後朔と会う事になった。
昨日ほとんど寝てないから、今日は実家に泊るつもりだったしちょうどいい。
なんとなくこんな日は、一人で麻布にいるのが嫌だったから。
花凛は帰国するけど、きっと会えないだろうし…




