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第57話 相楽君の告白



台北の空は湿気を含んでいて、息を吸い込むたびに喉の奥まで熱気が染みこんでくる。

午前中の会議を終えた私は、小さなため息をついてノートパソコンを閉じた。




「桜庭。次のミーティングの資料、会場に送っておいたよ」




「ありがとう、助かる」



その声に振り向くと相楽君が、いつもの穏やかな笑みでこちらを見ていた。

頼れる同期はこんな時、決して目立とうとしないし、リーダーシップを取るわけでもない。


でもこうしていつも、さりげなく私を支えてくれる…それが、どれほど心強いことか。






午後の交渉は正直、骨が折れた。




相手は、日台合同で急成長しているIT企業の経営陣。

彼らの要求は強気で、こちらのシナリオは何度も修正を迫られる。


「……桜庭、休憩しろよ。俺、追加データの準備やっておくから」


「でも、これはリードの私が――」


「リードは桜庭だ。でもだからこそ、任せられるところは任せていいんだ」


その言葉に、思わず心が揺れた。


凱斗(かいと)は“強さ”で引っ張ってくれる。

でも相楽(さがら)君は、ただ静かに支えてくれる人だ。





その後会議と交渉の連続で、ようやくホテルに戻った頃にはもう夜の8時を過ぎていた。



台北の街はネオンが鮮やかで、窓の外には異国のきらめきが広がっている。

それをぼんやり眺めながら、私はため息をひとつ落とした。




「桜庭、お疲れさま。夕飯、ホテルのレストランでどう?」


「……そうだね。あんまり外に出る元気は残ってないし」




二人でそうすることに決め、一度部屋に戻って着替える。

それから私は、相楽君とレストランで待ち合わせをした。


彼が予約しておいてくれた静かなレストランは、照明が柔らかく、落ち着いた空間だ。



テーブルに並んだ料理は、台湾料理をベースにしたコース。

小籠包や海老の炒め物、繊細なスープが、疲れた体にじんわり染みこんでいく。



少しお腹が満たされて、落ち着いたところで相楽君が仕事の話を切り出した。



「今日の交渉、本当によくやったと思うよ。なんか一つ成長したような気がしない?」


「でも正直、かなりきつかった気がする…」


「…それは…。そうかな、とは…ちょっと思ってたけど…」



「…えっ…」


「でも逆に、横から口を挟まない方がいいかもなって。桜庭が最後までリードしたいって顔してたから」


「……」


「ちゃんと、やり遂げたかったんだろ?」





――なんだろ…。


凱斗なら「もっとこうした方がいい」とか「俺が代わりにやる」とか、強引に助け舟を出すところ。


けれど相楽君は、こんな時黙って支えることを選んでくれる。それがなんだか、心地よく感じる。




「……ねぇ、私ってそんなに顔に出てる?」


「出てた。俺、ずっと見てたから」


冗談のつもりで聞いたのに、意外な相楽君の真顔に

その一言が、胸でどくんと大きく鳴った。


グラスを持つ手が震えそうになり、慌てて白ワインを口に含む。


「でも…そうやって無理するの、前からだよな」


「…えっ、そんな事ない…」


「いや…初期の頃の橋田さんのプロジェクト覚えてる?

…タスクの進捗共有してなくて、締切直前に「できませんでした」って…めちゃ叱られたやつ。

でも、俺にはわかってた。桜庭が一人で抱えて無理してるって…。なのに“助けて”って、絶対自分からは言わないもんな」




私は思わず、相楽君から視線を逸らした。

あの頃のことを、まだ覚えてるなんて――。





あの日…私は六本木の映画館で、凱斗(かいと)に再会したんだった…




私の沈黙を破るように、相楽君が続けた。


「俺はただ…桜庭に、一人で無理してほしくないんだ。リードする時は全力で支えるから。だから…困った時はちゃんと俺に頼って」



真っ直ぐな瞳が、正面から私を射抜く…



ワインの余韻と彼の言葉が絡み合い、胸の奥で静かに揺れが広がっていく。

仕事の事だってわかっているのに、私はその安心感に寄りかかりそうになっていた。


「…あ…なんか…うん。私ももう少し、頑張らないとね…」


「桜庭は…十分頑張ってるよ…」


そう言って笑みを浮かべた相楽君は、最後の白ワインを一口流し込む。




食事を終えたあと、相楽君が「ちょっと寄っていかない?」と誘ってくれて、ホテル最上階のラウンジに足を運んだ。



大きな窓一面に、広がる台北の夜景。

無数の灯りが瞬いて、遠くに台北101の姿が見える。



ドラフトカクテルを片手にその景色を見つめながら、私はふと、凱斗の顔を思い出した。




あれから凱斗…どうしてるんだろう…




麻布の凱斗のタワマンの近くで別れて以来、会っても無ければ話せてもいない…


“自分であんなこと言っておいて”と、こっちから連絡するのもためらっていた。



「……ねぇ、相楽くん…。大事な人に、素直になれない時ってどうしたらいいのかな…」



思わず口にしてしまいふと、彼に気軽に尋ねる事ではないと気付く。




だって相楽君はいつも完璧で、感情なんて面に出さない人だ。

私のこんな個人的な悩みに、どう答えろというのか…。



…でもそうしてしまったのは、この窓の外に広がるきらめく夜景と、グラスの中で琥珀色に輝くドラフトカクテルのせいなのかもしれない。



普段なら絶対に口にしない感情が、堰を切ったように溢れ出してしまった。

仕事と恋愛と……。同じ仕事をしている彼の答えが、今の私には必要だった。




相楽君は少し戸惑うように目を細めると、その手のグラスを静かに側に置く。




「大事な人って……胡蝶さんのこと、だよな」


「……うん」





夜景に視線を向けたまま、小さく頷く。


彼はしばらく黙っていた。


…そして、少し考えてから口を開く。



「桜庭はさ…自分で全部抱えようとするし、強がって“平気だよ”って笑うから、周りはわかりにくいんじゃないかな…」


「……」


「本当は誰よりも繊細なのに、それを隠すから。きっと胡蝶さんも、花凛の本音を掴みきれてない気がするんだ…だからもう少し素直になった方がいいかもな…。例えば嫌な事は嫌だって、はっきり言わないと…」


それは胸に突き刺さるような、相楽君の言葉だった。

相楽君は、ずっと一緒に仕事をしてきた人だ。


だからこそ、見抜かれてる…

私が星野さんの事で、悩んでいる事に…


「桜庭が、気にしてるのってもしかして、SNSで騒がれてる事?」


「…うん…。なんか…どう信じればいいのか、もうわからなくて…」


「彼はなんて?」


「あれは誤解だからって…気にするなって…」


「そうなんだ…」


「私、悩んでる余裕なんてないのに…最近仕事にも支障が出て来てるの…」


「まぁ…それはなんとなく、気付いてはいたけど…」


「……」


「桜庭はさ?…これからどうしたいの?胡蝶さんと…」


「えっ…」


「どうしたいって…どうすればいいんだろう…」




私の声が、躊躇いがちに震えてる。


相楽くんは、いつものように冷静な目で、だけど優しく私を見つめていた。




「どうすればいいか、じゃない。桜庭がどうしたいか、だよ」




彼の言葉は、私の個々の中で波紋のように広がっていく。


私はずっと、どうすればいいかばかり考えていた。


どうすれば凱斗を信じられるのか、どうすれば仕事に集中できるようになるのか。

他人に与えられた正解を、探すことに必死だった気がする。




「…私…」


私は、初めて自分の心に問いかけた。


これから先、私はどうしたいの…?





「もう、凱斗の事で悩みたくない…」


その言葉が、ふと自分の胸の奥に沈んでいく。


まるで長い間蓋をしてきた、痛みや不安がようやく溶けだしていくみたいな…


私は凱斗を、ずっと信じたいと思ってきた。

彼の事が大好きだった。



でも、彼の隣にはいつも星野さんの存在があって、噂や視線が私を惑わせる。

そのたびに“凱斗を信じられないのは私が弱いからだ”と、自分を責め続けてきた。



今までのどうしようもない自分に、思わず涙がこぼれる…

こんなにも凱斗の事で動揺してる自分。


ホント…カッコ悪い…。



仕事仲間の相楽君に、こんな情けないとこ見せて…



―――その時だ。



不意に差し出されたハンカチが、私の視界を覆う。


「…桜庭」



低く穏やかな声。


相楽君は、私の涙を拭うようにハンカチをそっと添えた。




「もう…これからは無理して強がるの、やめな…」




彼は窓の外の夜景を見ながら、淡々と口にする。

胸の奥にずっと隠していた気持ちを、見透かされた気がして息が詰まる。




「相楽君…」


「大丈夫。全部俺が助けるから」




その言葉に、思わず我に返り涙が引っ込んだ。


「…あぁ…なんか…ごめんね…そんなプライベートにまで気を使わせちゃって…」



私は、彼から受け取ったハンカチでそっと目頭を押さえる。


いくら同期だからって甘え過ぎだ。

こんなところで、凱斗の事相談しちゃうなんて…






「…俺……お前の事が、好きなんだよ……」






その時、咄嗟に彼の口から零れ落ちた真剣な声。



一瞬…相楽君が何を言っているのか、よくわからない自分がいる。



「え?」



「別に…俺は、返事が欲しいわけじゃないんだ…」


「…あ…」


「だって、胡蝶さんのこと…本気で好きなんだろ?」


その声は不思議なほど優しくて、胸の奥を掴まれた。


「……」


「いいんだ。俺は、困ったときは助けるし、桜庭が泣きそうなときは支える」




そう言って彼は、少しだけ座り直して私から距離を取った。

さっきまで近すぎた温度がふっと薄れて、息が楽になる。



「……でも、それって…」


「うん。胡蝶さんと付き合ってるのも知ってる。俺じゃ敵わないって、何度も思った。

でも…桜庭の事…俺ほっとけないから…」



思わず私は、言葉を失った。


「……相楽君…」


あまりの驚きに、名前を呼ぶのが精一杯だ。




思わぬ彼の告白に、私は必死で次の言葉を探した――――




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