第56話 落ち着かない心
なんだか鼓動が早い。
胸の奥がざわざわして、落ち着かない。
熱いシャワーを浴びて、少しでも気持ちを切り替えようとしたけど、逆に身体の芯まで火照ってしまった。
濡れた髪をタオルで軽く押さえただけのまま、私はソファの上に膝を立てて座り込む。
ふわりと広がる蒸気の匂いと、まだ乾ききらないシャンプーの甘い香り。
テーブルの上には、買ったままのコンビニのペットボトルのお茶が置かれている。
大きなテレビは、お兄ちゃんが買ってくれたもの。
リモコンを無意識に手に取って、YouTubeをつけてみた。
選んだのは、登録しているリラクゼーション音楽のチャンネル。
海の波音と、静かなピアノの旋律が流れ出す。
でも…音が優しいほど、余計に心が静まらない。
頭の中は、今日のことばかりでいっぱいだ。
凱斗今頃どうしてるんだろ…
あのまま振り返りもしないで、タクシーに乗ってしまった。
「……璃子に、電話しようかな」
スマホを手に取ってみたけど、思わず開いてしまうLINEニュース。
そこには、凱斗の隣で笑顔を振りまいている星野さんの姿があった。
それを見て、小さな棘が刺さるかのように胸が痛む…
その時、呼び出し音が心臓の音と重なるようにして鳴り響いた。
――――相楽君だ…。
「……あ、相楽くん?」
慌てて髪をかき上げながら通話ボタンを押す。
受話口から聞こえてきたのは、仕事モードの落ち着いた声の相楽君だ。
『桜庭、今大丈夫?』
「うん、大丈夫。どうしたの?」
『台湾出張の件なんだけどさ、クライアント側から正式に依頼が降りた。で、リードは桜庭に任せたいって話になってる』
「……私に?」
『あぁ。資料作成も現地調整も、桜庭の強みが一番生きるだろうって上も見てる。俺はサポートに回るから安心して』
相楽の言葉は、いつも簡潔で無駄がない。
その中にさりげなく「安心して」という一言を差し込んでくるのが、彼らしい。
「ありがとう、助かる…。正直、ちょっと今……落ち着かなくて…」
つい口にしてしまってから、しまったと思った。
家でくつろいでいたせいで、思わず口が滑る…
けれど彼は追及せず、優しい笑うような声で返した。
『そういう時こそ、仕事に集中すればいいんじゃないかな。桜庭なら大丈夫だよ。俺が隣でちゃんとフォローするから』
ほんの一言なのに、胸のざわつきが少し和らいでいく。
相楽くんは私が弱っている時、決して踏み込みすぎずに支えてくれる――その距離感が、今はありがたかった。
「……頼りにしてるね」
『あぁ、任せて』
そう笑って言った相楽君の通話を切った後も、胸の奥にじんわりと残る優しさがなかなか消えなかった。
彼の声は落ち着いていて、冷静で、それでいて優しい。
なんだか泣きそうだ。
凱斗に、あんな風に感情的になって…
自分の事も、思わず責めてしまう。
「……私、何してるんだろ」
あんなニュース…凱斗を信じていれば、なんてことない事のはずだ。
でも、好きな人のそんな状況を、黙っていられる人がいるんだろうか…
ソファの上に転がったまま天井を見つめていたけど、良くない事ばかり考える。
…気持ちが揺れて定まらない…
ふと、スマホの画面に映る連絡先をスクロールして、指が止まった。
――璃子。
私は迷うことなく、発信ボタンを押した。
『はいはーい♡』
「今、家?」
『そだよー』
「今、電話してて平気?」
『いいよ!それよりさ…花凛大丈夫なの?今日LINEニュース見たよ…』
「さっき…凱斗とご飯食べてたんだけど…」
『えッ?!なんか言ってた??あの秘書の事!』
「私、もう凱斗に”もう無理”って言っちゃった…」
『えっ?ついに?!』
「なんか…これ以上見てられなくて…きつい…」
『っていうか当たり前だよ!!何度目なのあの女!大して綺麗でもないくせに、美人秘書って!!』
「そう言う問題じゃ…」
『ウザいのよ!毎回毎回これ見よがしに、何なの?!こっちに喧嘩売ってんのかって話!!』
「……」
『花凛が許しても、私が許したくないよ!こっちからもう結構ですって、凱斗に言ってやれ!!』
「璃子私ね…私来週台湾出張なの。今度のリード私なんだ。さっき相楽君から連絡来た…」
『えっ?!こんな時に、大丈夫なの??」
「集中してちゃんとできるか、不安しかない…」
『相楽氏は、一緒?!』
「うん。サポートしてくれるって…」
『なんかさ…こんな事言ったらなんだけど、相楽氏ってホント安心感満載!!
いっそのこともう、乗り換えちゃいなよ」
「別に仕事で頼りになるってだけだよ…相楽君はそんな感じじゃ…」
『でも、なんか凱斗よりしっくりくるわ。性格も花凛に合ってるような気がする』
「相楽君が??」
『なんか、安心感あるじゃない?あの人。きっと旦那さんにするにはいいタイプかもね』
「……」
『まぁ、黒瀬先輩もそう言っててあんなだったから、正直わかんないけどさ』
「そう言えば、亨に会った…」
『え?何?!偶然??』
「昨日大原先輩の結婚式の二次会でと、今日仕事で…」
『仕事?!』
「うん…昨日もびっくりしたけど、今日はもっとびっくりした…」
『大原先輩の二次会って事は、朔も一緒?』
「うん」
『ふぅん…』
「なに?」
『ううん、別に…』
「私…凱斗と星野さんの事気になって、仕事どころじゃないの…ミスばっかりで…」
『当たり前だよ…』
「やっぱりすぐ、凱斗に電話した方がいいかな…」
『ほっといてもかかってくるでしょ!こっちからかけるとか、負けた気がする!』
「……」
「とりあえず、ちゃんと食べて…何かあったらすぐ知らせて!」
『うん…ありがと…』
この後少しだけどうでもいい話をして、途中同居中のアオくんが帰ってきたから電話を切った。
―――私はそれから一週間後、台湾出張に出発する。
凱斗はあれから連絡をしてこない。
もしかしたら、最後に私があんな事言ったからどうでも良くなったのかな…
そんな不安を抱えながら、日本を離れる事になった。




