第5話 帰したくない夜
―――画面には、《Slack》の通知。
プロジェクトマネージャーの名前と、そっけない一文が画面に浮かぶ。
“来週のクライアント資料、今晩中に目通しておいて”
―――ほんの一行。
だけどそれだけで――週末の“オフ”は、静かに消えていく。
「…ごめん、すぐに確認だけさせて。」
スマホを見つめながら、私は凱斗に言った。
一瞬で、自分の頭が仕事モードに切り替わるのがわかる。眉間にしわが寄ってしまうのも、自分で止められない。
凱斗は側で私をじっと見たあと、ぽつりとつぶやく。
「ここでやれば?仕事。」
「…え?」
「資料見るだけだろ、それ。うち、Wi-Fiあるし。帰らなくたって、できんだろ?」
そう言って、何でもないように笑ったけれど、その目の奥にある寂しさに気づいてしまう。
凱斗は、私に“帰ってほしくない”んだ。
けれど、私がそれに甘えることを躊躇ってることも――ちゃんと分かってる。
「……じゃあ、ちょっとだけ…」
私がそう答えると、凱斗は少しだけ目を細めて微笑んだ。
「よし、りょーかいっ。」
そう言って立ち上がった凱斗は、キッチンに向かっていく。
おそらく、コーヒーでも淹れてくれるんだろう。
背中越しに聞こえてくるのは、グラスの触れ合う乾いた音と、コーヒーメーカーの作動音。
そして、心のどこかでくすぶる罪悪感と、凱斗の静かな優しさが胸に沁みていった。
ダイニングテーブルでノートパソコンを開いた瞬間から、私は一気に「仕事」に戻っていく。
送られてきた資料は、次週プレゼン予定のクライアント向け提案書。数字の根拠、構成の流れ、論点のすり合わせ――一つひとつ、抜けがないか確認しながら、PDFとExcel、PowerPointを行ったり来たり。
リビングには、凱斗が用意してくれたコーヒーの香りが、微かに漂ってる。
「俺も、ちょっと仕事するわ」
そう言った凱斗は、ソファの端に腰を下ろし、自分のノートパソコンを膝に広げた。
スウェット姿に着替え、スクエア型の黒いセルフレームメガネをかけた凱斗は、普段のCEO然とした雰囲気とは違い、どこか柔らかく見える。
彼のキーボードを叩く音が、私の集中を妨げることなく、静かに空間を満たしていくのが不思議だ。
暫くすると、そのキー音が止んでいた。
ふと顔を上げると、凱斗はソファにもたれかかり、片手を額に置いたままうとうとしている。
眼鏡を外したままの顔は、どこか無防備で、少年のように穏やかで――私は思わず手を止めて、その寝顔をダイニングテーブルの位置から見つめた。
この人は、私が「今」に戻るたび、こうして黙って待ってくれている。
そっと立ち上がって、音を立てないようにソファへ近づいてみた。
眠っている彼の額からこぼれた前髪に、静かに指を伸ばした――その瞬間…凱斗の手が、咄嗟に私の手首を掴んだ。
反射的に動いたその手は、ほんの一瞬、戸惑いを含みながらもとても力強い。
「ごめん…起こしちゃった?」
「……いや。逆。一瞬…夢かと思った」
目をぼんやりと開けた凱斗は、焦点の定まらないまま私を見つめている。
まるで寝起きの子供の様なその表情が、あまりにも無防備すぎて思わず笑みが零れた。
「ごめん。まだ資料、あとちょっとだけかかる。」
「……そっか。」
彼は私の手を放すと、その自分の手の甲をそっと口元に運んだ。
「終わったら、こっち来いよ。少しでも一緒に寝よう。」
その声に、さっきまでこわばっていた今日の自分の心が、ほんの少しだけ緩んだ気がする。
「あ…でも、凱斗、明日仕事は…?」
「明日、午前中打ち合わせ入ってないし、午後からオンラインで1件だけ。ずっと空いてる。」
IT企業のCEO――スケジュールは毎日流動的なのに、彼はあっさりと言ってのけた。
「本当に?」
「本当。オフィスにも行かない。佐田にも言ってある。」
佐田さんは、凱斗の右腕だ。
学生時代にアメリカ留学中に知り合った天才エンジニアで、起業初期から関わっている。もともとはAIとビッグデータ領域の技術畑だが、経営・財務センスにも優れ、現在は経営実務全般を担っていた。
私の中で “仕事したい”と“そばにいたい”が、心の中で綱引きをしている。
「……いいの?」
「いいに決まってるだろ。ていうか、こんな夜中に帰すわけないし。」
凱斗の声は落ち着いていて、でもその奥に、どこか拗ねたような響きがある。
「お互い、まともに会える時間なんてほんのわずかしかないんだから。……こういう貴重な時間無駄にしたくない。」
私は手の中に残っていたペンを見つめたまま、何も言えずにいた。
――そう。わかってる。
こうして一緒にいられる時間は、奇跡みたいに少ない。
それでも、さっきまでのわだかまりが、まだ胸のどこかに引っかかっている。
「……でも、なんか、さっきまで私たち…」
「喧嘩してた?」
凱斗が言葉を引き取って、ふっと笑う。
「……。」
「してたよ?俺も、ムキになってた。でもそれって、喧嘩するほど仲がいいって事だろ?」
そんなふうに、さらりと柔らかい言葉を返されると、もう、何も言い返せなくなってしまう。
「……じゃあ、いようかな…。」
消え入りそうな声でそう言うと、凱斗は嬉しそうに微笑んで、ダイニングテーブルの私の隣に腰を下ろした。
「よし。決まりな?」
「うん……」
その返事を聞いた瞬間、凱斗は思わず私の頭をくしゃくしゃっと撫でて、片腕でふわっと肩を抱き寄せた。
「はー。お前のせいで、俺としたことが、めっちゃ気ぃ使ったわ。」
少し乱れた前髪を直すふりをして、おでこを指先でつついてくる。
「ったく、ふてくされ姫のご機嫌取り、どんだけ大変だったか。」
「なにそれ…。そっちが怒ってたんだし。」
「そうだったっけ?」
小さく笑いながらも、思わずうつむいてしまう私に、凱斗の腕の力が少しだけ強く込められた。
こうしてると、やっぱりあのメッセージも何かの間違いだって思えてくる。だから、何も聞かなくて良かったんだって…。
会えない時間が、疑いを大きくしていくんだ。
「花凛…。」
「ん?」
「…あの、さっきの相楽って人さ…」
「相楽君?」