第4話 問い詰められない理由
大学に入ってすぐの頃、私は黒瀬亨と付き合い始めた。
彼は、私のトラウマの始まりだ。
亨とは大学の時、バイト先で偶然出会い、まさかの同じ高校の先輩だったことが判明した。
共通の話題が多くすぐに意気投合し、大学1年の夏、彼から告白されて付き合うようになる。
二つ上の彼は、華やかな凱斗とは真逆で、物静かな浮気とは無縁の人のように見えた。
そんな彼がある日、会社の女の先輩と、旅行に行っていたことがSNSで発覚する。
私が就職活動で忙殺されていた、大学3年の夏のことだ。
フォロワーがアップした写真で、その事実を知り、私はつい彼に聞いてしまった。
「ねぇ、この人誰? 他の人も一緒……だよね?」
不安を悟られないように笑顔を作り、なるべく穏やかに声を掛ける。
だって、こんなことは、初めてだったから――
でも彼は、視線すらくれずに冷たくつぶやいた。
「……俺、もうやっぱ無理だわ。花凛と別れたい。」
唐突に放たれたその言葉に、驚きで言葉を失う。
そして彼は一度ため息をつき、私の方を見据えた。
「…花凛ってさ、かわいいし優しいし、“いい子”なんだよ。
誰にでもだけどな。でもそれ、俺にはめっちゃきついんだって知ってた?。」
「え……?」
「俺のこと、疑う前に気づいてほしかったわ。
どれだけ他の男たちが、お前のこと見てるのか。どれだけ楽しそうに話しかけてくるか。
……お前、全く気づいてなかったよな?」
「それは……そんなつもりじゃ……」
「そんなこと、わかってるよ。でも俺には無理だった。自分のことには無頓着で――そんなのおかしいって、ずっと思ってた。けど信じてたよ。信じようとした。でもお前は、そんな俺を疑ってるけどな。自分の事棚に上げて。」
静かな声だった。怒鳴り声も、責めるような目もない。
ただ、心から疲れた人の目だった。
その後、彼がその女性を含めた同僚と、親睦旅行していたことを、共通の友達から聞かされる。
私が不安になったのは、結局自分のせいだった。
自分は忙しくて、まともに連絡さえ取っていなかったし、その旅行の事を聞いてもいなかったからだ。
亨は、旅行に行く前何度も連絡をくれていたのに。
二日前のLINEには「明日同僚と一泊で千葉にバーベキューに行くんだ!お土産買って帰るね。」
って…それに既読さえつけていなかった…
私は――ずっと後悔していた。
問い詰めなければ、何かが変わっていたのかもしれない。
私が信じていれば、済んだことだったのかなって。
彼はずっと何も言わずに、私を信じようとしてくれていたのに。
だから私は、あれから“これってどういうこと?”と聞くことができなくなった。
たった一度、問い詰めただけで――
私は、好きだった人を、手放してしまったから…。
好きな人を疑うことは、かえって自分から遠ざけてしまう。
その言葉が、呪いのように、私の心に深く刻まれた瞬間だった。
それに、あの時と同じなのは自分が忙しい事だ。
いや、今はそれ以上かもしれない。そんな自分に余裕のない私が、凱斗に何か言えるはずもなかった。
私にとって今凱斗は特別な人で、決して失いたくない人だ。
詮索や詰問することで、気持ちが離れていくのが怖い。それなら、ずっと我慢している方がマシ。
別に、凱斗のバックグラウンドが、好きなわけじゃない。
逆に、それが嫌なくらいだった。
だって凱斗と付き合っていると知られると、必ず言われる。
「ハイスぺ婚」だの「スパダリ」だの…
私は、それが本当に嫌だった。
そんな事で、凱斗を選んでいないからだ。
もし彼が事業に失敗したりしても、きっとついて行けると思うし、高価なプレゼントにも、全く興味がない。欲しいものなら自分で買えばいい。
高級なフレンチじゃなくても、凱斗とならカップラーメンでもおいしいし、海外旅行じゃなくて、ただのドライブでも本当に楽しいからだ。
向上心だってあるし、自分にもとても厳しい。
だけど凱斗はあんな風に見えて、とても他人には優しいから、周りに、男女問わず人が沢山集まってくる。
高校の時から、とにかく女の子にはモテた。
大学の時も、会えばいつも違う子を連れていた気がする。
―――その優しさが、今はどれくらい私以外の人に注がれているのだろう…。
でもそれを問いただせるほど、私は彼に愛されている自信もない。
問い詰めた瞬間、亨の時みたいに、その瞬間に終わってしまうかもしれないのだ…。
「俺、最近お前の考えてること、全然わかんない…。」
「……。」
「……はぁ。」
凱斗は、キッチンに両手をついたまま、ひとつ静かに息を吐いた。
深いため息――けれど、それは怒りでも呆れでもなくて、どこか諦めに似た憂いを帯びている。
俯いたまま少しの間動かずにいた彼が、ふと顔を上げて私の方を見た。
「なあ、花凛……」
少しかすれた声でそう言って、前髪の奥からまっすぐに見つめてくる。
「俺、なんかした? 怒ってるなら、ちゃんと教えてよ?」
部屋のエントランスから差し込む、淡い照明の下で揺れるその瞳は、困っているのに、私を気遣う色でも満ちていた。
「……最近、ホントわかんないんだよ、お前のこと…」
その声音が、あまりにも優しくて、胸の奥がきゅっとなる。
――ずるい。そんな顔されたら、まるでこっちが悪いみたいだ。
「ごめんなさい…。私…今あんまり余裕なくて…。」
そう小さな声でつぶやくと、凱斗はハッとして私の方に足早に近寄って来た。
凱斗は、私が座るソファの横に腰を下ろすと、両手でそっと肩を掴み、心配そうに顔を覗き込む。
「仕事か?またお前あんま寝てないだろ…。」
その声は思いのほか低くて、優しい。
間近で見る凱斗の顔は、本当に整っていて――正直、仕事で疲れた自分と比べてしまう。
凱斗の長い指先が、頬にかかる髪をそっと耳にかけてくれた。
その仕草に、心臓が鼓動を打つのを感じる。
間近で見る凱斗の顔は、本当に整っていて――正直、息が止まりそうだ。
彼の顔が、信じられないほど近くにある。
息遣いさえも感じられそうな距離感――
滑らかな肌は光を微かに反射し、影の部分とのコントラストが美しい。
高い鼻筋から続く緩やかなフェイスライン、吸い込まれそうなほど形の良い唇は、微かに開いている。
そして何より印象的なのは、こちらを見つめる少し潤んだ瞳だ。
温かみのあるブラウンの奥には、複雑な感情が揺らめいているように見える。
その視線は優しく、それでいてどこか物憂げで、見つめていると心が吸い込まれてしまいそうだ。
「……あ、もう帰らないと…こんな時間だ…。」
思わず立ち上がりかけると、凱斗は私の腕を掴みすぐに言った。
「泊まってけよ。明日、休みだろ?」
その言葉に返事をする間もなく、ポケットの中で、ガラスの小片が落ちるような澄んだ音と共に小さく震える…。