第3話 "彼"だと言えない私
高校生の頃、彼とはほとんど接点がないと思っていた。
大学の時、凱斗は二年くらいアメリカに留学していて、あまり顔を見ていない。
帰国してからも、同じ授業を取っていた教室や、学食で見かける程度だったし、時折自販機や生協で一緒になる事はあっても、挨拶程度で大した話をしなかった。
…でもなぜ昔、凱斗に番号を教えていたのかは、彼に言われて思い出す…
――――そんな事を、ぼんやりと考えていたその時だ。
「…花凛。」
聞き慣れた声に名前を呼ばれ、思わず振り返る。
そこにいたのは、スーツ姿の胡蝶凱斗だった。
モデルのようにすらりとした長身に、白いシャツと上質なパンツスーツをさらりと着こなしている。
上着は脱いでいるのに、シャツ越しに浮かぶ鍛えられた体つきが目を引いた。
こんなところで会うなんて――。
驚きで、私は一瞬言葉を失う。
「……なんで、いるの…?」
「今日会食だって言っただろ。今その帰り。うちのスタッフと、ちょっと飲み直してた。」
ふと奥を見れば、奥に凱斗の会社のスタッフが三人。
こちらに向かって、会釈してる。
それに私も小さく頭を下げてから、視線を凱斗に戻した。
視線が合った瞬間、凱斗の瞳がわずかに揺れる。
そして次の瞬間、その視線がゆっくりと――私と、向かいに座る相楽くんの間を行き来した。
空気が、すっと張りつめる。
「えっと……あ、こちらは同期の相楽くん。」
思わずそう言うと、凱斗が低く問い返す。
「同期?」
「初めまして。相楽と申します。」
相楽くんは立ち上がり、ジャケットの胸ポケットから名刺入れを取り出すと、丁寧に一枚を差し出した。
すると凱斗も、無言のままズボンのポケットから名刺入れを取り出し、一枚を相楽くんに手渡す。
そのやりとりは礼儀正しく、完璧に形式的だった。
けれど、空気の底に潜む緊張は、誰の目にも明らかだ。
「胡蝶…あ…えっ?もしかして…」
その名字を聞けば、誰もが凱斗の素性を知る。
「あ、友達なの。高校から一緒で…」
思わず相楽君に、そう説明した時だった。
「は?」
凱斗の目が、今度は私を睨みつけ、ますます気まずい雰囲気が流れる。
凱斗の家は大手ゼネコン「アークス・ホールディングス」の創業家で、国内外に子会社関連会社が数えられないほどあり、泣く子も黙る「胡蝶家」だ。
おまけに本人は全くそこから離れて、大学の時からITのベンチャー企業を立ち上げると、それが一気に軌道に乗り、”時代の風雲児”だと、メディアでもてはやされている時の人。
そんな彼が“私の恋人”だなんて――胸を張って言える自信は、今の私にはなかった。
だって、凱斗のまわりには、いつだって女の子の噂が絶えない。それを誰もが知っている。
SNSを見ればわかることだ。
仕事関連の華やかなパーティーや海外からの取材。彼はそれに流暢な英語で答え、時々テレビにも出る。
そんな凱斗に群がる女の子は、この世に五万といて、しかもモデルやバリキャリの華やかな人ばかり…。
帰りの電車で見かける、凱斗のSNSの中の女の子たちは、巻き髪もネイルもツヤツヤで凱斗の隣で笑ってた。
比べるつもりはなくても、どうしたって思ってしまう。
“こんな私が、あの胡蝶凱斗の隣にいていいの?”
スキャンダル慣れしたようなモデル体型の女優、インスタに出てくる“友達”という名の美人たち。
どこかでいつも、凱斗の周りにいる“キラキラした世界の人たち”と、自分を比べてしまう。
私の平日は、自炊も洗濯も不可。
外食orコンビニ食…
恋愛や趣味に割ける時間は極小で、予定もすぐ潰れる。
連絡が取れないと「消えた」と言われるほど、仕事の拘束時間は長い。
自分は、ただ仕事して、寝て、また仕事して――
たまに余裕ができたと思えば、疲れ切った顔で凱斗に会うだけ。
それでも仕事を辞めないのは、圧倒的なスキルアップと、若いうちに数千万規模のプロジェクトに関われる達成感があるからだ。
“時間”と“感情”の両面から消耗し続ける生き方。けれど、それを耐え抜いた先には、同世代では得がたいキャリアと自信があると信じている。
「あ…会社の人達、待ってるよ…。早く戻ってあげないと…。」
そう言った瞬間、凱斗は踵を返し、会社の人のテーブルの方に行って何かを言うと、今度は自分の鞄を持ってこっちに無表情で向かってくる。
まさかとは思うが…
「花凛、帰るぞ。」
「え?」
「相楽さんでした?すみません。こいつ、今日俺連れて帰りますね。ちょっと用事思い出したので。今度お詫びにおごります。」
そう言って、私のジャケットとバックを手に持つと、この腕を掴んで引っ張っていく。
あまりにも相楽君に失礼で、焦ってどうにかなりそうだ。
「あ…じゃあ桜庭またな。気を付けて…。」
相楽君も驚いて、凱斗の勢いに何も言えずに、私を黙ったまま見送ってる。
凱斗は、入り口の店員に声を掛けると、自分のスタッフと私達のテーブルの会計を全部自分が済ませ、通りに出てタクシーを止めた。
「ほら、乗れよ。」
凱斗は止めたタクシーに私を押し込むと、その横に当然のようにドカッと座る。
「すみません、麻布十番まで行って下さい。」
低い冷静な声で、運転手さんにそう告げると、凱斗はよほど怒っているのだろう―――
黙って肘を窓枠に軽く預け、手の甲をそっと口元に当てたまま、視線を外にやり、まったくこちらを見ようともしない。
「えっと…私のバックは…」
恐る恐る、凱斗の向こうにに置いてある、自分の鞄を取ろうと身を乗り出したら、こっちをちらっと見て、私のその手を掴み振り払う。
バックを取らせても、もらえない…。
麻布十番って事は、凱斗のタワマンだ。
明日は土曜日だから私は休みだけど、今の凱斗は、休みがほとんどない。
私が行くと迷惑なのでは…。そんな心配が頭をよぎる。
「あ…少ししたら私、帰るから…。」
「なんで。」
こっちも見ずに私に尋ねた。怖すぎる。どうしてこんなに、どんどん立場が弱くなっているのか…
「3,400円になりますね。」
運転手さんのその声に、今度はスマホで支払いを済ませると、降りる時も腕を掴まれ、今度は車から引っ張り出される。
「あ…私の荷物は、自分で持つよ…。」
ジャケットやカバンなど、私の全部の荷物を持ってる凱斗に申し訳なくて、声を掛けるが無視された。
麻布十番から駅徒歩4分のところにある凱斗のタワマン『THE AZABU BLAN』。
――地上45階建ての超高層レジデンス。
凱斗は、最上階のペントハウスフロアの角部屋に住居していた。
エントランスには、24時間コンシェルジュとドアマン常駐。
凱斗に引っ張られていく私を、みんな無表情で見て頭を下げる。
沈黙の専用エレベーターは、まるで針の筵…
部屋に着き、玄関の扉を開けると、凱斗は私の鞄とジャケットを、目の前にそのまま放った。
それからまた、腕を掴んでリビングに引っ張っていき、明かりもつけないままソファに勢いよく座らせる。
南向きの壁一面、ガラス張りの部屋から見えるその景色は、宝石を散りばめたように輝いていて、今の状況と真反対でとても美しい。
そして、東京タワーと東京湾が、凱斗に叱られている私を眺めてる…
「どういうつもりなのか、言ってみろよ。」
目の前には、仁王立ちして胸で腕を組んでいる凱斗が、私を見下ろしていた。
「だって…。」
「……。」
沈黙が怖い。
「凱斗、面倒くさいんじゃないかと思って…。」
「面倒?何が??」
その勢いで、私の隣に座ったから思わず後退る。
「別に、いいの。」
「だから何が?」
「私が誰といようが、気にしてくれなくても。」
「お前が男と、飯食ってるってこと?」
「だからあれは、会社の帰りに同期の…。」
「そんなの気にして、言ってないだろ。あそこがお前の会社の近くだって、よーく知ってるし!」
「じゃあ何…ずっと相楽君睨んでたくせに…。」
「なら聞くけど、俺ってお前の何?!」
「……。」
「なんであいつに、俺の事”友達”だって説明するんだよ。」
「凱斗も、他で言っていいよ。私の事は友達だって。」
「はぁ?もうお前話になんないだろ、それ。」
凱斗は怒って立ち上がると、冷蔵庫を開けペットボトルの水を喉に流し込む。
とりあえず、機嫌を直してもらって、ここからすぐに帰ろう…
その時、大理石のアイランドキッチンに、凱斗がペットボトルを勢いよく置いた音が、暗い部屋に響き渡った。
――一体、いつからだろう。
私が凱斗に対して、全く自信がなくなったのは。
華やかな世界にいる凱斗の事を、信じられない時もある。
いろんな人にSNSで匂わせをされて、メディアで噂になる事もしょっちゅうだ。
生活時間が不規則で、ちゃんと会えるのは三週間に一度くらい。
それに、前見てしまった。
見たくなくても目に入ったそれ…
三か月くらい前の事だった。
珍しく凱斗に時間ができて、急に食事に行くことになり私がここに泊まりに来た時だ。
夜中目覚めた私は、水を飲んだ後、ソファから東京タワーを見ていた。
仕事の事で、考え事をしていたせいか、眠りが浅かったのだろう…
その時ふと、目の前のセンターテーブルの上に無造作に置かれた、凱斗のスマホが小さく震える。
暗闇に光るそれにふと視線が行き、画面に出たメッセージが目に入った。
【次いつ会えるかな?素敵な時間をありがとう♡もう会いたい♡】
【凱斗さんの香水の匂い、まだ残ってる気がするの♡彼女さんには、秘密にしてあげるね。】
それぞれ、別の女の子からのメッセージ。
スマホの画面に映る言葉が胸に刺さる。
――確かな違和感と痛み。
だけど、今はその現実から目を背けたい。
窓の外には鉛色の雲が空を覆い、まるで私の心と重なっているようだった。
それから急にかかってきた仕事の電話に応じ、言い訳をして逃げるように凱斗の部屋を後にした。
問いただすこともできたはず。もしかしたら、一瞬の誤解かもしれない。 そんな考えが頭をぐるぐる巡り、私は元カレの事を思い出していた。
…私には、それができない理由があるのだ。