第2話 彼とは偶然の再会で
私には付き合ってもうすぐ二年になる彼がいる。
名前は、胡蝶凱斗。
彼は、高校からの同級生だ。
でも私は入学して半年ほどで、すぐにアメリカに留学し、戻ってきたのは高三の夏。
だから、高校ではほとんど口も聞いていない。
彼は、大手ゼネコン「アークス・ホールディングス」の御曹司で、天性の魅力を持つ“人たらし”だ。
学校でも、小学校からのエスカレーターだから、いつも男女問わず友達に囲まれ、私とは全く無縁の人だと思っていた。
身長185センチのスラリとした長身で、オシャレで、華やかでいつも違う女の子を連れている。
―――そんな印象しか、持ってなかった。
大学を卒業して、二度と会う事はないだろうと思っていたのに、思わぬところで、偶然再会する。
実は私には、深夜映画を見に行く趣味があった。
いつの頃からだったのか、はじまりはもう覚えていないけれど、嫌な事があると、悲しい映画を必ず一人で見に行き、泣いてスッキリする。
そうすれば不思議なほど心が軽くなり、前を向けるような気がした。
――六本木にある、“ミッドナイト・ルミエール”。
そこは、ただの映画館じゃない。
上映されるのは、古くてほとんどがモノクロの映画ばかり。
でも、この映画館が特別なのは、どの作品も胸が締めつけられるほど切なくて、哀しい物語ばかりだからだ。
ハッピーエンドでは救われない、語りきれない心の痛み。
そんな私の気持ちに、そっと寄り添ってくれる場所――
…それが、私の“心の避難所”だった。
その日私が見たのは「Only You, Always」~『確かにずっと、君だけを──』という洋画で、一人の人を愛し続けた男性作家が、誤解されたまま亡くなる物語だった。
自叙伝が数年後遺作として出版され、元恋人は彼が本当に自分を愛していたのだと知るが、彼はもうどこにもいない。
二人で過ごした日々に思いを馳せ、涙すると言うあらすじだ。
その日は入社して間もないころで、私は会社で思わぬ失敗をしてしまう。
それを、先輩にこっぴどく叱られ、同期の相楽君が食事に誘って慰めてくれた。
大丈夫なふりをして、一度は家に帰ろうとしたものの、足は映画館に向く。
その映画の上映前、私が一人ロビーでパンフレットを眺めていたその時だ。
「…桜庭?」
聞き覚えのある声に顔を上げると、そこに立っていたのは、胡蝶凱斗だった。
少し伸びた髪に、かつての甘い顔立ちはそのままに。けれど今は、どこか大人の余裕と色気を纏っている。
しかも珍しく一人でこんな真夜中に、彼が来そうもないこの場所に。
「胡蝶君?…びっくりした。久しぶりだね?」
「あ、もしかしてこれ見るの?」
「え、あ、うん…」
あまりにも驚いて、言葉が何も浮かばなかった。
まるで悪戯が露呈した子供の様に、私は彼と目を合わすことができず、思わず下を向く。
すると凱斗は、私の隣に、なんのためらいもなく腰を下ろした。
「久しぶりだな。元気だった?」
そう言われて、思わず彼の方を見る。
…そばで見ても、相変わらずの整った顔立ちだ。
前髪の隙間からのぞく瞳は、どこか無防備で、見つめられたわけでもないのに、息を飲んでしまった。
本人にそのつもりがないのが、なおさら厄介だ。
蜂蜜を溶かしたような、肩にはかからない程度のミディアムレングスが、彼の完璧な輪郭をやわらかく縁取っている。
スーツ姿にも絶妙に馴染み、彼の持つ都会的な雰囲気を引き立てていた。
「あ、うん。胡蝶君も?」
「あー、俺はどうかなぁ…。」
「え?」
「うそ。冗談。」
そう言って彼は、子どもみたいな顔で笑った。
無邪気さと優しさが混ざっていて、つい心を許してしまいそうになる。
それから私は、上映時間を確認しようと腕時計を見た。
「ねぇ。」
「えっ?」
「これ終わったら、二時過ぎない?桜庭、どうやって家帰るわけ?」
「タクシーあるでしょ。」
そんなの、考えればわかる。
この時間帯なら終電はもうない。
すると、凱斗は私に思いがけない提案をした。
「これ見終わったら、俺とお茶しない?」
そう言いながら、彼がちらりと手首に視線を落とす。
黒いレザーベルトに漆黒の文字盤、ローズゴールドの縁取りがほの暗い光を受けてやわらかく輝いた。
――ゼニスのクロノマスター、トリプルカレンダー。
若さと知性、そして育ちの良さまでも香るようなその一本は、彼に完璧すぎるほど似合っている。
その腕を、膝に下ろしたその瞬間、ふわりと香りが立ち上った。
後から知ったけれど、トム フォードの「ノワール・エクストリーム」だったらしい。
落ち着いたウッドとスパイスの中に、かすかに甘く濡れたような残り香。
夜を思わせるその匂いに、思わず息を止めた。
…本当にずるい。
こんな時間に、こんな場所で、その香りは反則だ。
「二時過ぎに?」
「この辺、朝まで店空いてる。久しぶりに会ったんだし、お茶くらいならどう?」
「あ…うん。まぁ少しなら…明日休みだし。」
「じゃ映画終わるの、俺待ってるわ。」
「え?胡蝶君は見ないの?これ2時間もあるんだよ?それなら別に待っていなくても…」
映画を見ないのなら、ここにいる理由が浮かばない。
…“それならまた今度”と言いかけたら、彼は手の甲をひらひらさせ“行ってこい”と。
私はそんな彼に首を傾げながら、一人でシアタールームへと足を踏み入れた。
――こんな時間に、どうして彼がここにいるのだろう。
どうやら彼は、映画を見るわけではなさそうだ。
「ま、いいか。」
そんな事を考えながら、私は自分の席を見つけ、そっと腰を下ろす。
隣には誰もいない。この空間では、誰もが孤独で、誰もが自由だ。私はゆっくりと瞼を閉じ、一度深く息を吸い込んだ。胸の奥に閉じ込めていたあらゆる感情が、無防備なまま解き放たれていくのを感じた。
それから一人で見た映画は、予想通りにとても悲しい物語だった。
とめどなく泣くと、なぜか不思議なほど心のもやもやが、すっきりする。
エンドロールが流れ、シアタールームが明るくなると、私はゆっくりと立ち上がり、ロビーへと足を踏み出した。
――そこに腕を組んで立っていたのは、やはり胡蝶凱斗だ。
彼は片方の眉を少し上げて、私の顔をじっと見つめた。私が泣いたことに気づいたのだろう。
「……終わった?」
その声に、私は小さく頷く。
こんな時間に、本当にここで待っていた。
その事実に、胸が微かに音を立てる。
それから彼は、シアターからすぐそばにある、深夜営業とは思えないような、かわいいカフェに、私を連れて行ってくれた。
『カフェ・ドルチェ』は、深夜なのに若い人たちで賑わい、カラフルな内装がおしゃれで気分が上がる。
焼きたてのフレンチトーストは、添えるアイス(抹茶、チョコ、バニラ)を選べる人気メニューだ。甘い香りと柔らかな灯りが、今日一日の切ない感情をそっと包んでくれた。
そこではお互いの近況を話したりして、時間はあっという間。
懐かしいと言うほど共通点もなかったはずなのに、旧友との再会は意外と楽しい。
――時計は三時半を回り、さすがに眠くなってくる…。
「私、そろそろ…。」
「桜庭、お前高校の時と番号変わってない?」
そう言われて、彼は自分のスマホをスクロールさせ“この時から”と画面を見せる。
そこには昔の番号の“桜庭花凛”の名前。
アイコンもプロフィールも何もついてない。
「私…大学の時、番号変えたの。これ高1のときのだよ。まだ消してなかったの?」
「うん。何となく…。」
「大学の頃、ほとんど話してないもんね。聞いてくれても、よかったのに。」
「あ、俺も大学の時は、二年くらい留学してたし。日本にいなかったんだ。」
「あ、そっか。」
「じゃあさ、LINE交換しようぜ。俺から送ってもいい?」
「あ、うん。じゃあ私も追加する。」
「そっち、QRコード開いて?」
言われるがままスマホを操作すると、画面の中で新しく追加された凱斗の名前が新しく表示された。
送られてきた、シンプルな“Looking forward to it!”のスタンプ。
「きたきた。」
そう言って笑いながらふと顔を上げたら、凱斗が黙ったまま私をじっと見ている。
「桜庭って、全然変わってないな…。」
「え…見た目?」
「それもあるけど…雰囲気。なんか、昔のまんま。」
「成長してないって事?」
「そんなこと、言ってないだろ。」
「…胡蝶君は…なんか変わった。」
「え?どんなふうに??」
彼は少し焦ったように、私に尋ねて来る。
どちらかというと、浮ついた感じに思ってたけど…。
「ちょっと、大人になったかな。」
そう言って笑ったら、その瞬間、二人の間に流れた空気がまた動き出したような…
そんな気がした。まるでこれから何かが始まるかのように――――
それから凱斗はマメに連絡をくれるようになって、私は彼と時々会うようになった。
それから三か月後、私は凱斗に思わぬことを告げられる。
――――高校の時から好きだったんだと…。