第10話 彼との土曜日
凱斗の仕事の打ち合わせが順調に終わり、二人で恵比寿にランチに行くことにした。
住居者専用のエレベーターで、駐車場まで一緒に降りる。
そこの高級レジデンスの駐車エリアは、どこか無機質で静まり返っていた。
数えきれないほどの高級車が並び、天井のLEDライトが、鏡のように磨き込まれた車体に冷たい光を落としている。
その一角に、凱斗の愛車たちがずらりと5台。
それぞれ違った個性を放つハイエンドなラインナップが、整然と並んでいた。
…その一つの…マットブラックのメルセデスG63。
凱斗は無言でポケットからキーを取り出し、親指で軽くボタンを押す。
……ピッ。
その瞬間、沈黙を破るように、その車のランプが点滅し、独特のロック解除音が地下空間に響いた。
ヘッドライトが二度淡く光り、まるで目を覚ましたかのような気配を纏う。
無骨な角張ったボディ。
艶を抑えたマットな質感に、ブラックアウトされたグリルとホイールが威圧的で、それでいてどこか洗練されている雰囲気だ。
「……今日は、こいつだな」
凱斗はそう呟くと、キーを握ったままG63に近づき、力強くドアを引く。
「花凛、乗って?」
凱斗に促され、私は助手席のドアを開けた。
その瞬間、重厚なドアの閉ざされていた空気がふっと動き、革とわずかに残る香水、そして高級車特有のエレクトロニクスの匂いが微かに立ち上る。
私は漆黒のナッパレザーシートに腰を下ろし、ドアを思いっきり引いて閉めた。
―――そして車は、ゆっくりと走り出す。
正直車なんて、私にはどれも同じに思える。
だけど、凱斗は車が大好きで、実家にも2台置いてあった。
こういうところが男の子なんだなって思うと同時に、一台で十分じゃない?とも思ったり…。
ナンバーにもこだわりがあるらしく、全部「510」。
これは、凱斗の誕生日が5月10日だから。
特にお気に入りなのは、ポルシェ911らしい。
「あれ?なんでポルシェだけナンバー922なの?」
突然思いだして、聞いてみる。
「あぁ…922?あれはポルシェ好きな人しか、まず気づかないんだけどさ」
私が小さく首を傾げると、彼はエンジンをかけながら続けた。
「いまの911、現行モデルは“992型”って呼ばれてんだけど――その中でもGT3とか、ガチで走りを追求してるモデルは、開発段階で“922”ってコードが使われてたんだ」
「へぇ…」
…って言ってもよくわかんないけど…。
コードって何??
「つまり、"分かる人だけ分かる"ってやつ。ターボSとかGT系で“922”つけてるやつは、だいたい本気で走りにこだわってると思う」
「……」
「まぁ、…俺はそこに一捻り加えて“9”はポルシェ、で“22”は…お前の誕生日、22日で」
「え?私?」
「うん。お前。2月22日じゃん」
「私、凱斗のお母さんの誕生日かと思ってた」
「やべ!ほんとだ!922!気づかなかったわ!」
凱斗はそう言うと、あどけない笑顔で目じりを下げた。
彼は、家族とも仲がいい。
お義父さんは一時期良く喧嘩してたみたいだけど、最近は良い相談相手にもなってくれるって…。
「そう言えば最近乗ってないな…。この間、朔の茶会に行った時だから…1か月前か」
朔ちゃんは、凱斗の幼なじみだ。
二人は幼稚園の頃から一緒で、彼と私は、学部も学科も同じだった。
大学時代、同じゼミで席が隣だったこともある。
実家は、日本茶道界の名門「表久世流」の家元本家で、
現在は若宗匠として、年に数回の正式な茶会で主茶を担当していた。
見た目がアイドルみたいで、おばさまたちに大人気。
たまにテレビにも、出ているらしい。
凱斗は、その付き合いで時々茶会にも参加してる。
「Kinoeでいいよな?今日のランチ」
「予約したの?」
「うん。お前がランチ行くって言ったから」
「あ…ありがとう…」
凱斗はこういう時、本当に手際がいい。
Kinoeは、うちの近くのイタリアンレストラン。
「土曜だし、直前予約厳しいかなぁって思ったんだけど、個室空いてるって」
「そっか」
「先に着替えてランチして…その後、駅のとこのスーパーで買い物して、夕食は俺な?」
「え??凱斗が作るの??」
「だって、花凛料理苦手じゃん」
「苦手じゃないよ。時間ないだけ」
「ふーん」
「ほんとだってばぁ!」
私が意地になってたら、凱斗はちらっとこっちをみた。
「まぁ、別に一緒ならなんでもいいよな。カップラーメンでも」
彼が、ふっと笑いながら何気なく言ったその言葉に、私は咄嗟に反応した。
なんだか胸の奥が、じんと熱くなるような…そんな感覚を覚える。
凱斗も同じように、そう思ってくれてるってことが、何よりもうれしい。
なんだろ…。
忙しくて、ずっと忘れてたこの感じ…
なんだかちょっと感動した。
思わず泣いてしまいそうだ…。
黙ったままの私を気にした凱斗が、ふと助手席の私の方に視線を送る。
「え?何??カップラーメンが嫌??」
「違う…」
「いやっ…どうした?」
潤んだ私の目に気づいて、凱斗がちょっぴり焦り始めた。
それから、手のひらをそっと私の頭の上に載せて大丈夫か?って…
私はそれに小さく頷いて返事をした。
――――大丈夫じゃないかもしれない。
いつからだろう…こんなに自信がなくなったのは。
小さい頃から勉強ができて、周りからは「花凛ちゃんもお父さんと同じ弁護士になれるわね」って…そう言われて育った。
だけど、その期待が大きければ大きいほど、何かが違うって…ずっとそう思っていた。
高校生になって、大好きなアメリカに留学してその自由さに圧倒される。
その全てが魅力的で、大胆で本当にあの2年間の生活は楽しかった。
このまま、ずっとアメリカで暮らしたい。そう思ったほどだ。
日本に戻って見れば、待っていたのは競争社会だった。
そして“自分の道を行く”と決めたその日から、待っていたのは就活だ。
その為のアルバイトは、うちのコンサルでの長期インターン。
そこで出会ったのが、亨だった。
私が大学1年生、彼が三年生の時だ。
彼は当時すでにそこで、リサーチアナリストのバイトリーダー的ポジションにいて、話しかけやすい穏やかな先輩だった。
でも彼は、「外資のギラギラした感じがあわない」って言い、うちではなく日系の企業で内定を取った。
それからは、とても楽しそうに仕事をしていたのを覚えている。
その頃同時に、私の中で少しずつ膨らみ始めたのが「自信の喪失」だ。
周りは、優秀な相楽君のような人達ばかり。経験も体力も知力もどれをとっても、私が一番ダメに思えて、今ではそれが、どんどん私を追い詰めている。
凱斗にも…素直になれないほどに…。
「凱斗…」
「ん?」
「…私…仕事やめちゃおうかな…」
「……」
咄嗟に感傷的になって言葉になった。
このところ全く余裕がなかった私は、久しぶりの穏やかな休日に心がほぐれ、思わず弱音が出てしまう。
凱斗は突然思わぬことを聞かされて、軽く目を見開いてこっちを見たけれど、すぐに視線を前方に戻した。
言葉を失った彼は、この後なんて言うだろうか…。
同級生の凱斗と再会したころは、まだ自分が、同じ場所にいるとそう思っていた。
けれど今は…。隣に並ぶ資格さえないような気がしてる…
凱斗は、片方の手をハンドルから離し口元に当てて、何かを考えているようだった。
一瞬車内の空気を換えようと思ったけれど、気の利いた言葉が私には何も浮かばない。
それどころか、どんどん枷が外れる。
「私…」
「うん…」
「もう疲れた…」