Sigrún
月だけが私たちを見ていた。
王の墳墓で、私は死んだ王に抱かれている。
この奇跡を一体誰が想像できようか。
もしもヘグニの娘がこのようにふしだらなことをしているだなんて知られたら、きっと非難を受けてしまうことでしょう。
けれど誰の想いも今は関係ない。
この胸はかつてのように幸福で満たされているのだから。
――ああ、私、この夜になら死んでもいいわ。
ヘルギの死から何年が経ったのだろう。
弟は立派にセヴァフィヨルの王としての責務を果たし、国は一層豊かになった。
それは大変すばらしいことだ。死んだ父ヘグニもヴァルハラで喜んでいることだろう。
だというのに。
私の悲しみが薄れることはなかった。
どれだけ金銀宝石で着飾ろうと、どれだけ人々が幸福になろうと、
だからといって、愛する人を失った私の心が晴れるわけではない。
――夫を殺したのは、私の実の弟だった。
私の両眼からは、毎夜しとど涙が流れ落ちる。
私はあの日、ダグがヘルギの死を伝えに来た時に、悲しみのあまり心臓が破裂して死ぬべきだったのだ。
生きながらえたところで、私は彼以外を夫とするつもりはない。
だというのに……。
(私が死ねば、きっとダグは悲しむわ)
今じゃ私の唯一の肉親となってしまったダグ。かわいい弟。かわいそうな弟。
私が大人しくヘズブロッドと結婚していれば――ヘルギと出会わなければ――こんなこじれた関係になることもなかったでしょうに。
「悪いのは私。ダグは悪くない」
何度言い聞かせても、涙は枯れることなく流れ続けた。
「シグルーン様」
ある夜、侍女が青白い顔をして部屋に入ってきて言う。
「ヘルギ様がお見えでございます」
あまりに突拍子もない言葉だったから、彼女が気が触れたんじゃないかと訝しむ。
「そんなはずないわ」ヘルギはもう死んだのだもの。
「いいえ、お嬢様。旦那様は墓所にてお待ちでございます。
あなたに会うために、死者の軍勢を引き連れておいででございます」
その言葉を聞いて私は駆けだす。
侍女の顔色の意味も、その言葉の意味するところもわからずに。
だって、ずっと恋焦がれていた私の王が――ヴォルスングの御子が――帰って来たのだもの。
城を出て、一族の墓所を走り抜ける。
周囲はすでに黄昏時で、今にも太陽が海に沈もうとしている。
ヘルギの墓塚は入り江を見渡す林の中にある。林の中は真っ暗で、死神が手を広げてこまねいているようだった。
一瞬ためらったのち、再び駆けだす。柔らかな土が湿気を帯びて鼻孔をくすぐった。
侍女の言う通り、塚の中にはヘルギが居た。
「王様!! お会いしとうございました!!」
彼に抱き着いて、冷たい頬に口づけをする。
歓喜の涙が、彼の肩に降り注ぐ。
「オーディンの貪欲な鷲がまだ温かい死体を見つけた時でも、露に濡れて夜明けを迎える花々も、
これほど喜んだことはないでしょう。だって、私はあなたに再び会えたのですから」
もう離すものか。彼の胸と私の胸とを重ねていると、ねっとりとした不快な感触が私の服を滲ませた。
「あぁ、ヘルギ。シグムンドの愛子よ、どうしてあなたは未だ、血を流し続けているのです。
どのようにあなたを介抱すればよいのでしょうか」
私を抱き返していたヘルギがあの頃と同じように微笑んで、私に告げる。
「シグルーン、最愛の妻よ。
この傷口にはどのような手当ても無意味なのだ」
それは一体どういうことなのです。私は問う。
「毎夜お前が私を想って流す涙の雫が、死んだ私の胸に流れ落ちる。
するとその悲しみの色が、私の胸の傷を深くえぐる。
それゆえこの傷は塞がることがないのだ」
「そんな……」
「ヘグニの美しい娘。赤い腕輪で飾られた女よ。
どうかもう悲しみの涙を流さないでおくれ」
それは私がもう二度と彼の死を悲しめないということ。
「酷い人……」
彼の脛を蹴ってやる。
「私がいなくても、幸せになってくれ」と彼が言う。
「そんなの無理に決まっているじゃない」と私が返す。
困ったような表情で彼が苦笑いしている。
そんな表情も、大好きだったのよ、私。
「それなら、この夜を最高のものにしましょう。私が二度と悲しまずともいいように」
彼の褥に並んで座り、侍女に酒と肉を持ってこさせる。
今晩を境に、誰も悲しみの歌を歌わなくなるだろう。
ヘルギの連れて来た勇士たち、臣下たち、侍女たちも、皆笑顔で酒を酌み交わす。
歓びの歌がそこかしこで歌われている。
私はヘルギの胸に頭を預けて、笑顔でその光景を眺めている。
彼の手が、いつかのように私の髪を撫でてくれる。
それはまるであの頃のように、幸せな夜でした。
――夜が更けていく。渇きと飢えが静まれば、あとは眠るのみ。
「かつて生きておいでの時そうしましたように、あなたの腕に抱かれて眠りたいわ」
ヘルギが私を抱き寄せる。
「毎夜帰ってきてくださればいいのに」
そう呟いた私に、それはできないとヘルギが答える。
「死者が墓で妻と抱き合っているなどと知ったら、誰もが終末が来たと思ってしまうだろう」
朝陽が水平線を白く染め始めると、朝を告げる鳥がそこかしこで鳴いて、薄っすらと周囲の景色を暴き出す。
「夜が明けようとしている」
ヘルギが立ち上がり、馬を呼び寄せる。
思わず私はその背にしがみついた。
終わってしまう。
この夜が、終わってしまう。
私は永遠に夜を留める魔法も、死者を縛り付ける呪詛も知らない。
私は……私は……。
にこりと笑って彼を送り出す。
「さようなら、ヘルギ。私の夫」
もう二度と、あなたを想って泣くことはないでしょう。
だからヘルギ。約束をして。
遠い未来で、私たちは生まれ変わる。
きっとあなたは勇敢な戦士で、私は戦乙女になるでしょう。
あなたを見つけ出すわ。
必ず、再び。
これは願望。そして予言。
私は――ヘルギ、あなたを魂の果てるまで愛し続けます。
私の予言に微笑むと、ヘルギは軍勢を連れて帰っていった。
シグルーンはヘルギを想うあまり短命であった。
古歌では彼女は生まれ変わっても戦乙女であり、ヘルギの傍で戦っていたと伝えられている。