平民に同じ手段は使えないと思っていました? 残念でしたね
フローシア王国はいくつかの国に囲まれた小さな国だ。
小さいけれど貿易国として存在している。豊かな資源があるわけでもなく、軍事力が高いわけでもないが周囲の国が商品のやりとりをする際、フローシアを通る方が移動に関しては便利であるのでそういった方面から徴収する税と、あとは他国が直接この国で商売を行う事で賑わっている――そんな、平和な国である。
商業ギルドに登録されているこの国の商会数も他の国に比べればかなり多い。
周囲を取り囲んでいる国やその更に先の国からも様々な品がやってくるので、物に関してはとても豊富だった。何か欲しいものがあるならまずはフローシアへ行け、商人たちの間でよく言われている言葉である。
将来自分も商人として大成するのだ、と思う者からすればフローシアは商人としてのスキルを養うには充分な場所で、同時にライバルたちが多い国でもある。商人たちがひしめく国、それがフローシア。
競争相手が多い分失敗する事もあるだろうけれど、しかし商売で成功を収めれば一生遊んで暮らせるなどとも言われている。実際に莫大な財を手にして小国の王にまで伸し上がった者もいるのだ。
平民にとってそれは途轍もない夢であった。
だが、この国で商人をしているのは何も平民だけではない。領地経営の一端として商会を立ち上げ領地で採れた食物を加工して売る者もいれば、縫製に関する店を出して資金を得るところだって勿論ある。
こちらから出向かずとも他の国の商人たちがやってくるのだ。売れる機会は他の国よりもあるし、他国へわざわざ出向いて珍しい品を手に入れようとしなくても、そういった品を入手する機会がある。
周辺の国がフローシアを侵略しようとしたとしても、その場合他の国からするとそれは不都合になるのもあってハッキリと明言されているわけではないが不可侵条約が結ばれているといっても過言ではない。
故に、周囲を他の国で囲まれていようともこのフローシアは平和なものだった。
商人たちの集う地として、遠い未来でも賑わうだろうとされていた。
その未来が壊れた原因は、案外ちっぽけなものである。
フローシアがいくら商人たちの国のように言われていても、商人でない平民はいるし、貴族も勿論存在している。共和国ではなく王国であるが故に王家だって存在している。
周囲の国やその先の遠い国からもフローシアへやってくる者たちが多いからこそ、この国では教育にも力を入れていた。貴族たちの社交の場においても、他国からの貴族と関わる回数が他の国と比べるとどうしたって多くなるのだ。
そこでみっともない真似を晒せば国の恥。故に、この国では成人前の貴族たちは学園に通う事が義務付けられていた。
そしてその学園では、将来的に貴族と関わる事になる平民たちも通う事が特例として許されていた。
貴族の家に仕える予定の者や、将来騎士を目指す者。貴族相手に商売をする者。実に様々な理由で平民たちも学園に通っていたのである。
フローシアが崩壊する原因になった人物は、と問われればブランシュがそうであろう。
といってもブランシュは何もこの国を滅ぼそうなどと考えた事はなかった。
彼女は商人の家に生まれ育ち、将来は父の跡を継いで自らも商人としてやっていくために、貴族との関わり方を学ぶため学園に通っていた。ただそれだけだ。
少しばかり周囲の人間と違う事を述べるのであれば、彼女が前世の記憶を持って生まれた転生者であるという点だろうか。
そして更にこの世界が前世のブランシュが読んだ覚えのあるライトノベルの世界とほぼ同じという事と、その作品でブランシュはヒロインであったという事。
ブランシュは幼い時点でそれらを把握していた。
とはいえ、ブランシュは原作通りにヒロインとして振舞うつもりはなかった。何故って面倒くさいから。
原作でブランシュは学園に通い、そこでこの国の王子と運命的な出会いをし、そうして恋に落ちるのだ。
けれども王子には幼い頃から決められた婚約者がいて、その婚約者がブランシュを邪魔な女と認識。数々の嫌がらせを仕掛けてくるが、最終的にそれらの悪が暴かれて王子が婚約破棄を突きつけ悪役は退場。
その後はヒロインと結ばれてハッピーエンド、というなんともありがちなお話であった。
ブランシュはそんなヒロイン役を初っ端から放棄する気満々であった。
何故って面倒くさいから。
お金持ちの商人の家に生まれて悠々自適な生活ができるのは確かだけれど、だからといって財産を食いつぶしていくような真似はしたくない。若いうちはいいけれど老後になってから途端に財産が減って細々とした暮らしなんてごめんだし、そうなった時に金がなさすぎて子供や孫からも邪魔者扱いされるような生活はしたくなかった。
お金で愛は買えないとはよく言われているが、しかし愛はお金で育つのである。お金があるなら生活に余裕ができるし、そうなると人の心にも余裕だって生まれてくる。
だからこそブランシュは自分も商人として親の跡を継いでそこそこの生活を維持していくつもりであった。
親が、というより何代か前のご先祖様が商人として大成しまくっていたので、それを超えようとまでは思っていない。
それ故に、貴族と関わる事は将来的に確定だし、商人としてやっていくのであればフローシアの学園に通うのはまさに最適だったのだ。そこが原作の舞台になると考えると、正直ちょっと面倒だなぁという気持ちはあったのだけれど、他に良い教育の場が思いつかなかったのと親を説得する材料が足りなかったのもあってヒロインをやる気はなくとも原作の舞台にこうしてブランシュは降り立った。
王子との出会いを避けて、同じクラスになったご令嬢とそれなりに友好的な関係を築き上げてお友達と呼べるくらいにまでなったとは思う。授業は真面目に受けていたし、貴族に対する礼儀作法だとかも順調に問題なく学べていた。教師からもお褒めの言葉を頂いた。
ブランシュの学園生活は、概ね順調だったと言える。
――王子が、一体どこでブランシュを見初めたのかわからないがともあれ彼がブランシュに恋心を持っている、なんていう話が流れてこなければ。
同じ学園に通っているのだから、もしかしたら見かける事くらいはあるだろう。けれども王子とブランシュのクラスは異なっているし、原作にあった出会いのシーンをブランシュはぶっちして発生させなかった。それ故にブランシュは王子と言葉を交わしたこともない。
もし、ここでの暮らしがあまりにも厳しくて前世と同じくらい裕福な暮らしができるのは王家に嫁ぐことだけ、となっていたならブランシュも気合をいれて王子に取り入ろうとしたかもしれないが、別にそんな生活に困窮する事だってなかったのだ。前世と比べて娯楽が少々少ないのが玉に瑕ではあるけれど、衣食住に関しての不満はない。
それなら、王子とくっついて将来王妃になって更なる面倒な責任だとかを背負う必要はないし、財産を食いつぶさない程度に有能な旦那様を迎えてそれなりに幸せな結婚生活ができれば良い、と考えるブランシュが王子を選ぶ事もない。
王子が自分を選んだとしても、自分は王子を選ばない。ただそれだけの話である。
王子はたまたま見かけたブランシュに一目惚れをしたらしい。詳しくは知らない。ただ、そういった淡い恋の話を友人であり将来の側近になるだろう令息たちとしてしまった事で、それらは静かに、それでいて素早く噂として広まったのである。
そうなるとどうなるか。
王子の婚約者である公爵家の令嬢、アンジェリカにとっては面白くないわけで。
実のところアンジェリカも転生者であった。
自分が知っている作品の世界に転生して、しかも悪役令嬢だという事実に最初は驚き戸惑ったりもしたしどうにか原作の展開を回避したいとも思っていた。
一番いいのは王子との婚約をしない事なのだが、家柄や年齢その他諸々を考慮して決められてしまった契約を幼女が覆すのは難しい。
だからこそ、それならせめてヒロインとの恋に発展しないように……とアンジェリカは幼いながらにせっせと王子との交流を重ね、王子にとって好意的にみられるよう振舞って――気付けばすっかり自分が王子に恋をしていた。
原作のアンジェリカは政略で結ばれたものであったとはいえ、それでも平民女に王子を奪われるのは面白くない、という理由でヒロインに嫌がらせをしていたのだったが、しかしこの世界のアンジェリカはすっかり王子に恋をしてしまったのだ。幼かった頃に抱いた感情は恋と呼べる程のものでもなかったかもしれないが、淡いそれは年を重ねる事に成長し、今では簡単に手放せない感情になってしまっていた。
好きな相手が婚約者。
それだけならばとても幸せに思える事なのかもしれない。
けれども原作通りになれば、その好きな相手は自分を捨てて他の女を選ぶのだ。
そう考えると身が引き裂かれるようで。
けれども、ここで原作のようにヒロインに嫌がらせをしたならば、王子はきっと自分のそれを落ち度として婚約破棄をこれ幸いとしてしまうのかもしれない。そう考えれば、自分で直接手を汚そうとは思わなかった。
アンジェリカと同派閥の令嬢たちに、アンジェリカはそれとなく自分の望む方向へ進むように会話を誘導した。その結果、王子の婚約者としてこれ以上相応しい相手はいないと思われていたアンジェリカ様をさしおいてあの平民女め! と義憤に駆られでもしたのか、彼女の取り巻き――という言い方はさておき、とても都合の良い友人たちはアンジェリカの思った通りに動いてくれた。
とはいえ、命を奪ったり大怪我をするような事になって事態が大きくなればその責任をアンジェリカがとらなければならなくなるかもしれない。彼女たちが勝手にやった事であってもそれを知っていて見過ごしたとなれば将来の王妃としての資質にも問われる。
だから、精々ちょっとした嫌がらせでおさめてもらうように会話で誘導はしたが、それ以上はアンジェリカも何もしなかった。
そもそもヒロインであるブランシュは王子と直接関わってもいない。
原作とは異なる状況に首を傾げはしたものの、しかし王子は彼女に恋をしているのだ。であれば、いつ原作のように出会い二人が恋に落ちたって何もおかしくはない。
けれどもそれより先に、ブランシュが王子に近づくのは分不相応だと思う程度に嫌がらせが身に染みてくれていれば。
原作を回避できるのではないか、と思ったのだ。
アンジェリカは公爵令嬢でありながらも、中身に前世の記憶というものがあったせいで前世の庶民としての常識もあったし、その分小心者でもあった。もし生まれも育ちも最初からこの世界での高位貴族の令嬢として在ったのであれば、もっと手っ取り早くブランシュを片付けていた事だろう。
アンジェリカの取り巻き――ではなく、心優しい友人たちは相手が平民である事を含めて、取るに足らない嫌がらせで留めておいた。貴族同士のやりとりであったなら間違いなく鼻で嗤われるくらいお粗末な嫌がらせだ。けれども平民相手ならそれで充分だと思っていたし、またブランシュと親しくしつつあった令嬢たちにも暗にアンジェリカの不興を買いたくなければ――とそっと忠告をした。
別にアンジェリカがあの女をどうにかしろと直接言ったわけではない。ただ、王子の心が自分以外に向いているのが少し寂しいわ、と可憐に儚げにちょっとだけ同情を抱くような言い方をしただけ。相手は自分から王子に近づくような女ではなかったので、苛烈にあの女を始末なさい! などと言えば逆にこちらの心証が悪くなるのを分かった上での事だったのだろう。
心優しい友人たちはブランシュと親しくしていた相手が公爵家に目を付けられたくなければ、と密やかに脅し、そうして低位貴族の令嬢たちはその脅しに屈するしかなかったのである。
昨日まで親しくしていたはずの相手に手のひらを返されたブランシュは、少し困った様子ではあったけれど。
嫌がらせといっても直接怪我をさせる程の事はしていなかったからしばらくは何か行き違いか誤解があったのだろうと思って相手との関係の改善に努めようとしていたようだけれど。
じわじわとブランシュを孤立させるように仕向けていたために、気付いた時にはブランシュの味方と呼べそうな相手はすっかりいなくなってしまっていた。
教師ですら嫌がらせの内容が軽いものであったため、面倒ごとを避けて見て見ぬふりをしようとした。
事の発端、もっと言ってしまえばこの件を引き起こした元凶でもある王子はというと、密かに恋心を持っていた少女が嫌がらせを受けているという話を聞いて、すぐさま助けに向かおう――とはせず、それら嫌がらせの証拠を集めているようだった。
一つ一つは小さなものなので、一つを取り上げた所で大した問題にはならない。けれどもその数が膨大になれば流石に無視もできない。
王子はアンジェリカと仲の良い友人たちの仕業であると気づいていながらも、一網打尽にして最後にはアンジェリカの責任であるとして婚約を解消させるため、自分に都合の良いシナリオ通りに事を進めるために、ブランシュへの嫌がらせをしばし静観しつつあった。
なんとなく外側からそれらを見て事態を把握していたアンジェリカと同派閥ではない令嬢や令息たちは、あえて自分たちがそこに巻き込まれにいくつもりはなかった。
被害に遭っている娘はただの平民。商人の家の娘であるとは知っているが、ブルーム商会というそこそこの規模の商会であったとしても、自分たちがわざわざ出張って助ける程の価値があるとも思えない。恩に着せたところで、大した利はない。そう判断されて結局見て見ぬふりをされた。
中には、アンジェリカに自分を売り込むべく無関係であったものの率先して小さな嫌がらせをせっせと行う家の者もいたようだけれど、どちらにしてもそれらすべてがブランシュにとっては悪い方向に行くだけの事で。
嫌がらせの程度は低く、命の危険を感じる程ではなかったけれど。
それでも、いかんせん数が多くなりつつある。このままではそのうち馬鹿な誰かがもっと過激な事をするのではないか、と思うのも当然の流れであった。
ブランシュに前世の記憶がなければ、きっともっと早くに心が折れていたかもしれない。小さな嫌がらせとはいえ、一つやられたらそれなりに嫌な気持ちになるのは間違いないし、それが毎日複数となれば学園という場所そのものがストレスになる。トラウマになっていないのは、ブランシュに前世の記憶があってそこそこ図太い精神をしていたからに過ぎない。
もし大事に大事に育てられたお嬢さんであったなら、とっくに心を病んでいた。
とはいえ、だからといっていつまでもこの状況を放置するつもりはブランシュにはなかった。
大体貴族との関わり方を学びにきたはずなのに、その貴族に嫌がらせをされて関わり方を学ぶどころではない。
マナーだとかは最悪家庭教師として雇った相手からでも学べるし、そうなると学園にいる必要性を感じられなくなってくる。
お友達になれそうだった令嬢たちは恐らく好き好んでやっているのではないとわかってはいるけれど、それでもいい気分はしないし、教師は見て見ぬふりをするし訴えてものらりくらりと躱された。第三者的ポジションの生徒に助けを求めるにしても、ブランシュはそこまで親しい相手がいなかったし、そうまでして助ける価値はないと判断しているからこその静観なのだろう。
とてもわかりやすいそれらに対して、ブランシュは早々に見切りをつけて家に帰り、そうして父親に泣きついたのである。別に泣くほどではなかったけれど、その方が手っ取り早かったので。
年齢の割に大人びた様子でもあった愛娘が泣きついてきたというのは、とても効果的だったようで。
父はあっさりとそんな学園に無理をして通う必要はないと言ってくれた。
ブランシュの計画通りである。そもそも貴族との関わり方を学ぶのが本来の目的だが、向こうが勝手にこっちを虐げて良い存在であると認識して友好的な態度も何もない状態。ブランシュが失礼な態度をとってそれがこうなったというのであれば反省のしようもあるが、直接言葉を交わした事もない王子がどうやら自分に恋をしているとかいうブランシュにとっては本当かどうかもわからない噂のせいで、その婚約者の不興を買ったらしい挙句、その令嬢のためにと周囲が取り入る目的か何か知らないがやらかしているのである。
正直な話こちらは乞われたところで王子とくっつくつもりはない。何故ってそうなれば色々と面倒くさいから。
ブランシュは平民だけれど、金だけはある家の出だ。
権力的な後ろ盾はないけれど、それでも資金面での後ろ盾であるならば下手な貴族よりも強力であるとわかっている。だがしかし、そうなると本当に色々な面倒ごとがあるのがわかりきっているので。
あと王子のその恋とかのせいで自分がこんな目に遭っていると考えると惚れる以前の話すぎて。
噂が流れるだけ流れて、その上で王子が直接こちらにアプローチでも仕掛けてきたならともかくそうではないのだ。迷惑な噂流してくれやがって、という気持ちしかブランシュにはなかった。
だからこそ、ブランシュは早々に学園を辞めた。休学どころか退学である。
本来ならば不名誉なそれは、しかしそうせざるを得ないと父が判断したからとも言えた。
一つ一つの嫌がらせは確かにしょぼすぎて鼻で嗤うくらいにお粗末なものだ。けれども、ここ最近は数が多くなってきて、そのうちこの程度では意味がないとか思い始めたおバカさんが余計なことをやらかすのではないか……という懸念だってあったのだ。
耐えた先に自らの目的があったのであればまだしもそうではない。耐える必要性なんてどこにもなかった。
それに、ブランシュはある程度把握したのだ。
なんだ、貴族がどうとかいうから関わり方とかもっと色々気をつけなきゃいけないものがあるのかと思っていたけれど。
前世と大差ないんだな、と。
ブランシュの前世は別にどこぞのやんごとなき身分の……というものではなかったけれど、それなりに名の知られた財閥の生まれだった。国内だけなら身分も何も、という話だが海外の人と関わる際は確かに王家に連なるだとか由緒正しい家の出といった相手もいたので。
そしてそういった相手との関わり方と、この世界の貴族に対する関わり方がそこまで変わらなかったという事実を確認した事で。
ブランシュにとって学園に通う意味がなくなったというのもある。
わざわざブランシュ本人に非があるでもない事で絡んでくるような相手と仲良くするつもりなどこちらにだってない。だからこそ、わざわざ父親に泣きついてみせたのだ。
それは同派閥の令嬢に言葉巧みに誘導したアンジェリカのように。
ただ、アンジェリカを思って行動に出た令嬢たちはあくまでも友情と打算があったけれど、ブランシュの父は違う。家族への愛情はあったかもしれない。けれども彼は商人なのだ。利になるかどうか。それを娘を通して見定めていた。その結果、フローシア王国ではこれ以上の利益を得る事はないと判断したのである。
ブランシュの父は娘の退学手続きをする際、ここぞとばかりにこのような事になるとは……この国の教育というのは随分とまぁ、と言葉を濁すようにしつつもあえて下に見るような発言をした。単なる平民の、一介の商人如きにそのように言われた学園長はこめかみのあたりをひきつらせ文句を言おうとしていたようだが、しかし実際にブランシュに非はなかったし、それらの嫌がらせを見て見ぬふりをしたのもまた事実。
立ち去る間際、父は娘に害を及ぼそうとした相手とは取引をしません、と告げた。
その話は噂としてあっという間に広まった。
一部の貴族などは負け惜しみが過ぎると手を叩いて爆笑したほどだし、涙が出る程嗤った者もいた。
たかが商人に何ができるというのか。
お前の店との取引をしないからとて、店は他にいくらでもある。
そもそも平民がやっている店とうちとの繋がりはないのだから、何も困る事がない!
そのように貴族にあるまじき勢いでゲラゲラと笑う者だっていたくらいだ。
その噂は勿論王家にも届いた。
王子は行動に出るのが僅かに遅かった、と後悔した程度だ。自分がブランシュへの嫌がらせの切っ掛けになったという事実を勿論把握していたが、それを利用して彼女を救い出し、そうして口説いて彼女を自分の妻にしようと目論んでいたのが台無しになった事を悔やむ気持ちの方が強かった。ブランシュに対して申し訳ないとかそういう気持ちはあまり湧かなかった。ただ、あとちょっと我慢してくれていれば……と未練がましく思った程度だ。
彼女は平民で、本来ならば王子の妻になど到底難しくはある。けれども、資金はそれなりにあったのであとは貴族社会でやっていけるだけのスキルを身につけさえすればどうとでもなると思っていたのだが。
そしてアンジェリカもまた。
邪魔者が消えたという事実に安堵の息を漏らしただけだった。
早々にいなくなってくれた事で、王子が断罪をしてアンジェリカとの婚約を破棄するタイミングは消えた。
アンジェリカが直接虐めたわけではない。けれども、それらを実行していたのは確かにアンジェリカにとっては友人と呼べる者たちで。
一言、やめるように窘めていれば王子が断罪をしようとはならなかったかもしれないけれど、それでもそうなればブランシュと王子が恋をしてくっつく可能性が捨てきれなかった。
幼い頃から婚約者として接してきて、原作になかった部分も見て、良いところも悪いところもひっくるめてアンジェリカは王子の事が好きだったので。
今更他の誰かに奪われるような事になるのだけはどうしても避けたかった。
だからこそ、ブランシュを助けるという選択肢は彼女の中には存在していなかった。
原作通りの行動をとらなかった彼女ももしかしたら同じ転生者かもしれない、とは思っていた。
もし同じ転生者であったなら、もしかしたら出会い方次第では仲良くなれたかもしれない、とは思っても。
それでも、アンジェリカはブランシュに寄り添わなかった。アンジェリカはあくまでも王子を選んだのだ。
フローシア王国が崩壊の一途を辿る事になったのはこの後だ。
まず、国内の店のほとんどが閉店した。
全てではないがほとんどすべても同然である。
忽然と閉店し店の者たちはさっさとどこかへ行ってしまったようで平民たちが利用する店が並んだ区画や、貴族たちが利用する店の並ぶ区画が途端閑散としだした。
ブランシュの一件で、ブルーム商会がこの国から撤退した、というだけなら話は分かるがそれ以外の商会までごっそり消えたのだ。
残っていたのは、商会を立ち上げて経営している貴族たちの店だけだ。
他の店が一気に閉店した事で、欲しい品が手に入らず平民も貴族も残された店にこぞって押し寄せた。
平民たちの店がある区画で営業していた男爵家による商会は、残った商品を奪い合うように客が暴れ暴動が起きたし、貴族たちが利用する区画で店をやっていた所も残された品を全て買占めようとした貴族が他の貴族と言い争いを始めとんでもない事になった。
商品が売れて、在庫もあっという間に尽き、では次の商品を仕入れてこようとしたものの。
今まで取引をしていた店が軒並み断り新たな品の入手ができなかった。
自分の領地で採れた物を加工して売っていたところだって、収穫から加工し売り出すまでの時間はそれなりにかかるし、品数だってそこまで大量に用意できるわけでもない。収穫物によっては次の収穫まで数か月かかるものや来年にならないと無理なものだってある。すべて売れたから新たに次の品を追加で、とそう簡単にはいかなかった。
折角綺麗な布を作り上げても、それをドレスに仕立てる店がない。
ドレスに使うための糸や飾りといったものを仕入れようにも取引をしてくれる店がない。
服や靴といった物が新たに入ってこないというのは、一部の令嬢や婦人からすると困るものではあったけれど、それでも他に着る物があるからまだマシだった。
困ったのは食料品や生活に使われる消耗品が足りなくなってきた事だ。
いくつかのストックがあった家はまだしも、それでも夜、暗くなった室内を照らすための灯りとして使われるランプの油は今までのように使えなくなって節約して使うようになっていたけれど、それでも使う以上はいつか無くなる。
夜の闇を照らす物がなくなれば、人は案外何もできなくなるのだ。
燭台を持ってきて蝋燭で多少暗闇を照らすにしても、ランプほどの明るさもなく夜にできる事は大分減ってしまった。流石に外で焚火をして明るくさせるにしても場所によっては火事の危険性があるし、ましてや室内で灯りが必要なのに家の中を松明持参で行動するわけにもいかない。
夜でもそれなりに書類仕事をしているところは、真っ暗になってしまえば何もできない。
結果として日が沈めば早急に寝て早朝に起きて仕事をするようになったけれど、健康面ではこちらの方がマシかもしれなかったが効率面では前の方が良かった。
いつもならとっくに終わらせていた書類が中々片付かず、役人や貴族、王族たちの仕事は徐々に滞っていった。
食料だってそれなりに自国で生産されてはいるが、それでも食料自給率は他の国からやってくる物に頼っていたのもあってそう高くはない。
他の国から商品を売りにやってくる商人すらめっきり減って、フローシア王国は戦争をしているわけでもないのに気付けば他国から兵糧攻めにあっているかのような状況に陥っていた。周辺を囲む国へ、食料を売ってくれないかと持ちかけてみたものの結果は芳しくなかった。
このままではいずれ飢えて死んでしまう、と思ったのは言うまでもない。
結果として真っ先に国を捨てたのは、民であった。
その頃にはとある噂がフローシア王国に流れ始め、それを聞いた国民たちはこの国に未来はないと悟ったのだ。
めっきり訪れなくなった他国からの商人たちではあったけれど、まったく訪れないわけでもなかった。だからこそ、そうしてやって来た商人たちからどうしてこんな事になったのか、をフローシア王国の民は聞いたのだ。
その原因が、たった一人の平民を貴族が戯れで虐げた事である、と知って。
貴族の戯れなどよくある話ではあるけれど、だからこそ平民たちは貴族の目に必要以上に触れないようにと存在感を消して接する事が多いとはいえ。
その貴族のせいで今、こうして無関係な民までもが飢え死にの危機に瀕しているとなれば。
そして上の連中は果たしてそれを理解しているのか、対策を立てようとしているのかもわからない下々の民からすれば。
やってられっか、となるのは当然の話であった。
――民の他国への流出。難民として他国へ流れ、フローシア王国が民の流出を止めようとした頃にはとっくに手遅れだった。
貴族たちだけではない。王家の者たちも何故このようなことになったのか、理解できていなかったのが後手に回った原因だろう。
一つの商会が王国から出て行った、だけではこのような事になるはずがない。
けれども、それと同じくして他の商会の店までもがフローシア王国から撤退したのだ。結果として国内で商会を立ち上げていた自国の貴族たちの店だけが残され、そしてあっという間に残されていた商品は売れたものの次の品を用意できず、需要と供給のバランスが大きく崩れたのだ。
自国で生産している物があるといっても、作物の収穫にはそれなりの時間がかかる。
植えたからとてすぐに育って収穫できるわけではないのだ。お伽噺にあるような魔法を使えばもしかしたらそういう事ができるのかもしれないが、そんな夢のような力を使える者など王国中を探したっているはずがなかった。
育てて収穫するまで時間がかかるが、いざそれらを食べるとなれば一瞬である。
あっという間に食糧難に陥って、残り少ない食料を身分関係なく奪い合うようになって、国内の人間たちは物を持っていると思われたら奪われると思い、平和だったはずの国内は一転してスラム以上の治安の悪さになってしまった。
城にはまだ民が攻めてくる様子はないけれど、それも時間の問題だろう。城にはまだ食料があると思われている。実際ある程度保管されてはいるけれど、それでも以前の食生活と比べれば随分とみすぼらしくなったのだ。もっとも、そう言ったところで民が納得して城を攻めるのをやめるか、となればそうはならないだろうけれど。
他国へ食料の輸入の話を持ちかけても、どの国からもすげなく断られた。
周辺の国一つ一つに話を持ちかけて、そのどれもに断られこれが最後の希望だとばかりに最後の国へ親書を出せば、返って来たのはとんでもない事実だった。
オルランド商会を敵に回したくないから無理。
その一言だけが書かれた手紙に、国王は目をかっぴらいた。
オルランド商会というのは、世界各国に店を構えている世界最大級の商会である。商人などという呼び方すらどうかと思えるほどの豪商によるその商会を敵に回せば欲しい品は生涯手に入らないとまで言われているような商会。小国程度なら余裕で複数、大国ですら買い占めることができる程の財を持つとも言われ、世界一の金持ちであるとも言われている。
そんなオルランド商会を敵に回した覚えのなかった国王は、一体何があったのかを調べるために急ぎ家臣を招集し、事態を調べるべく動きだした。のんびりしていても食料はなくなるし生活用品も消耗されていくし、とにかく時間との勝負である。オルランド商会を敵に回すような事をした覚えのない国王は、それが誤解であると信じて疑わず、その誤解を解けば事態は解決すると信じたかった。
国王自らオルランド商会の会長へ手紙をしたため、どうか我が国で商売をしてほしいとまで乞うたのだ。
たかが商会一つにそこまで、と思うかもしれないが、オルランド商会の財力をもってすればフローシア王国など簡単に買収される。小国など簡単に買い占めることができるだけの財力が確かにあるのだ。
それはつまり、逆に言えばその財力でもって国を滅ぼすことも可能という事で。そして事実今まさに国は危機的状況に瀕している。
オルランド商会会長である男からの手紙が届いたのは、王が思っていたよりも早かった。世界各地に店を構え、それらを纏め上げている相手だ。てっきり忙しく手紙の返事すらもっとずっと後にならないとやってこないと思っていただけに、はやる気持ちを抑え王は手紙の封を開け――
そして知ったのだ。
自分の息子が学園で一人の平民に恋をした事が切っ掛けで起きた、現状を。
例えばの話ではあるけれど。
他国へ王族が出向く場合、式典や何らかの祭事で呼ばれたならば堂々と王族として出るけれど、これが留学などの長期滞在をする場合、その国に友好の証として縁を結び嫁いだ親族などが居たりするのなら、その家の家名を名乗り身分を隠す事もある。身の安全を確保するものであり、また余計な争いごとにならないように、という考慮でもあった。もっとも、争うつもりがなくとも勝手に厄介ごとを持ち込まれる場合もあるにはあるのだが。
自国では勿論王族であっても留学先では親族の家名を名乗り侯爵家だとか伯爵家あたりの身分である事が多いのだけれど、ともあれそういった事というのは割とよくある話でもあるのだ。
勿論中には堂々と他国の王族として留学する者もいるけれど、その場合は様々な厄介ごとに巻き込まれる事もあるのでやるのであれば事前準備と護衛はきっちりとしておかないと最悪命を落としかねない。
そして、その方法をとある少女も使っていた。
それが、ブランシュである。
彼女の父はオルランド商会の会長であった。
世界最大規模の商会。
そんな商会の娘ともなれば、下手をすれば一国の姫のようにも思われかねない。何せ下手な国の貴族や王族よりも金を持っているのだ。
良からぬことを考える者であればそんな娘誘拐するだろうし、身代金だけで一生遊んで暮らせるくらいの金を要求できたりもする。
そうでなくとも。
それだけの財力を持った家の人間を嫁に迎え入れるのであれば、持参金は果たして如何程か。
金で理性を溶かす事のなかった相手であっても揺らぐほどに有り余る金だ。領地経営を失敗した家であれば、唸るほどの金でもって強引に立て直す事も可能だし、金だけではなく店の商品すら優先して手に入れる事ができるのであれば。
財力も武力も思うがままだ。王家に迎え入れたなら、その財力とあらゆる商品によって国力が一気に跳ね上がるに違いない。珍しい品を優先的に手に入れることができるかもしれない、とも考えれば更に魅力的である。
店の商品をそこまで自由にできないだろうと思うのだが、そういった夢を思わず見てしまうくらいオルランド商会という存在は圧倒的だった。
食料も、薬も、生活に必要な道具の何もかもも。ドレスや宝石、武具と言ったものさえも。手に入らない品はないとされている商会が後ろ盾になったのであれば。
それはまさに向かうところ敵なしである。
小さな国の王子がそんなオルランド商会の娘を娶ったのであれば、周辺国家を従える事も可能になっただろう。
そういった、夢を見てしまう者の事を考えたうえで、ブランシュの父はブランシュをオルランド商会の子会社的な店の一つであるブルーム商会の娘であると名乗らせた。
ブルーム商会の客層は平民が多いがそれでも一部の貴族も相手にしている。とはいえ、低位貴族が大半だが。それでも、低位貴族との関わり方を学び、そこから徐々に高位貴族との接し方を学ぶことができるのであれば。
ブランシュの父からすれば丁度いい立場であったのだ。
ブルーム商会はそこまで大きな店というわけでもないし、珍しい品を取り扱っているわけでもない。生活に添った地域密着型の店、とでも言おうか。
であれば、あの店の関係者だからとて悪党が狙う事もそうない。身代金を要求したところでたかが知れているだろうし、狙うならそれこそそういった悪党は一獲千金を狙うだろう。
可もなく不可もなく。娘の安全を考えてやったそれはしかし、逆に娘の身を危険に晒してしまった。
たかが平民として、まさかあまりにも程度の低い嫌がらせをしてくるとは思いもしなかった。
それ以前に。
ブランシュの父は、フローシア王国の貴族たちの頭の悪さを目の当たりにしてしまって。
王族含め誰一人としてブランシュの家に関して本当に何も知らない状態であったという事実に。
情報が命であるといっても過言ではない父は、この国は駄目だな、と早々に見限ったのである。
周囲を複数の国に囲まれているフローシア王国が侵略されていないのは、どこか一つの国が占有すると他の国が流通の面で不便になるから阻止してくるから、という理由が大きい。北から南へ行くのにフローシア王国を迂回していくよりフローシア王国を通過して進んだ方が移動時間も短縮できるのは言うまでもないし、だからこそ通行税のようなものもあの国にとっては得られる資源の一つという認識であったのだろう。
もっとも、その税を高くしすぎれば他国がではフローシア王国そのものをなくしてしまえとなる可能性を考えていたからこそ、その税で暴利を貪る事はなかったようだが。
けれども、一般市民はともかくある程度地位が上の者がしっかりと調べたならば。
すぐに気づけたはずなのだ。
ブルーム商会がオルランド商会の別店舗、支店であるという事は。
ブルーム商会だけではない。フローシア王国にある店のほとんどがオルランド商会の支店のようなものであるという事だって。
オルランド商会の次に名が知られているのは、コンスタット商会だがそことオルランド商会が繋がっているのはどの国でも知られている。そこから更に派生して生活用品に特化した店や、衣類を専門とした店だとか、実に細分化しているから全てを把握していないとしてもそれはまだおかしな話でもないのだ。
だがそれでも、少し踏み込んで調べればどの商会がどの系列の店であるのか、そしてその上に君臨するのが誰であるのか、たどり着けない事などなかったはずで。
けれどもそんな事すら調べないまま、フローシア王国はやらかした。
国王自らが失礼をしたわけではない。
けれども、学園は将来国を背負って立つ若者たちの教育の場であり、そこが駄目なら国の将来にも期待はできない。まだ学生の身とはいえ、それでもあとほんの少しで成人し社会に出るのだ。店で言うならオープン前の関係者一同を集めて行われるプレオープン。
右も左もわからない雛鳥ならいざ知らず、そうではないのだ。
それが、平民だからというだけでそれ以上の事を何も考えずにやらかすなど軽率にもほどがある。
学園と言う限られた空間の中で、集団心理が働いた事も考えられるけれど。
それにしたってなんという質の悪さか。商品であれば粗悪品。こんなものに余計な金など払う価値もない。
故に、ブランシュの父は娘が嫌がらせを受けた事を理由にして学園への寄付もあっさりと取りやめたのである。
唸るほど金があって、人生何十回以上遊んで暮らせるくらいに余っているとはいえ。
それでも彼は商人で、儲けにもならない無駄な金を使うつもりはこれっぽっちもなかったのだ。
儲けにならずとも、彼自身が使う価値がある、と判断したならまた違ったかもしれないが、最早フローシア王国に一銭の価値なし。それが彼の下した結論だった。
フローシア王国を囲む周辺の国にも根回しをした。
あの国との関係を持つ相手とは商売の取引を一切しないと通達もした。
どの国にもオルランド商会の息がかかった店は大量にある。
それらが一斉に手を引くとなれば、生活は一気に困窮するのが目に見えたそれぞれの国は、故にフローシア王国からの援助を求める要請を断ったのだ。
オルランド商会が撤退した後、新たなビジネスチャンスだと考える者もいるかもしれない。けれども、継続して安定供給ができるかとなれば話は別だ。もっとずっと前からオルランド商会が撤退した時の事を考えてその時に備えていたのであればまだしも、そういった商会は存在していなかった。そうなる前に取り込まれた店の数はかなり存在する。
オルランド商会がやっていてもたとえば地元の細々としたニーズにまで対応していない部分だとか、はたまたオルランド商会が自ら着手するまではしないジャンルであれば店を経営しても一応存続できるけれど、オルランド商会を打ち倒すとなればそれは難しい。それくらいに、オルランド商会は世界各地に根を張り巡らせていた。
ブランシュは知らないが、実のところ父は同じく平民である商会の人間に密かに娘の護衛をさせていた。
といっても、嫌がらせをされていた時に身体を張って守れとまでは言わなかったが。
あくまでも怪我をするような状況になった場合までは放置でいいとも言っていた。
実際はみみっちぃ嫌がらせであったので、護衛役を言いつかった相手は目立たないようそれらの証拠を集めていただけで終わってしまったけれど。
けれどもその証拠だけで充分だったのだ。
父が、フローシア王国を手に入れる理由は。
国内で物資の入手が困難になった以上、他の国まで出向いて買いにいかなければならない。実際にそうした者たちは多くいた。
だがしかし、平民のほとんどはわざわざまた自国へ戻って必要な物があるたびに他国まで買い物に行くという不便さに早々に気付くことになるし、そうなればフローシア王国を出て他の国で生活した方がマシ。大体買い物に行くのに徒歩で十日以上かかるのだ。馬車などを使うのであっても最短で半日だが、普通は数日かかるとなれば生活もままならない。買い物に行くためだけに仕事を休む事になるのだから。それどころか野宿ならともかく宿をとる必要が出てくるとなれば、その分出費もかさむ。周囲を囲んでいる国のどこに行ってもオルランド商会系列の店があるとはいえ、買い物に行くのに毎回隣国へ行くというのは非効率的だ。これが貴族ならそうでもないのかもしれない。欲しい物を手に入れるための手間がかかろうともあえてそうする貴族は大勢いる。けれども平民がそれを毎回できるかとなれば無理が生じるのは当然の話で。
そして貴族たちもまた、国を捨てる決意を固め始めていた。
周囲の国へ買い物に行くにしても、あの国の貴族であるという事が既にオルランド商会の人間には通達されているらしく、他の国で買い物をしようにもフローシア王国の貴族だと知られた時点で店を出禁にされるのだ。ちょっと変装したくらいでは無駄だった。
平民なら買い物ができたという話を聞いて、買い物を代行させようにも、そうと知られた時点で売買の拒否をされる始末。そこそこの金で雇われた平民だって、余程の馬鹿じゃなければ気付く。
買い物代行の仕事は儲けとしてはおいしいものだけど、だがしかしオルランド商会に自分の顔まで把握されるような事になれば、自分のための普通の買い物ですら拒否される可能性がある、と。
何から何まで自給自足できる者以外はそうなれば、結局のところ買い物代行の仕事など早々に断って他国へ行った方がマシだったのである。
王子が恋をした人物は平民とはいえ何気にとんでもない大物であった事を悟った国王ではあったが、気付いた時には手遅れだった。ありとあらゆる物が不足した状態の国からは民が流出し、貴族だってこの国を捨てて出て行った者は多い。
国を捨てた後、果たしてそれらの貴族が出禁解除されたかどうかは不明だが、しかしオルランド商会をまたも敵に回すような真似は流石にしないだろう。学園に通っていた生徒たちの親である貴族たちはともかく、とばっちりを受ける形になった者たちも多いけれど。
学園の教育体制に問題があると判断されて、その国で学んできた貴族たちもまたそうである、と判断されたと言われてしまえば言い返せる言葉も出てこない。
かつて学園で学んだ事のある親世代の教育が子世代に繋がれていった結果がコレ、と言われてしまえば。
たかが平民と軽んじた結果がコレなのだから、今さら何を言ったところで……となってしまう。
まともな貴族たちは、せめてもの気持ちとしてオルランド商会へ詫び状を送ったが、それで許されるかどうかは確証がないままだった。
ただ、国を捨てた後、親族の伝手で貴族のままだった相手も、平民になるしかなかった者たちも、オルランド商会系列での店で買い物が普通にできるようになった事だけは確かで。
彼らは改めて子に語り継いだのだ。
身分だけで人を見てはいけませんよ、と。
軽率に他者を傷つけるような真似はするものではない、と。
相手が大したことのない存在であろうと軽んじたとして、その周囲までもがすべてそうというわけではないのだから。
国が国として立ち行かなくなった時点で、フローシア王国は滅んだといっても過言ではない。
実際このままでは民の生活も自分たちの生活もままならず、フローシア国王はこの国の王であることを辞めるところまで追いやられていた。
彼が王であり続けたところで、民の暮らしはとっくに破綻していたし、貴族たちの暮らしだってそうだ。
領地内で自給自足ができる者たちなどほとんどいなかった。
国内を移動するだけでもそれなりに時間がかかるのに、隣国へとなればもっとかかるのは言うまでもない。
オルランド商会から国王へ宛てられた手紙には、皮肉めいたものも織り交ぜられていたが、こうなった経緯だって記されていた。ただ恋をしただけならば咎める事もなかったけれど。王子はあえてそれを他者に知られるような真似をしてしまった。その結果、ブランシュはされなくてもいい嫌がらせを受ける事になったのだから。
婚約者がいるのであれば、その想いは一切口に出さず秘めたままにしておけば良かったものを。
そうでなくとも、せめて自分の婚約者ともっときちんと話し合いをするべきだったはずだ。
だが実際は、婚約者の周囲が勝手に平民を害そうとし、王子はそれを婚約をなかった事にするための材料としようとしてブランシュには何もしなかった。助けた後で恩にきせるつもりだったのかもしれないが、娘からすればそれはただのマッチポンプでしかない。
自分の中で恋心を育てていったところで、相手の恋心は育つどころか芽生えてすらいないのだ。
もし権力でもって娘をどうにかしようと目論んでいたのであれば、こちらも徹底抗戦の構えであるとまで手紙には記されていた。
徹底抗戦も何も既にこちらが潰される寸前であろうに……とは国王も思うものの本人が目の前にいないので言うだけ無駄である。
最初から、オルランド商会の娘である、と言われていたならもしかしたらこうはならなかっただろうけれど。
だがしかし国王はよく理解していたのだ。その立場を公言する危険性を。彼もまた王族であるが故に。
王子に関しては、恋が実るどころか既に国が崩壊の危機でこのままでは彼もまた平民になるしかない状態である、という事を果たしてどこまで理解できているのだろうか。
今からブランシュに気持ちを伝える事ができるかはさておき、それでも伝えたとして。
このような状況になった以上、その告白は家の財力をもってして国を助けてくれとしか思われないだろう。
原因を作った相手にそう言われたところで、豪商の娘がそれを受け入れるとは到底思えない。
城の中の調度品で目ぼしい物は使用人たちが逃げ出す際に持ち去った物も多い。
それでも一応自分たちの個人財産はまだ大丈夫ではあるけれど。
周辺の国に行ったところで、自分たちの面は割れている。
そうなると、もっと先の遠い国まで行きでもしない限りは。
自分たちの生活とてままならないだろう。既にままならないという事実は否定できないが。
この一件を理解しきれなかったのは、アンジェリカである。
私が悪いわけじゃない。私は何もしていないもの。
この期に及んでアンジェリカはそう思っていた。
婚約者である王子の心が離れかけていたのは事実で、だがしかしブランシュが直接関与していたわけではない。それなのに根本的な解決をしようとせずに無関係で巻き込まれただけとしか言いようのないブランシュに安易に責任があるとして彼女に嫌がらせを仕向けたのがこの事態を招いたのだと、アンジェリカは認めたくなかった。
原作通りに王子と出会わなかった事で、彼女も転生者ではないかと思っていた。その時点で、アンジェリカが直接ブランシュとコンタクトをとって話し合っていれば、彼女がヒロインをやる気がないと早々に知れたはずなのにしかしそれをしなかった。
下手に接触して王子へ恋心を持たれたら、と想像しただけで恐ろしかったというのもある。
もっと過激な嫌がらせをするように仕向けていたら、もしかしたら命を落としてくれたかもしれない。そう思っても、アンジェリカはそれすら恐ろしかったのだ。
間接的にとはいえ自分は人殺しになんてなりたくはない。
前世の記憶があるが故に、前世の価値観もまた彼女の中に根付いていたのである。
結果としてアンジェリカは自分のためにと動く者たちを諫めるでもなく、静観し続ける結果となった。あまり過激な事にならないように、とは言ったものの。それでもブランシュに対する嫌がらせを完全に止めさせるまではしなかった。それができる唯一だったのに。
オルランド商会が敵に回ってからというもの、日々の暮らしに必要な物すら手に入りにくくなって、平民どころか貴族だって日々の生活に困ることが増えてきて。
その頃にはもう学園に通うどころではなかった。学園の授業で使われるインクですら補充がままならなくなっていた、どころではないのだ。紙すら補充が困難になっていた。レポートの提出などそうなればできるはずもない。各自の家で用意せよ、と言われたところで用意できる家などごく一部。
それ以前に学園の授業で使うくらいなら他の――当主が書類仕事に使うだろう状態なので、用意する程の余裕など結局なかったのである。
フローシア王国の住人のほとんどが国を出ていってしまって、学園の授業どころではない状態であった。もっというなら仕事をするどころでもない。
城で働いていた者だって逃げ出した者は大勢いたし、それは他の貴族たちの家で働いていた者だってそうだ。
アンジェリカの家も使用人が一斉にいなくなった事で、今までのような生活ができなくなりつつあった。
アンジェリカの前世は使用人なんていない環境で、自分の事は自分でやっていたけれど。
しかしそれでもこの世界に転生して生まれてから今までずっと、周囲の事は自分以外の誰かがやってくれるという環境にすっかり慣れ切ってしまったがために。
楽を覚えてしまったからか、アンジェリカはすっかり一人では何もできない人間になってしまっていたのである。
国が国として成り立たなくなったため、こうなれば王子との結婚などとは言ってられない。
アンジェリカの父は悩みに悩んだ末にこの国を出て、妻の生家でもある国へ移住することを決めた。
国を出れば、王子とはもう気軽に会う事もできない。アンジェリカはその事実に国を出る事に乗り気ではなかったけれど、だがしかしこの国にいても今までのような生活はもうできないのだ。王家に次ぐ立場の家に生まれたというのに、このままこの国にしがみついたところで明日の生活すら危うくなるというのであれば、アンジェリカの父が下した決断はむしろ遅い方であったのかもしれない。
このままこの国に残り続けた所で未来はない。
それどころか、少しでも何か生活に使える物をと略奪する暴徒の手に落ちる可能性すら高い。
平民たちの間ではこの一件、そこまで詳しく広まってはいない。上の人間がオルランド商会に喧嘩を売った、くらいでしか知らないだろう。けれども貴族たちの間ではもう少し詳しく噂は広まっている。
事の発端がアンジェリカのためにとブランシュへ嫌がらせをした事だというのはとっくに知れ渡っていたが、しかし既にブランシュに対して直接嫌がらせをしていた家の者たちはとうに国から逃げ出している。
アンジェリカに対して周囲はせめて諫めておけば少しは事態が変わったかもしれないものを……とは思ったもののその時点でブランシュはただの平民だ。オルランド商会の関係者であるなどとは誰も知らなかった。
知った後で何を言っても今更で。
結局アンジェリカは原作の通り、王子と結ばれる事はない、という事実を受け入れるしかなかったのだ。生きているだけマシだと自分に言い聞かせて。
――ブランシュは、まぁこうなるんじゃないかなぁ、と薄々理解していた。その上で父に泣きついてみせた。アンジェリカは同派閥の自分のために動いてくれる自分より立場の低い娘をそれとなく動かしたわけだが、ブランシュは自分のために動いてくれる自分より立場が上の相手にやっただけだ。
結果一つの国が崩壊する事になったとしても、ブランシュは悪いとは思っていない。最初に手を出したのは向こうなのだから。ただの平民だと思って、自分は絶対安全だと思った上でやった事が安全とは対極の結果をもたらしたに過ぎない。
大体逃げる猶予があるのだから、まだ優しい方だとすら思っている。
やろうと思えば、アンジェリカのように周囲をそれとなく先導して王侯貴族を殺せという流れに持っていく事だってできたのだ。内乱からの国家滅亡。そういったシナリオだってブランシュの中には確かに存在していた。
国として成り立たなくなったフローシア王国は、父がその土地をまるごと買い上げる結果で終息した。王家の人間がこぞって国を捨てて逃げたので。それを止めて改めて王家の血を絶やす事もできたけれど、そこまですると侵略行為として後からあれこれ言われかねない。ブランシュの父はあくまでも周囲の国が土地を巡って争う前にさくっと周囲の国が文句を言わない程度の金を積み上げて国を丸ごと買い占めたので、そういう意味では無血開城になるのかもしれないが、別に侵略するつもりはなかった。
折角得た土地を父が何に使うかは、ブランシュにとってどうでもいいものだった。
周辺の国の交通をより便利にさせるか、工場を作るか、巨大な店を作るか、いずれにしても今回使った分の資金は回収できる算段をとっくに立てているだろうし。
もし将来、逃げ出した王家の人間の誰かがここは自分たちの国であったと宣言して返せと言ったとしても。
その頃には周辺の国が黙っていないだろう。
周辺の国ごと滅ぼせるくらいの力を得ているのであればともかくそうでなければ、ここを取り返すためにはこの土地を取り囲んでいる国全てを相手にしなければならなくなる。普通の戦争より面倒くさい事になるのは言うまでもない。
普通の戦争なら精々狙った国と同盟を結んで援軍を送ってくるかもしれない国が一つか二つ、それとて兵の数はある程度把握できるだろうけれど、ここは下手をすると最低でも四つの国を同時に敵に回す事になりかねない。
素直に周辺の国から落とす方がまだ可能性はあるけれど、それをすればいくらこの国がかつて自分たちのものであったという正当性をのたまったところで先に他の国へ侵略行為を仕掛けた以上、それすら正論とはとられない。
正直まだ旨味がないと放置されてる不毛の地で一から国を興した方がマシに思えてくる。
ブランシュが泣きつかなかったなら果たしてどうなっていただろうか、と考えたが、まぁ結果は然程変わらないだろうと思った。
何故って父は前からこの土地に目をつけていたのだから。
遅かれ早かれここは父の物になっていただろう。途中経過は違えども結果は同じだ。
もしかしたら、とブランシュは思う。
原作では自分で直接嫌がらせをしてきたはずのアンジェリカがあえて自分の手を汚さず嫌がらせをしてきたという時点で。
もしかしたら、彼女もブランシュと同じ転生者だったのかもしれない、と。
自分の手を汚さず、原作の悪役令嬢が断罪されるシーンで自分はやっていないという逃げ道を用意したのではないだろうか。実行犯を止めることができなかった落ち度はあれど、直接手を下していないのならば高位貴族のご令嬢だ。いくらでも逃げ道はあっただろう。
とはいえ――
「貴族ならもっと貴族らしいやり方をすればよかったのに」
数が多すぎたから辟易してはいたけれど、それでも嫌がらせの内容はしょぼすぎてトラウマになるような事にもならなかった。これなら前世で仕掛けられた嫌がらせの方がまだ……と思う程度には。
もしかしたら転生する前は虐めとか嫌がらせとは無縁の生活をしていたのかもしれない、と思うとこれが精一杯だったのかもしれない。けれども、だとするならばやはり最初からこちらに手を出すべきではなかった。
手を出した結果がどうなるかもわからないままに相手に喧嘩を売るなど、愚かしいにも程がある。
「喧嘩を売るなら相手をよく知った上でやらないとね……」
アンジェリカは確かに高位貴族であったけれど。
だがそれでも小国の中の、という言葉がつく。
広い世界から見れば、ちっぽけな国の公爵家など、さしたる脅威でもない。
これがもっと大国の歴史と権力を兼ね備えた家であったならまだしも。
あの国を出て、果たしてどれだけの貴族が生き延びていけるだろうか。
ふとそんなことを考えたブランシュではあったけれど。
仮に答えを知ったところでどうでもいいかな、という結論にたどり着いた。
ブランシュにとってはそれくらいどうでもいいものだったのだ。
自分が知っていた作品によく似た世界に転生した事も、今回の件も。
ヒロインをしないという選択をした時点で、何もかも。
自分とその周囲が危険に晒される事がないのであれば、何が起きてもどうでもよかったのである。
ブランシュが悪役令嬢、アンジェリカがヒロインに転生していた場合。
多分邪魔だと判断された時点でヒロインが死にます。前世でそれなりに貴族社会みたいなところで生きてた相手が今回も貴族になってたらそれくらいは普通にやる。
アンジェリカに足りなかったのは修羅場を潜り抜ける事に関する経験値。でも前世普通の一般市民に対しての修羅場は多分ブランシュが想定している修羅場とは違う気がする。
ブランシュは間違いなく銃口向けられたくらいでピィピィ泣くなよとか普通に言うタイプの女なので。
……関わりたくないタイプなのは否定しない。
次回短編予告
呪いのお話
今回と違ってとてもさっくり読めるやつです(*´ω`*)