目の死んだ婚約者たちは。
天啓とは本当にあるものなのだ。そう雷に打たれたように理解したのは齢五つの頃だった。
こちらを見つめたアイスブルー、艶のある金の髪。どきりと胸が脈打った刹那、脳裏に過る光景があった。走馬灯というにはこのお茶会は穏やかすぎる。かと言って白昼夢とは誰が言おうと認められない。少女アンリエッタは伯爵家の中でも力のある家柄に生まれた才媛であり、たった五つだというのに大人のように澄ましてカーテシーまで出来てしまうし、ガヴァネスの宿題だってバツをもらったことがない。マナーというものの大切さを理解している少女が、うとうとと王子の前で居眠りをするはずもないのだ。
だからきっと、これは天啓なのだ。人形のように無欲な少女が王子に一目で心奪われ、血の滲む努力の果てに伯爵家でありながら王子の婚約者に上り詰めたものの、彼が恋に落ちた少女にその座を奪われ、政争にも敗れて失意から出家してしまう。そんな未来の夢。それをどこか、ここではない場所で、物語として見たような。
ここではないどこか?そんな場所はない。自分は自分でしかない。この世界ではないどこかで生きていたはずもない。ぐわりとこちらを呑みそうな誰かの自意識と強烈なジャメヴュ。それを幼く小さなアンリエッタは、貴族としての矜持できりりと追い払い封殺した。天啓を得てからそれは僅かに数秒。アンリエッタは呆けそうになったのをなんとか取り繕い、お墨付きのお辞儀をして王子の前から去った。傍目から見れば、美しい王子の容貌に見惚れて、それから我に返ったように見えただろう。彼女の前にも何人か似た様子を見せた令嬢たちはいたし、大人たちも王子も何も気にすることはなかった。
しかし、彼女をよく知る家族は別である。子供だというのに聞き分けがよく、感情に乏しい娘をかねてより心配していた両親は挨拶を済ませた自慢の子に駆け寄って屈み込んだ。アンリエッタはそれを見上げ、何かを期待している父にそっと呼びかける。
「おとうさま」
「どうしたんだい、アンリエッタ」
「わたくし、でんかではなく、オルゼーししゃくのごれいそくとこんやくをむすびたいです」
「ええっ」
予想と違う答えに父も母も目を見開いて互いに目配せした。父は眉を下げながら他の人間の耳に入らないよう、少し声を落として娘に語りかける。
「そんな、アンリエッタ。おまえなら立派な王子妃になれるかもしれないぞ」
「ありがとうございます、でも、それはりょうちにかんげんされないめぐみです。わがやでじさんきんをかきあつめるより、もっとりょうちをとませることをかんがえるべきです」
「うう、そうだなぁ、そうなのだけど」
初めて娘が子供らしい反応を見せたというのに、結局いつも通りである。娘の力強い眼差しにたじたじとなった父が返す言葉に悩んでいると、今度は母が気遣わしげに顔を覗き込んできた。
「アンリエッタ」
「はい、おかあさま」
「貴方はそれでいいのね?」
「はい。わたくしはきぞくのむすめです」
「そう、わかりました」
子供としては可愛げのない答えだが、貴族としては正解の回答だ。きっと娘は恋よりも現実を優先してしまったのだろう。母親は小さなため息をつくと夫へと向き直る。
「あなた。私たちの可愛い娘がこう言っているのです、ここは中座して邸へ帰りましょう」
「しかしなあ……」
「大丈夫ですよ。挨拶は済ませましたし、ヘイウッド侯か、アルバ辺境伯かと前々から言われていたではないですか」
「……そうだねえ。アンリエッタや、食べたいケーキはもう無いかね」
「はい、レモンのタルトがおいしゅうございました」
「そうかい。よかったねえ。アンリエッタ」
しっかりと答える娘を温かな手で撫でてやり、その小さな手を握る。叶わなかったとしても、婚約者になりたいと声を上げるくらいの幼さも育ててやれなかったと苦い気持ちを抱きつつも、この年ですでに貴族とは何というものかを理解している娘の聡明さを誇りと思った。
そしてその後。ヘイウッド侯爵令嬢と第二王子の婚約が調い、アンリエッタは自らの望み通りオルゼー子爵令息と婚約を結んだ。どちらも政略結婚、そして家格をみても適切な婚約。お茶会で王子に見惚れた少女たちは数日悲しんだものの、彼女たちも別の相手との婚約がなされていき、そしてその茶会のことはどんどんと過去になっていったのである。
それから、あっという間に十年後。
アンリエッタは学園のテラスで婚約者と穏やかに午後のティータイムを楽しんでいた。
「……わ、」
ふと対面の青年から漏れた声に顔を上げた。見れば彼はテラスから下の中庭を見下ろして、少しだけ眉を寄せている。なにやらうっかり毛虫でも見つけたような顔だ。そのままじっと婚約者の顔を見つめていると、はっと我に返った青年は口に手を当て、恥じるように俯いた。
「申し訳ありませんアンリエッタ嬢、お耳汚しを」
「いいえ、構いませんことよ。ダグ殿」
音を立てずにテーブルへカップを下ろし、アンリエッタも同じように中庭を見下ろした。見れば、そこには第二王子と見たことの――ある、小柄な令嬢がピッタリと寄り添い、対面には座り込んだヘイウッド侯爵令嬢、そしてその手を取ろうとする留学中の隣国の皇太子の姿が見える。流石に距離があるので話の内容は聞き取れないが、王子が肩を怒らせ、婚約者であるヘイウッド侯爵令嬢を指で差している様は、どうみてもまともなものではない。最近流れている噂も合わせて、どんなことが繰り広げられていたかは想像に易い。
「……賑やかですこと」
「……そうですね」
濁した感想を漏らすとダグも同意して小さく頷いた。
最近の噂。第二王子は、貴族の仲間入りをしたばかりの男爵家の娘に夢中で婚約者を蔑ろにしている。噂とはいうが二人が恋人同士のように語り合っている様は多くの学生に目撃されており、不貞は明らかだ。
皇太子が助けに入った理由は察するしかないが、手を取り立ち上がらせた後さりげなく身体に触れているあたり、何かしらの下心を感じざるを得ない。異様な光景から目を逸らし、アンリエッタは灰色のどこか力無い瞳を見つめた。
「ダグ殿、あなたは先刻何を言いかけたのかしら」
「……いえ、あなたのお耳に入れるようなことでもない、詮なきことです」
「いいの。わたくし、あなたのお話が聞きたいわ」
ダグはゆるりと首を振ったが、アンリエッタのじっとりとしたオリーブの瞳はダグの目を見て離さない。そのまま数秒、瞬き以外に彼女が身じろぎ一つしないのを見て取り、ダグは諦めたように肩を落とした。こうなると、自分の婚約者殿は決して譲ってくれないと経験でわかっている。誰の耳に入るかもわからないので、彼女にだけ聞こえるように。元から小さな声をさらに密かにぽつりとつぶやいた。
「気色悪いな……って」
「まあ」
声は上がったが、アンリエッタは真顔のまま。声も起伏に乏しく、驚いたようにも見えずどこか白々しい。しかし、これでも彼女は驚いているのだとダグはちゃんとわかっている。
「あの……あちらの方々言わずもがな、ですよね」
「えぇ。ダグ殿は向こうの方々が気になりますの?」
「たった今、……揉め事に介入してきましたけど、どこかで様子を伺ってたんですかね?というか……あの方はずっと、自分の立場を弁えずに、ずっと横恋慕をしていたのかな……と」
「確かに、とてもタイミングが良かったようですね」
「さらにいえば、その……あの身の上で今まで婚約者がいなかったのがあちらの私情ゆえだったなら……その横恋慕のために、あの方の国は大切なことを決められていなくて、色々宙ぶらりんだった……ってことですよね」
「仰るとおりですね」
もう一度下を見れば、皇太子は侯爵令嬢に傅き手を差し出している。どう見てもプロポーズ。令嬢の方はといえば驚いているようにみえるものの、まんざらでもなさげである。渦中にいるあの四人だけの空間であればなんともドラマティックだが、こうして距離をとってみると、演劇にも劣る寒々しさがある。隣国は自国と比べ広い領土と財力があるが、その国の皇太子に婚約者がいないことは学園内でも不思議に思われていた。こちらには伴侶を探しにきたのではとまことしやかに囁かれることもあったが、少し考えてもみてほしい。
平穏ではあるけれど、目立つところのない小さな国の、王族でもない娘を、隣国の皇太子が娶る政治的意味が果たしてあるのだろうか?
まだ第二皇子などが娶るのならわかる。しかし皇位に直結する身分でそれはいかがなものか。まだ自国の中で見繕ったほうがいい。確かに侯爵令嬢は優秀で、王子妃に相応しい教養を身につけてはいるが、今から隣国の皇太子妃となれば勝手も違う。優秀さをかって連れてきた……という言い訳は全く通らない。だってそれは「そんな小国に出なければならないほど、自国の令嬢たちは愚かだ」という表明に等しい。
尊い皇太子である。であれば自国の方で出席が必須のパーティも何度も行われよう。その度に彼は、適当な相手にパートナーを頼み、それでもこれは婚約の内定ではないから勘違いするなとでも言い含めていたのだろうか?
「それって、今糾弾されている方々の仰る「真実の愛」ってやつと、何が違うんですかね……と思ったら、なんか、気色悪くて……」
真実の愛、それは第二王子が声高に主張していた耳慣れない言葉だった。適当にしか聞いていないが、要約すると「愛したものと結ばれるのが至上の幸福」らしい。世の中には運命というものがあり、それに逆らって婚約をするなど愚かだ、と。なかなかに馬鹿馬鹿しい主張だが、予定調和のような婚約をしてきた者たちの中にはそれに感じ入るものもいたようで、侯爵令嬢を序列も忘れて悪様に貶し、物語のように面白おかしく語っているものも多いと聞く。アンリエッタは常に無表情であるので、そういった話題を振られても場が温まらず遠巻きにされていたので詳しいところを知らないのだが。
見ると、中庭の第二王子は膝から崩れ落ち、傍の男爵令嬢も何かを騒いでいる。そんな見苦しい光景に背を向け、侯爵令嬢の腰をホールドし耳元で何かを囁いてその場から立ち去る見苦しいペアもう一方。はたして往来でやることか?内心アンリエッタは首を傾げ、それから興味を失って婚約者に向き直った。
「……あの、アンリエッタ嬢」
「なんでしょう」
「……情熱的なことって、女性はみんな好き、なんでしょうか……?」
「まあ……悪様に批評した後に尋ねるなんて」
「すみません、でも、おれにはとても無理です。あんなこと。貴女があれを夢に見るのなら、到底応えられない」
力なく項垂れるダグにアンリエッタはあたたかな気持ちになった。もちろん顔には出ていない。そのままティーカップを持ち上げて、ゆるりと表面を揺らした。柔らかく白濁したそれを一口飲み込んで、ほんの、ほんの少し、僅かに口角を上げた。それはアンリエッタにとっては満面の笑みなのだとダグは知っていた。
「ダグ殿。わたくし、紅茶はミルクを入れるのが好き」
「存じております」
自分と同じように表情に乏しい婚約者はティータイムの時には小さな笑顔を浮かべてくれる。それが決まってミルクティーの時だと気がついた時、ダグはとても嬉しくて、同じように少し口角を上げたものだ。
「わたくしの領地の穀倉地でつくった飼料と、あなたの領地で育った家畜、互いに利のある交易は素晴らしいものですわ」
「はい。最近特によく育っていて、感謝してもしたりません」
「わたくしもです。最近は馬も育ててらっしゃるでしょう?鮮度の良いミルクが邸に届いて嬉しいの」
ダグはよく、あんな人形みたいな女が婚約者などつまらなくないかと嘲りと共に問いかけられることがあった。それに決まって彼は「わからない」と返す。だって分からない。我々貴族は「おもしろさ」で婚約しているわけではないのだ、その質問の意味がわからない。確かに話題が弾むことはあまりないし、ほぼ無言で時間を過ごすこともある。しかし、それを息苦しく感じたことはない。アンリエッタもそうであってくれたらいいと願っている。アンリエッタが紅茶を飲み干して、ティーカップをおろす。その瞳はいつも通り、平淡だが、冷たくはない。
「あなたとわたくしは政略結婚です。でも、わたくし、今が幸せよ」
「……ありがとう、ございます。アンリエッタ嬢」
「アニーと、いつか呼んで下さいませね」
「あなたに相応しい男になれたら」
「ふふ」
笑う――といっても声だけに見えるが――アンリエッタにダグは小さく目を見張る。今でも十分、ととっても良いのだろうか。問いかける度胸もなく、まじまじと婚約者の顔を見つめると、彼女は最後にもう一度だけ中庭へ目をやった。そこにはもう誰もいない。
「どうあれ、気にしないで。わたくしたちには関係のない人たちなのだもの」
「……そうですね」
とんだティータイムになってしまったとダグはテラスに誘ってしまったことを後悔し、そしてやはり不用意な自分のうめきを恥じた。その内省を察しつつもアンリエッタはそっと胸元に手をやる。思い出すのはあの日の天啓のことだ。あのよくわからない夢をアンリエッタはこの日まで一度も忘れたことがない。
ありがとう、あの日私が封じたみしらぬ「あなた」
貴方の記憶の一欠片が、わたくしを貴族としてより戻した。きっと、この体はあの瞬間から「あなた」のものになるはずだったのでしょう。しかしそれは譲れない。あなたが無念に命を落とし、わたくしの魂に落ちてきたのだとしても、その不幸は私になんの関わりもない。私は最期の日まで貴族の娘。あなたの記憶でいう、恋で心を得てしまった人形姫アンリエッタではなく、ただの人形令嬢、アンリエッタなのです。
だから、「自らの幸福のため」婚約を結ぶのでも、避けるのでもなく、「領民の幸福のため」の婚約を選んで今、ここにいるのです。
誰に届くでもない感謝は誓いのように。誰も知るものがいないなかで、アンリエッタは誰かを悼みそっと目を閉じた。
転生者に成り代わられる必要って必ずしもあるのか?というのと、横からフリーの身分ある男が滑り込んでくるのストーカー染みてて気持ち悪くね?というのとお見合いってそこまで不幸か?っていうテーマでざっくり書きました
3/22日計ランキング掲載、誤字報告感想などありがとうございます
誤字報告について→ミルクを届けるための足として馬と書いているのでこのままで大丈夫です。お気遣いありがとうございます