《僕》と《俺》
確かに死んだと思ったが、俺は死ななかったらしい。いや、正しくは生まれ変わったのだと直感的に感じた。
死んだときとは違う温度と匂いが自分の周りを取り巻いているのを感じる。温かくて、瞼を閉じていても明るくて、爽やかな香りで、背中もアスファルトの硬さではない。体験したことのない感覚だ。
「ユー?大丈夫?」
耳に届いた軽い声に目を開くと、温かな陽射しを背負った金髪に青い目の天使が俺の顔を覗き込んでいた。パッチリと丸く幼い瞳が、潤んで「心配だ」と語りかけてくる。こんな視線に見つめられるのは初めて……
「あにうえ?」
自然と口から零れた言葉に自分でも驚く。俺はさっき親友に胸を撃たれたばかりだが、それとは別の記憶が目の前の少年を兄だと認識している。そして「大切だ」と語りかける視線に何度も見つめられていた記憶が確かにある。
「ユー、何で胸押さえてるの?打ったのは頭でしょ?」
言いながらおでこの生え際付近を撫でられた。言われると確かにそこがジンジンと痛んでる。ゆっくりと起き上がれば、整えられた芝生の広場に倒れていた事が分かる。爽やかな香りはあの花壇から漂ってきているのか。花壇に整然と並ぶ、背の低い淡い色の花々はどれも見たことない物だ。
ジンジンと痛むおでこをそっと触ると少し膨らんでいる。たんこぶができてるなら、大したことないかと思い、ゆっくりと首を動かせば、整った優しげな顔立ちの兄とまた目が合う。さらさらの柔らかそうな金髪に晴れた日の海の様な青い瞳。真っ直ぐな鼻筋に口角が上がった薄い唇。前世の『俺』が憧れていた優しい顔立ちの少年が目の前に居た。
この天使の様な顔立ちの弟ならば、と一瞬だけ思って首を振った。残念な事に兄とは似ていないと不満を溢している記憶に思い当たった。俺の見た目は生まれ変わっても強面らしい。部屋に戻ったら鏡を見てみよう。
ふと、兄の斜め後ろの大きな木が目に入った。そう言えばあの木になかなかの勢いでぶつかったんだった。
兄に手を引っ張られて、足がもつれて、木を避けきれなくて、ぶつかった反動で仰向けに倒れた。俺の足はそんなに軟弱だったか?いや違うか。
この時期の三歳分の体格差、体力差はかなり大きいよな。兄上だって分かってるはずなのに、優しそうに見えるけどなかなかにヤンチャな一面もあるのか。
「血は出てないけど……三日後くらいにひどい顔になるかもしれないなぁ。頼める?」
兄は後ろを振り向いて、大人に話しかけた。その言葉が治癒魔術を依頼しているという事も理解したし、頼まれた大人が、俺達兄弟の教育係を務めるメントラータ伯爵だとも判った。
「王妃様の絶叫を思うと仕方ありません」
呆れた様な顔の伯爵が言うのは、少し過保護な母上の驚きと、まぁこうなった原因を知った時に兄を叱り飛ばす勢いのあり過ぎるお説教の事だろう。あれは、叱られる本人だけでなく近くで聞いてる方もかなり参ってしまう。心配な気持ちの表れだと分かるけど。
ここで、たんこぶごときに治癒魔法をかけるというのは、兄上の所業の証拠隠滅をして、あのお説教を回避しようと言う事だ。
教育係りが率先して証拠隠滅なんかして良いのかと思っているうちに、伯爵は俺のおでこに手を翳して呪文を唱えた。呪文が終わると同時に温かさのある光が視界を奪って、俺の意識はそこで再び途絶えた。
*********
「ユー、僕が悪かった。もう手を引っ張ったりしないから、目を覚まして。また一緒に遊ぼう」
再び聞こえた声に目を開けば、金髪に青い目の天使、もとい兄上が頭を撫でていた。
しっかり視線が合うと、一瞬驚いた様に目を見開いてからニッコリと笑ってくれた。それはそれは嬉しそうな笑顔で、俺、いや僕と兄は仲の良い兄弟であったと確認できる表情だ。
「あっ、目が覚めた?もう痛くない?」
兄上の言葉でススッと乳母のニーナが寄ってきた。兄の後ろから俺の顔を心配そうに覗き込んでいる。濃い青色の前髪の下でオレンジ色の瞳が潤んでる。兄や伯爵はまだ理解できる色調だけど、ニーナのこの色は……
「はい、ご心配おかけしました。もうどこも痛くないです」
『俺』が考え事をしていても、反射的に返事ができた。するりと口から出てきた上品な言葉を兄上に向かって投げ掛けつつ、ニーナにも視線を向ければ、兄上もニーナも笑ってくれた。
その視線にも心配の感情が読み取れて、嬉しいような、恥ずかしい様な気持ちになる。録でもない人生の小学生の時に自分を囲むのが、こういう視線だったら違う人生になっていただろうか。
手を布団から出して体の向きを変えようとしたら、ニーナが背中を支えて起こしてくれた。ニーナはベッドの上で楽に座れる様にクッションや布団を整えて、ドアの外に居る誰かに何かを話して再び壁際に立った。
キッチリと仕事という線を引きつつ、温かい気遣いをしてくれるニーナは、庭で証拠隠滅をしたメントラータ伯爵の奥様だった筈。夫婦で私たち兄弟の第二の両親の様に接してくれている。
「良いんだよ。気にしないで。私が手を引っ張ったせいだもの。具合の悪い所はない?あっ、お腹空いてるんじゃない?三日も寝てたからね」
三日と言われて驚く。三日も寝ていたのなら、あの証拠隠滅は意味を為さなかったどころか、母上の怒りを倍増させたのではないだろうか?そろりと兄上の表情を伺うが目を瞬かせて私をニコニコと見つめるばかりだ。
「兄上……大丈夫でしたか?」
「私が悪かったのだ。ユーが気にする事はないよ。ユーは酷い目に合わせた私を心配してくれるなんて優しいね」
母上にかなりの勢いで叱られた筈なのに、そんな様子を見せずに微笑んでいる目の前の天使みたいな少年は、俺の三つ上の兄上でマーディン。
俺の名前はユージーンでついこの前五歳の誕生日を祝ってもらった楽しい記憶が過っていく。
兄上と僕の見た目は、見事な程に似ていない。
けれど穏やかな父と明るい母と家族四人で仲良く過ごしていた記憶を思い出せば、間違いなく兄弟だと信じられる。
兄上や両親と過ごした記憶とは別に、録でもない人生の記憶も鮮明にある。ついさっきの様な気がするのは、撃たれて倒れたアスファルトから見上げた星空の景色とその直前の幸せで少し寂しい気持ち。あのときの流れ星が願いを叶えてくれた……のか?
「天曜日……」
この世界は八つの曜日が有って、木にぶつかった日は天曜日だった。そして、『俺』はあのとき流れ星に『天曜日の世界』を願った気もする。
「ユー、三日寝てたからもう緑曜日だよ。まだ少しボーッとする?」
ぼんやりと記憶の整理をしながら呟いた言葉に兄上が返事を返してくれる。
「うん。なんだかボーッとしてるからもう少し寝る事にするよ」
「寝る前に少しは食べておくんだよ」
小さくノック音が聞こえて、ニーナが扉を開けてワゴンを受け取ったのを見た兄上は、僕の頭を撫でて部屋を出ていった。
「ユージーン様、軽食を用意しましたが食べられそうですか?」
心配そうな顔をしたニーナがスープ皿をサイドテーブルに置いて尋ねてくる。
「自分で食べるよ。お行儀悪いけど、ここで食べても良いかな?」
ニーナがベッドの上にテーブルを置いて、このまま食べれる様に用意してくれた。温かいスープは具が少な目のトマトスープだ。お子様舌の筈なのにトマトの酸味が美味しく感じる。横に添えられたパンも千切ってを食べて、お腹を満たしたらサッとベッドに潜り込んだ。
ベッドの中で目を閉じて寝た振りをしながら、記憶の整理をしていく。
暮らしていた記憶を辿れば、魔法がある平穏な国に生まれ変わった様だと気付く。魔法はまだ勉強していないのか詳しくは分からないが多くの人が使える物で、自分も魔道具と呼ばれる物を扱って便利に暮らしている。生活水準がそんなに変わらない事にホッとする。
次に身近な人間の顔を浮かべ、家の中の構造と庭の景色を思い浮かべる。優しい両親と兄に穏やかな使用人。五歳の私はなかなかに恵まれた暮らしをしている様だ。
いや、待て。あの庭の向こうに見えた大きな建物は何だ?恵まれた暮らしどころではないのではないか?と考えた所で、メントラータ伯爵が父上に跪いて、「陛下」なんて呼んでいる場面を思い出した。
口を突いて出てくる言葉が上品だと思っていたが、父が国を統べる王だ。一夫一妻の国だから、母は間違いなく正当な王妃様。つまり、俺は王子?チンピラが生まれ変わって王子ってどんな冗談だ。
兄を思い起こせば、は王子という立場に相応しい綺麗な顔立ちの美少年だった。その上優しくて責任感の強い、生まれに相応しい人間だ。よし、未来の国王はとっとと兄に任せる事にしよう。
それから、今の状況、前世との繋がりについても考える。録でもない人生の道端で親友に撃たれた『俺』の願いが叶ってこの状況だとする。天曜日のある世界で、温かい家族と過ごす穏やかな時間。願わくばあの人ともう一度出会って、あの人と穏やかな家庭を持てれば願いが完全に叶ったと言えるだろう。
……だが、この体に元々あった『僕』の意識はどうだろうか。残っている記憶では、自分の事を『僕』と言い、口数少なく過ごしていた。どことなく『俺』と『僕』は似ていた気もするが、全く同じではない。
『俺』の肉体は死んでしまっている筈だから、入れ替わっている訳はない。思い出せ、『僕』は何を考えていたのか。『僕』の願い事はなんだったのか。
「よく学び、民に寄り添って生きるのだぞ」
「ユージーンも沢山お勉強して、マーディンを助けてあげてね」
誕生日にかけられた両親の言葉を思い出すと、息苦しさを感じた。それと同時に録でもない人生の最後の日に、あの女神の様な人から聞いた悩み事も思い出した。それに録でもない人生の母親の言葉も。
―親の期待に対する反発心―
『僕』の感じていた息苦しさの正体が見えた時、『俺』と同じ思いを抱えていたのだと気付いた。『俺』は親の期待を投げ捨てて録でもない人生を進んだ。『僕』は親の期待を投げ捨てて切れずに、希望を言えずに苦しんでいた。そして『僕』は親の期待を投げ捨てる行動力を願っていたようだ。
それならば、『僕』も『俺』もやることに変わりはない。俺は親の期待になんか振り回されずに自由に、明るい世界で堂々と生きる。あの流れ星が願いを叶えてくれたなら、きっと女神のようなあの人もこの世界に居る筈だ。世界中歩き回ってでも必ず探し出して、穏やかな暮らしをめざそう。
跡継ぎの役割は兄に頼んで自由に生きようと改めて心に誓った。
そうして数日過ごせば、録でもない人生を歩んでいる時の方がよほど自由だったと気付いた。療養期間だからと言われ、部屋から出ることはゆるされず、常に人に囲まれる生活。
兄は何度も部屋に来てくれたけれど、優しい両親に会えるのは寝る前の限られた時間だけだった。
せっかく生まれ変わったのだから、すぐにでもあの人を探し出して、生涯を一緒に過ごしたいと思ったが、身分がそれを許さない。この身分から逃れるのはなかなかに難しそうだ。
それなら、あの女神のような人の為にこの身分を使おう。
すっかり元気になって、部屋から出る許可が降りた日、鏡の前に座らされた俺は軽く凹んだ。分かってはいたけれど、鏡に写る自分は、折角生まれ変わったのに兄とは似ていない。目付きの悪い、どことなく人相の悪い生意気そうな少年だった。
兄は父に似た優しげな面差しに細くて柔らかなくてサラサラの金髪。クリッと丸い瞳は空色で爽やかな印象を作る。それに対して俺の顔は……思わずため息が漏れた。
「ユージーン様はまた気にしていらっしゃるのですか?王妃様に似て凛々しいお顔で良いではありませんか」
ため息を吐いて吊り上がった目尻を揉んでいたら、ニーナが笑いながら髪をときはじめた。真顔でいると下がる口の端を上げてみたが、鏡の中の俺は何とも皮肉げな笑顔で可愛げも爽やかさもない。髪の色もマーディーンみたいな品のある金髪じゃないしウネウネと癖っ毛で気に入らない。瞳の色も青とも緑とも言い難い水苔みたいな色だ。
「僕も、兄上の様な品のある優しいお顔に生まれたかった」
「隣のお部屋の会話を聞きますか?」
ニーナが髪をとく手を止めてエプロンのポケットから緑色の石を差し出した。緑の石は録音の魔道具だ。受け取って起動してみる。
『私はなんで、こんな女みたいな顔なんだ。ユージーンみたいに男らしい顔に生まれたかった』
『王様ににて優しげなお顔で良いじゃありませんか』
『その父上はお顔のせいで威厳がないといつも嘆いておられる』
『ユージーン様と同じお顔の王妃様は人に萎縮されると嘆いておられますな。ちなみに、ユージーン様も自分の顔が気に入らない様ですね。確認しますか?』
魔道具から聞こえてきたのは、兄上とメントラータ伯爵の声だった。まさか兄上がこんな悪人顔になりたいと言っているなんて信じられず、驚いてニーナの顔を見上げた。ニーナは嬉しそうにニコニコしている。
「ご兄弟揃って、毎日同じ事を言うので、録音しておいたんですよ。これは五日前のお隣の部屋の会話です」
「えっ?もしかして、僕の愚痴も録音して兄上に聞かせたの?」
「えぇ!ユージーン様が眠っている間に。ちなみにですが、ご兄弟と同じ会話を若い頃の国王様と王妃様もなさっておいででした。どうしても気になるなら、今度から笑顔の練習の時間でも作りましょうか?」
ニーナの手を借りて身仕度を済ませると、兄上との勉強のため部屋を移動した。まずはこの世界に馴染んで、動ける範囲を広げていかないと。