表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/27

録でもなかった《俺》

「俺」という男の人生は録でもないものだった。


暴力的な父と、その暴力で体が不自由になった母という家庭で育った。

父が家に居たのは小学校に入る前までだったと思う。母が片目を失った時に、父は警察へと連れていかれて、それ以降の父の存在を知らない。


「お前は名前の通りに育ってよ。父さんとは違って優しい人になるんだよ」


父が居なくなった家の中で、母は懇願するように俺にそう言い続けた。いや、父が居た時から言われていたのかもしれない。小学校の低学年くらいまでは、人に暴力を振るってはいけないと思っていたし、暴力的な友人の止め役でもあった。


父が居なくなった後、近所の人間の視線からは哀燐と、嫌悪感と、恐怖心が感じられた。「大変だね」「可哀想に」なんて言いながらも、誰も何もしてくれない。俺は子供心に可哀想と言う言葉に含まれる、見下した感情を読み取っていた。


小三のある日猫を撫でているだけなのに警察がやってきた時、『優しい子』でいる理由を見失った。可哀想と言われるくらいなら、犯罪者の子と恐れられる方が良いと思った。

だんだんと父に顔や声や見た目が似ていく俺に対して、母は怯えと嫌悪感を表すようになった。仕方ない事だと思うのと、少しの寂しさと、父への恨みで、益々人と関わるのが嫌になった。


口数が減り、常に人を睨むような目付きになった俺に対して、たった一人だけ態度を変えなかった親友が居た。嫌、態度は変わったけど、付き合いが変わらなかった親友と言うのか。


親友は元々少し暴力的な性格で、キレて暴れる時に宥めるのが俺だった。


小五のある日、親友が国語のテストで二十三点を取り、それを馬鹿にした親友の兄貴を俺がボコボコに殴った時その役割が逆転した。

漢字が書けなくっても、他人が書いた文章の意図が読めなくても、親友は上手に喋るのに。テストで九十点を取っていても、何言ってるのか分からない奴に馬鹿にされてるのが許せなかった。いつも俺の話をちゃんと理解してくれる親友が、上っ面でしか言葉を聞かない様な奴にバカにされてるのが許せなかった。

後にも先にも、あんなに我を忘れて人を殴った事はない。


「お前が困ったら俺が助けるから。二度とあんな兄貴なんかに頼るな」


親友に言った言葉は嘘のない気持ちだったけれど、その時の俺はまだまだ何の力もないガキだった。それでも親友は俺を慕ってくれたし、お互いに気を張らず笑って話せる唯一の相手になった。


中学に入った頃から俺達はますます周りの人間に馴染めなくなって、暗い世界を進んだ。万引きは日常だったし、イライラした気持ちは他人に拳でぶつけていた。人が信じられなかったし、人に合わせる事もできなかった。ただ人殺しだけはしないと、親友と二人で決めた。


中学校の卒業式は親友と二人して少年院に入れられていて、出席できなかった。まぁ、元々学校にも大して行っていなかったけれど、それでも中学校は卒業した事になるんだなぁ、なんて思った。

桜が桃色から若葉色に変わる頃に塀の外に出て、同じ制服を着ていた同級生が様々な制服を着て歩いているのを見て、取り残された様な気分になった。何とも言えない気持ちを拳で母にぶつけて、父と同じ事をしてしまった自分が嫌になって家を飛び出した。それ以降母に会った記憶はない。



十五才の俺は街にいた同類に倣って金の稼ぎ方を覚えた。酔っぱらった中年は俺の上客だった。酔っている人間は判断力も運動神経も鈍るし、酔いが醒めた後の記憶も曖昧だから。場所を選べば多少無茶な要求をしても、後から追い回されにくい。

酔っぱらいの中年の財布を開けながら、自分がどんな中年になるのか全く想像できなくて、平和な酔っぱらいを少しだけ羨ましく思ったりしていた。


他人の財布を開ける様な仕事をする時は、いつも親友と組んでいた。親友は俺よりだいぶ顔が良かったし、優しそうな外見をしていたから、女からも別のやり方で金を稼いだりしていたみたいだ。


俺たちは二十歳を過ぎても、そういう過ごし方を変えられなかった。ニュースを見て、自分達にもできそうな詐欺を働いたり、他人の弱味を見つけては金稼ぎをしていた。流石に全く発覚しないなんて訳はなくて、俺達は警察から隠れて、暗い場所で過ごす日々を送っていた。

時折街で同級生がスーツを着て歩いているのを見て、自分だけが違う世界に隔絶されている様な気がした。どの時点まで戻れば俺も普通に生きれたのだろうなんて、思い始めたのはその頃だったと思う。


二十五歳を過ぎる頃、俺に上司の様な人間ができた。住まいを用意され、稼ぎの半分を納める。その人から客を指定される時もあるが、ほとんどは自由にやらせてくれる良い上司だった。まぁ、指定された客でしくじるとそれなりな罰は有ったが、多少体が痛むだけの事。


俺は上司に用意されたワンルームから向かいの会社を出入りする人間を眺めて、客を見つける。それなりに把握したら親友が客に接触して仕事をする。それが日常になっていった。


俺は案外と観察眼が有ったらしく、大勢の一般人から後ろめたい事を隠している人間を見つけるのが上手かった。親友は演技が上手かったらしくて、人当たりよくさも親切な人風に接触して、『トラブル解決料』を快く払わせていた。


用意されたワンルームで、俺は一つの趣味を見つけた。最初は部屋の中や観察中の自分の姿を隠す為に、ベランダにいくつかのプランターを並べてゴーヤやプチトマトなんかを育てていた。植物の世話をする僅かな時間だけ、俺はまるで普通の優しい人になれている気がして、ホッと寛げていた。


俺はある日、そんなベランダから仕事の為に眺めていたビルの入り口を出入りする女性に一目惚れをした。背筋がピンと伸びた、キッチリした雰囲気なのに優しそうに見えるその人は、うちを見上げて俺に会釈をした。

自分でも判るほど、俺の顔は凶悪だ。目付きは悪い、口はへの字、坊主でタバコをくわえたゴツイ男。昼間に出歩けば大抵の人に避けられる。そんな見た目の俺に向かって微笑んで会釈をした。俺はそれだけで物凄く嬉しくて、人生で初めて温かな気持ちになった。


毎日隠れながらその人を眺め続けて三年。その人がどことなく元気無さそうにビルに入っていった。その表情が、歩き方が、俺の心を波立たせ、じっとしていられない衝動に駆られた。あてもなく車を走らせ海を眺めて、俺にできる事など無いと諦めをつけた。


一日ぼんやりと過ごしてマンションに帰り着いたのは夜の九時頃。駐車場に停めて、車を降りた所で五人の男に囲まれた。俺の上司と、その取り巻き。


「逃げてたわけじゃないんか?お前の相方は、慌てて出掛けた言うてたけど、どこ行ってたんや?」


上司がニタニタ笑いながら、違和感のある関西弁で話しかけてくる。先週の指示された仕事で何か有ったか?

背中側は鍵まで閉めた車。左右はおれと同じくらいのガタイの男。前には中肉中背が三人。逃げようとは思ってないけど、逃げ道はなさそうだ。


「落とし前はキッチリしてもらわんとなぁ」


右側の男が指をポキポキ鳴らしながら、すぐ近くで話しかけてくる。


あの人の様子に焦ってボーッとしてたから、今朝は親友の話を聞き流していた。多分親友は俺にヤバイって言って仕事の報告をしてくれてた筈だ。でも俺は話を聞いてなかったから何が起きてるのかはわからない。


今朝の記憶を辿っているうちに投げ飛ばされた。飛んだ先には別の男がいて、蹴りつけられる。それからまた胸倉を掴んで投げ飛ばされを繰り返す。五対一は卑怯だろうと思うと同時に、過去の記憶が、父親に殴られてばかりだった子供の頃の記憶が断片的によぎっていく。


何度か殴られ蹴られしているうちに、遠くのほうでサイレンの音が鳴り、周囲から舌打ちが聞こえ、男たちが立ち去って行った。サイレン程度で立ち去るって事は、親友ののやらかしで、警察からのマークが厳しくなっているのか。


親友は無事だろうか?

ぼんやりと星の見えない夜空を眺めていると、コツコツコツコツと女性の足音が近付いてきた。俺も逃げないとまずいかなと起き上がる。痛いけれど、全部打撲だろうなと思う程度の痛みだ。手加減はされてたのか。


「大丈夫ですか?」


立ち上がろうとした瞬間に声をかけられた。屈んで俺の顔を覗き込む瞳に吸い込まれそうになる。肩のあたりで揺れる髪の毛と、その内側で光るイヤリングに見覚えが有って、思わず言葉を失ってしまった。


「もしかして、警察は却ってまずい?ちょっと待っててくださいね」


何も言わずに固まった俺を見て、何か思う所があったらしい。口元に手を当てて首を傾げた女性は、サイレンの鳴ってる方に走って行って、マンションのある路地に入る手前の角で大きく手を振ると、パトカーが止まった。俺の方からはペコペコと頭を下げている女性しか見えないけれど、警察官と何かを話しているのだろう。パトカーは路地に入らず、大通りを去っていった。


本当は立ち去るべきだと解っているのに、体は部屋まで歩いて問題なく戻れる筈なのに、俺はおとなしく言うことを聞いてじっとそこに座っていた。いつも見下ろしているあの人の背中をただただ眺めていた。


「警察には帰ってもらいましたけど、怪我は大丈夫ですか?」


戻ってきたその人が真っ直ぐに俺を見つめる視線は、怯えているようには全く見えない。俺はその視線を都合よく解釈する事にした。怯えられていないのなら、俺でもこの人の為に何かできるかもしれない。


「貴女こそ大丈夫ですか?何か辛いことがあったんでしょう?」


目の前の女性は動きを止め、目を見開いて、それから笑った。

座ったままの俺はその姿を見上げていたから、笑った瞬間夜空に星が瞬いた様に見えた。星の瞬きどころか、夜空に太陽が出たような眩しさを感じた。


「えー?愚痴でも聞いてくれるんですか?」


ふふっと笑いながら、おどけた口調で聞き返される。柔らかい真綿のような声が俺を包んで、現実感を無くしていく。非日常に引き込まれたような、今まで渇望していた「普通」の世界を生きている人になったような感覚。


「聞くだけで貴女が元気になるのならいくらでも聞きます。だから、俺と海に行きましょう?」


自分で言っておきながら、なんて無茶苦茶な事を言うんだろうと思った。どうみても怪しいことこの上ない人間が、唐突に夜中に海に誘うなんて。断られる以外の選択肢が見当たらない。だけど、その人は笑って誘いに乗ってくれた。

「急には無理だから、三日後の日曜日に連れて行って」なんて笑顔で言われて勘違いしない男なんていないだろう。


その日は録でもない人生の、最初で最後たった一日だけの、幸せな日になった。

海へドライブへ行き、カフェでパフェを嬉しそうに食べるその人と向かい合い、海岸を散策しながら人生相談に乗った。


何で俺なんかとデートをしてくれたのか聞いたら、「美味しそうなゴーヤを育てれる人は良い人に違いない」なんて言われた。俺は良い人なんかじゃないけど、その人は迷いなく、俺が否定しようと「良い人」と言い切って、普通に接してくれた。本当に女神の様な人だ。


まるで、自分もこれから普通に暮らせるのではないかと錯覚する様な、穏やかな一日を過ごして、人生でたった一度だけ感じた幸せだった。


「明日が、天曜日とかになれば良いのに……一週間の誰も知らない曜日。仕事も煩わしい事もない二人だけの異世界みたいな時間なら、もっと一緒に過ごせるのかな」


帰り道星空の下でそう言ってあの人は寂しそうに笑った。俺との別れを惜しんでくれる優しい女性に、俺はもう会わないつもりで手を振って見送った。

あの人が角を曲がって、後ろ姿も見えなくなった頃、俺の背後に何人分もの荒い靴音が聞こえた。


振り向いて俺が何を言う間も無く、乾いた音が一つ夜空に響いた。


俺は、親友に撃たれて死んだ。撃たれた理由も分かるし、アイツがやりたくてやった訳じゃない事も分かる。後ろに立つ五人の視線が俺じゃなくて親友を睨んでいたし、親友の手が震えてたからな。


胸が熱くなり、力が抜けていく。見上げた四角い夜空から星の煌めきが薄れていく。


この世界ではもう十分だ。もしもあの人が言った天曜日の世界に行けたのなら、その時には穏やかな時を過ごしたい。

普通の優しい家族に囲まれて、親友と明るい場所で笑い合いながら成長し、あの人と穏やかな家庭を持つ。そんな天曜日の世界にいきたい……


視界が真っ暗になる直前、星が一つ流れた気がした。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ