3.霊ってなんですか
冷静になれば、確かにまだ窓からの光はあった。それと私の間に、濃い靄のようなものがあるから視界が悪くなっている。
「靄って表現は正確じゃないな。薄く小さな靄の集合体が濃く見えてるんだ。そのひとつひとつが、霊だ」
思ったことを言ったところ、彼はそう返事した。
これが霊? 目を凝らしてよく見ようとしたところ、靄のひとつが明確に動いた。こちらを見つめ返し、青白く生気のない顔と至近距離で向き合うことになった。
本当に、よく目をこらさないと姿形を見ることすら叶わない。しばし対峙して、ようやく朧げにその顔を捉えることができた。
落ち窪んだ目に光はなく、感情すら見いだせない死者の顔だった。
「ひいぃっ!?」
「ははっ! だよなー。最初は驚くよなー」
仰け反って悲鳴を上げた私に、彼は呑気そうに笑い声を浴びせた。このクソガキが。
「な、なんなのよこれ!?」
「霊だよ。お前にこの数の霊が取り憑いて周りを漂ってたから、不審に思って声をかけたんだ。普通じゃないから」
普通じゃないのもわかるし、目がさらなる暗闇に慣れると、靄だと思ってたのが人らしき形をした何かの群れなのも理解できてきた。本当に百体ぐらいいそうだ。
人らしきと言ったのは、形があやふやだから。精一杯目をこらさないと、薄いぼやけた影にしか見えない。頑張ればたまに、かろうじて手足や顔がおぼろげに見えるやつもある程度だ。
「普通は、生前にゆかりのある人や物、場所にしか取り憑かないんだ。人の場合は親しかった者か、敵。殺された相手に取り憑くことは多い。それにしてもこの数は異常だ。それこそ、戦場で大活躍した兵士とか、多勢の病人を看取ってきた老医者とかじゃないと。けど、お前はどっちにも見えない。だから、影で多勢の人を手にかけた殺人鬼かなって」
「説明はいいから!」
このクソガキが私に声をかけた理由はわかった。そして、わからないことが増えた。
なんでこのクソガキには当たり前のように霊が見えてるのかとか、なんで私にも急に見えるようになったのかとか。そもそもなんで、私に霊が取り憑いてるのかとか。
けどそれよりも優先すべきは。
「この霊なんとかしてよ! しなさいよ! あっち行きなさい!」
公爵令嬢らしい気品ある口調は、既にどこかへ行ってしまった。そんな余裕はない。
追い払おうとしても手応えがない。当たり前だ。この霊たちは、今までずっと私の近くにいた。
いても気づかなかった存在が見えるようになったからといって、触れられる道理はない。
となると頼りは不本意ながら、このクソガキしかいないわけで。
「しょうがないな。うまくいくかわからないけど、やってみるか」
そして彼はローブの中に手を入れた。
おお。だるそうな言い方も、専門家っぽくてこの瞬間だけは頼りになりそうな雰囲気があった。
なんの専門家なのかは知らないけど。
彼は別の小瓶を取り出した。白い粉末が入っていて、それを手にいくらか乗せると。
「命尽きた者どもよ。主の御元に戻れ。ほら、失せろ。散れ。あの世に帰れ。しっしっ」
非常にぞんざいな文句と共に撒いた。霊たち、つまり私に向かって。
粉とはいえ、一粒一粒にそれなりの大きさがあった。一部は私の口に入った。
しょっぱかった。
さらに隙間からドレスの内側まで入り込んできて、ジャリジャリした感じが気持ち悪い。
「ちょっと! なにするのよ!」
「塩を撒くといなくなるんだよ。お供え物の代わりだ」
「塩?」
確かに、さっきの味は間違いなく塩だけど。
「ほら。この女から離れろ。おとなしく冥界に行け。お前の望みは叶わないんだ」
「ちょ! やめて! やめなさい!」
何度も塩をぶん投げてくるクソガキに抗議の声をあげた。けど、彼は悪びれる様子はなくて。
「いなくなったぞ」
「え? 本当?」
確かに、さっき見えていた靄の姿は消えていた。心なしか、さっきより体が軽くなっている気がする。
口は悪いけど実力はあるんだな。
「あ、戻ってきた」
「なによ!?」
ちょっと見直したその瞬間、地面から大量の霊が再び出てきて私の周りを漂い始めた。
「お前のこと、よっぽど気に入ったらしいな。一度離してもすぐに戻ってくるなんて……ははっ」
「笑わないでよ! 使えないわね!」
本当にむかつく。あとこの霊ってやつも。なんでいなくなってくれないのよ。
「あはは! 霊に好かれる体質らしいな!」
「うるさい!」
こんな使えないクソガキに、もう用はない。私は彼に背を向けて離れていく。霊を追い払うのは、なんか方法を見つけよう。教会で訊くとかで!
「うわたっ!?」
なのに彼から離れる途中で、またバランスを崩して転びかけてしまった。
幸い、今度は体がよろけただけで済んだけど。誰かが咄嗟に駆け寄って体を支えてくれた。
親切な人もいたものだ。一瞬だけ、あのガキがやってくれたのかと見直しかけたけど。
「嬢ちゃーん。酔っ払ってるからって転ぶなよー」
親切な通りがかりの、酔っぱらいの中年男性だった。
顔が赤い。あと酒臭い。酔っぱらってるから、私がこんな所でドレスを着てる奇妙さに気づく様子もない。あと、私のことも酔っぱらいだと勘違いしている。
いえ。助けていただいたこと、感謝はしてるのだけど。
「ここで転ぶと危ないからよー。こないだもここで、子供が死んだからなー」
「え、ええ……ご忠告どうも」
私、死にかけたの? 確かにすぐ横に水路が通っていて柵もない。落ちたら運が悪ければ死ぬこともあるかも。