10.大衆酒場、ヘラジカ亭
「ただいま。お客さんまだいる?」
レオンが入っていったのは、大通りに建っている一軒の飲食店。看板には"ヘラジカ亭"と書かれていた。
大通りに軒を連ねる店は、庶民たちが経営しているとはいえ一等地に店を持てるだけの力がある。
力とは、資金だったり先祖代々から続く住民からの信頼だったり。そもそもここの土地持ちなのだから、資産は十分に所持していると推測できた。
実際、二階建ての建物はかなり大きい印象。店舗になっているのは一階部分だけだけど、客席の数はそれなりに多かった。
多すぎて雑然としている。私はそんな印象を受けたけど。
私だって公爵令嬢として、飲食店を訪れたことはある。気品溢れる内装の店内には、十数席しか椅子がない種類の店だけど。私たちはプライベートが守られたそこで、家族や身内水入らずの食事の時間を過ごすもの。
こんなふうに、大勢の人と同じ食事の時間を過ごす場は初めて見た。
とはいえ、これだけ客席があればかなりの収益はあげていることだろう。
「どうした? 大衆酒場は初めてか? 入れよ」
「え、ええ。大衆酒場?」
「大勢が安い酒を飲む場所だよ。立地と料理がいいから儲かってる」
「おかえり、レオン。その人はお客さん……ではなさそうだね」
「ただいま、ニナ」
店員のひとりがレオンに声をかけた。私と同じくらいの歳の女性。とはいえ私とはかなり雰囲気が違う。暗い茶色の髪をまとめて、三角巾を被ってバラけないようにしていた。
明るい表情やぱっちりした目からは活発そうな印象を受けた。このニナという女性はレオンと親しいらしい。
既に店じまいの時間帯になっているようで、店員たちは片付けに入っていた。客といえば、酔い潰れて机に突っ伏している老紳士がひとりだけ。
とはいえ空いているテーブルには食べ終わった皿がいくつも置いてあり、直前までは大勢の客がいたことが伺えた。
それらを、ニナとその他数人の店員が手際よく片付けている。空いたテーブルをきれいに拭いて、その上に椅子を逆さまに乗っけていく。店員のひとりがモップを用意して、床の掃除を始めていた。
店員に混ざって、レオンもごく自然に飲食店の後片付けの作業を始めていた。
「遅かったね、レオン。仕事が長引いたの?」
「仕事はすぐ終わった。けど偶然、もうひとつ霊を送る機会を見つけたから」
「へえー。大変だね。じゃあ、もう一件お願いしてもいいかな?」
「話だけなら聞く」
「あのおじいさんさ。最近奥さんを亡くしたって言っててさ。寂しさから、今日は呑みすぎちゃったらしくて」
仕事をしながら、レオンとニナはそんな会話をしていた。
手慣れている作業を当たり前にこなすプロたちの動きを見るのは楽しい。けど、そんな呑気なことは言ってられない。
なにしろ私は、店の出入り口に置いてけぼりだ。レオンは大衆酒場って言ってた? 明らかにそんな場所にふさわしくないドレス姿で、所在なく突っ立っている。
いたたまれなくなってきた。
レオンは私のことを忘れているのか、ニナに言われた通り老紳士の近くに歩み寄っていく。
彼の視線は老紳士というより、その少し上に向いていた。
一見すると何もないように見える空間を見つめていたレオンだけど、しっかり焦点が合った目をしたまま、ゆっくりと首の向きを変えていく。そして私をまっすぐ見るように止まった。
まさか。
「この人の奥さんの霊が、たった今ルイに取り憑いた」
「やっぱりー!」
私は叫びながら崩れ落ちた。ニナ含め、店員たちがぎょっとした顔を向ける。
一人祓った直後なのに、なんでまた増えるんだ。
「レオン。この人は誰?」
ニナが戸惑い気味に尋ねた。本当は私が自ら説明しないといけないのだけど、レオンの方が早かった。
「ルイ。本名はもっと長いと思うけど、とりあえずそう呼べって言われた。公爵令嬢だって」
「公爵令嬢!?」
驚きの声。そうなるものよね。
ニナだけでなく、店員全員が姿勢を正した。失礼があってはいけないと考えているのだろう。
レオンだけが普通だった。
「畏まらなくていいって。訳ありらしくて、家に帰れないそうだ。だからうちで匿おうかなって。俺の仕事にも役に立ちそうだし」
言ってることは正しいけど、なんでこいつが全部話してるんだ。私のことなのに。
というかレオン、ニナをはじめここの店員の中で一番年下のくせに態度が偉そうだ。こいつ、見知った相手にはみんなこんな態度なのだろうか。
とにかく、自分の事情は自分で説明しないと。立ち上がって皆を見回した。
周りには料理を盛り付けていた皿がいくつか。それから店の奥からも、いい匂いがしてきた。
そういえば私、パーティーから抜け出して来たんだった。ワインだけ手にして真っ先にアーキン王子に挨拶をと向かってたから、ほとんど何も口にしていない。
挙げ句、城から逃げるのに走り回ってから、このクソガキ相手に何度も大声を出した。
私、公爵令嬢だから。この程度の運動でも割と重労働なのですわ。
お腹が、ぐうと鳴った。
「ははっ」
こらクソガキ。笑うな。
「ニナ。公爵令嬢様は空腹みたいだぜ。なんか出してあげよう」
「公爵令嬢様に? ま、いっか。母さん! 兄貴! 悪いけどなんか作って! 余り物とかでいいから!」
ニナが店の奥に声をかけた。料理担当は彼女の母と兄らしい。
「はい。余り物の肉と野菜の炒め物。安いものだけど味は保証するよ! ……しますよ」
「敬う必要はないわ。匿ってもらってる側だもの。それに、レオンは私に随分と親しく話しかけてくれるし。あなたも一緒でいいわ」
「あははー。さすがレオン。気を許した相手にはすぐこれだから」
気を許した? あの子が? 私に? そういう人もいるとは思うけど、あのクソガキは割と始めから私にこの態度だったけど。
まあ、初っ端から人殺しだとか言われて、無理やりフードを脱がすとかして、互いに距離が近すぎる出会いだったのは認める。それで気を許されちゃったか。