1.婚約破棄されました
「公爵令嬢ルイーザ・ジルベット! 今この時を以て、貴様との婚約の破棄を宣言する!」
大勢の貴族が集まったホールに、クライヘルト王国第二王子、アーキン・クライへリルの大声が響いた。
そんな大声を出さなくても聞こえるのにと、婚約破棄を宣言された張本人である私は、ずれたことを考えていた。
大声を出す理由が複数あることはわかっている。
ひとつはこのホールが大きいから。
ここは王都の中心にある、国王陛下の住まう城の中のホール。王家が所有する、この手のパーティー会場の中では最も格式ある場所。
どこを向いても豪華絢爛な調度品や絵画が目に付き、天井には派手なシャンデリア。カーペットもふかふか。大勢いる出席者はみんな正装しているし、私も丈の長いスカートのドレス姿だ。
そしてやたら広いために、ホール全体に声を聞かせるには大声を出すか、よく響く声の調子を作るしかない。
目の前の男は、後者ができるほど器用ではない。
理由のふたつ目は、パーティーの出席者全員に宣言を聞かせたいから。
やたら大きな会場に集まった王家の方々と施政の重鎮たちや、近隣の領地を治める貴族たち。さらに彼らの家族。彼ら偉い人たち全員に聞こえるように、アーキン第二王子は大声を出したわけだ。
大声の出し方もわからず、ひっくり返ったような叫びにも似た声だけど、パーティーの来場者を静まり返らせるには十分だった。
もとより頻繁に開かれるパーティーに世間体とかの理由で出席して、変わり映えのしない会話を繰り返す彼らが、この手のハプニングに興味を持つのは当然。
それが、この手の公の場のパーティーに久々に出席する者、つまり私やアーキン王子や、その隣に控えている女たちによって起こったことなら、なおさらだ。
私たちは先日、十八歳で学校を卒業したばかり。これは国王陛下が、アーキン王子と王都近郊の領地に拠点を置く卒業生たちを主賓として招いて行われた、卒業記念パーティーだ。
これからの国の行く末を担う若者たちが、国家の重鎮たちの前に出て顔を覚えてもらう場とも言える。
そんなパーティーの最中に、主賓中の主賓が婚約者に罵声を浴びせかけ、さらに婚約破棄を宣言した。
皆、興味津々でことの推移を見守っていた。
ちなみに目の前の王子が声を荒げている原因だけど、これは私に原因がある。
さすがに婚約破棄まで至るのは道理が通らないけど、怒り自体は私が悪い。
なにしろ先程、私はワイングラスを持ったまま王子の前で盛大に転んで、彼に中身をぶちまけたのだから。
高そうな礼服に、同じく高そうな意匠。彼がこの国にとっての重要人物であることを示す衣装が、ワインで赤く染まっていた。
アーキン王子はしばらくプルプルと怒りに震えてから、婚約破棄を叫んだわけだ。
小さな頃から私はそうだった。何かに躓いたわけでも、ドレスの裾を踏んづけたわけでもない。何もないところで何度も転んできた。
そのせいで屋敷の高価な壺を割ってしまったり、庭の池に落ちてしまったり。転びそうになった際、咄嗟に格好いい殿方に抱き止められた時は、少しときめいてしまったけど。そんな良いことは滅多に起きなかった。
女の子は多少そそっかしいくらいが可愛らしい。そう言っていた両親も、私が成長しても変わらず転び続けることに、次第に辟易した顔を見せるようになった。
もちろん、学校でもよく転んで周りに笑われたものだ。
けどまさか婚約破棄まで引き起こしてしまうとは。
一瞬の静寂の後、ザワザワと喧騒が場に戻ってくる。もちろん話題は、私とアーキン王子。注目もこちらに集まっている。
王子はそれに気を良くしつつ、また声を張り上げた。
「お前のこれまでの不遜な振る舞いには以前から耐えてきた! だが限界だ! この礼服は今日のために、母上が誂えてくれたもの! それをこんなにしてしまうとは!」
そんなに大事なものだったの。汚したくないなら大事に仕舞っておけばいいのに。
相手が相手だから、平謝りして許しを乞うべき場面なのはわかっている。
けど、不遜な振る舞いか。そそっかしいのは認めるけれど、このルイーザ・ジルベット、人に無礼を働いたことはない。目の前の王子に対しては、特に。
アーキンの捉え方は別らしいけど。
「知っているのだぞ。お前が伯爵家のマーガレット嬢に数々の嫌がらせを行い、自殺にまで追い込んだことを!」
「は?」
さすがに聞き捨てならなかった。
アーキン王子の言っているマーガレットの家は、確かに私の家とは利害の対立する関係にあった。
けど、私とマーガレット個人の関係は良好で、かけがえのない友人関係を築けていた。お互い芳しいとは言えない学業の成績や、家の窮屈なしきたりやおかしな使用人のことを笑いあったものだった。
――わたしたち、お互いにとっては悪役みたいなものだよね。
生前の彼女の言葉と姿が脳裏によぎる。少しウェーブのかかった長い髪と、優しげな目。胸元には控えめなルビーのネックレス。
面倒な関係だったのに、彼女はそれを冗談っぽく笑って受け入れていた。
確かに彼女は故人だ。私が殺したという噂が流れているのも知っている。
けど真実ではない。
「そんな噂を信じておられるのですか、殿下」
私がようやく口を開いて言ったのは、そんな問いかけ。
つまらないことを訊くものだと、アーキン王子は顔を歪めた。元からそんないい顔をしていないけれど、今はことさら醜く見える。
「噂ではない。事実だ。目撃者もいる」
そして彼は、ちらりと横を見た。
仮にも婚約者である私を差し置いて王子の隣に控えている、ドレスを着た女。
彼女も卒業生なのかな。なんて名前だっけ。覚えてないや。学校生活中も関わりがなかったし。
まあ、顔はそれなりに美人だ。丸っこい目は男性受けしそうだし、小柄な体格も庇護欲をかきたてそう。胸も大きいし。
こんな王子に庇護されて嬉しいかは別として。
私よりはモテるのだろうな。お前の吊り目は睨んでるようで怖いと、よく言われた。背も周りの女性と比べれば高い方だし、私は胸の起伏も極端に少ない。
金色できめ細かな長い髪と、澄んだような青い目だけは、あの子に負けてないと思うけど。
それより、全然知らない相手が私の悪行を見たって? 冗談じゃない。
愚かな王子は頭から信じているようだけど。
「このことは既に、母上にも伝えていて同様の見解を頂いているが……どうだルイーザ! 弁解はあるか?」
「それは」
「殿下、どうか落ち着きを」
話そうとした途端に遮られた。よりにもよって実の父親に。
ジルベット家の当主にして公爵の爵位を持つ者。王都の北にある領地を治めている地位ある男も、王家には逆らえない。
だからって、こんな男に媚を売るなんて。
「ルイーザ。お前も殿下に謝りなさい」
「お断りします、父上。確かにワインをかけてしまったのは私の落ち度。しかし親友を殺したと言われて謝る気はありません」
「ルイーザ!」
「離して!」
腕を掴んで引き寄せ、無理に頭を下げさせようとした父の手を払いのける。
振り返れば、私の家族はみんな味方をしてくれないことがわかった。
父はもとより、こんな男に従うだけの生き方をしてきた母はオロオロしながら事態を見ているだけ。兄も姉も王家に歯向かうのを躊躇している。
周りでヒソヒソ話しをしている貴族たちも同じ。さすがに全員が、私がマーガレットを自殺に追い込んだことまで信じているかは怪しい。けど王子のやることに異を唱えるつもりもないか。
王子よりも上の立場である国王陛下や妃である女王陛下は、なにを言うでもなくふんぞり返って様子を見ているだけ。国王は、少し戸惑った表情をしていたけど。
そういえば、母上に話はしてあるって言ってたな。根回し済ということか。
この場に私の味方はいなかった。
「ルイーザ。弁解することはあるか?」
王子が、さっきと同じことを繰り返して尋ねた。安物のオルゴールでも、こうもすぐに同じ音色を繰り返したりしない。
弁解など聞くつもりもないだろう。理解する頭があるかも怪しい。
けど言わせてもらおう。
「殿下におかれましては、今日は随分とご機嫌が悪い様子でいらっしゃいますね。いえ、思い返せば学生生活中も、いつも不遜な物言いを繰り返しておりました。このような殿方と添い遂げるなど、こちらこそ御免こうむりますわ。婚約破棄の件、喜んでお受けいたします。それから」
私は近くのテーブルに置いてあった、中身の入ったワイングラスを掴んだ。
「なにか言うたびに二言目にはママ、ママと女王陛下の話をすること、滑稽に思っておりました」
「なっ!?」
王子は随分と驚いた顔をしていたけど、気にするものか。
「母上なんて気取った言い方をせず、いつものようにママと言いなさいな。というか、そんなにママが好きならママと結婚しやがれマザコン男!」
そして王子にワイングラスを投げつけた。
ママが用意したという、大事な礼服の染みがさらに広がった。
よし。少しは気が晴れたし、逃げよう。ここに味方はいないし、王子様だけじゃなくて女王陛下まで侮辱した。割と大事だ。
庇ってくれない家族の近くにもいたくない。
ただし、気品ある逃げ方をしなければ。どれだけ侮辱されても、私は誇りある公爵令嬢。
姿勢を正し、まっすぐ歩いた。
会場の出入り口へ至るには、どうしても王子と近くにいる女の横を通らないといけなかったから、せめて堂々と振る舞い、すれ違い様に微笑みすら向けて余裕のある態度を見せて。
「へぶっ!?」
その女の近くを通り過ぎた直後に、私はまた盛大に転けてしまった。
「なんなのよもうっ! ……あ」
思わず素が出てしまった。気品ある態度が台無しだ。
しかも我に返った王子が周りに指示を出している。逃がすな、あの女を捕まえろと。
冗談じゃない。
そこから、私は必死に走った。どこをどう走ったか覚えていない。
スカートの裾を上げながら廊下を駆け、驚く人たちの間をすり抜け、城門から出ようとしていた荷馬車があったから荷台に潜り込んだ。我ながら咄嗟の判断にしては上出来だ。
そして今、止まった馬車の荷台から降りて周りを見回す。
お城が遠くに見えた。ここまでは追っては来ないだろう。でも、ここはどこなんだろう。
道の片側には民家が立ち並んでいる。私のような貴族の家ではなく、庶民の暮らす小さな家。
日はすっかり暮れていて、人の気配はまばら。たまにすれ違う人は、ドレス姿の私を見て少し驚いた顔をした後、関わりたくないと小走りに行ってしまう。
道の反対側は川が流れていた。舗装された水路かな。私が乗り込んだ荷馬車も、水路沿いに建てられた倉庫に荷物を出し入れしていた。
何度か王都を訪れているけれど、この場所は初めてだった。庶民たちの領域。わたしが関わったことがない領域。
考えなしに逃げ出した結果、見知らぬ土地で迷子になった。
あのままパーティー会場に留まっていても、ろくな目に遭わなかっただろうけど、今の状況も最悪だ。
自分が嫌になってきた。頭がそんなに良くないことも、なぜか何もなくても転んでしまう体質も。
これからどうすればいいか、なにも考えつかず、走り続けて疲れた足を癒やすべくその場に座り込んだ直後。
「なあ。お前、人を殺したことあるか?」
不意に声をかけられた。
言い方こそ不遜だけど、可愛らしい男の子の声だった。