八十七話「突然の行方不明」
「帰ってこない……?」
「はい……」
ミーアさんが帰ってこないのだと、力なく項垂れてそんなことを告げたレーネさん。こちらを見つめる潤んだヘーゼルの瞳は、とても悪い冗談を言っているようには思えなかった。しかしだからこそ、不可解な点はいくつかと残る。私は変わらずに彼女の背中を宥めるように撫でながら、問いかけることにした。
「その、私は数時間程前にミーアさんに会ってます。どこかに出かけたというなら、まだ帰ってきていないだけじゃないんですか?」
「……いえ」
まず最初に疑問に思ったのは、なぜここまでレーネさんが取り乱しているのかという点において。恐らくミーアさんが居なくなったのは、私と話していた数時間程前のその後。つまり居なくなってから、そう時間は経っていないはずだ。ミーアさんは幼い子供というわけでもないのだし、何故数時間姿が見えないだけでこんなにレーネさんは動揺しているのか。私にはそれがわからなかったのだ。
しかし私の疑問に、レーネさんは弱々しく首を振る。同時にぎゅっと握り締められた拳は妹の身を案じてか。ゆらゆらと揺蕩うヘーゼルは美しいのに、どこか不安定にも思えて。そして彼女は迷子の子供のような表情を浮かべながらも、小さく口を開いた。薄く口紅の塗られた唇が音を紡いでいく。
「ミーアは一時間程前に、足りない食材の買い出しに行きました。お昼の食堂の混み合いを予想して、切れかかっている食材を補充しに行ったんです」
「……買い出し?」
「はい。いつもあの子が買い出しにいく商店は、ここから数分程歩いた場所にあります。一時間もかかるわけがないんです」
話している内に少しだけ冷静になったのか、断定と共に強く頷いたレーネさんの顔色は少しだけマシになっていた。とはいえ青褪めていることに変わりはなく、未だに握り締められた指先は僅かに震えていたのだが。けれど自分が慌てていてもどうしようもないと、彼女はわかっているのだろう。顔色が悪くとも、今の彼女は毅然とした表情を浮かべている。
それにしても、そういうことならば確かにおかしな話だ。食堂の昼の混み合い予想して買い出しに行ったミーアさんが、その昼時を迎えてもまだ帰ってきていない。これでは本末転倒である。しかも向かった先は歩いて数分程の距離しか無い商店なのだ。何がどうあっても一時間以上掛かるわけがない。それこそミーアさんお得意のサボりの可能性もあるが、レーネさんの焦りようを見るにその可能性もないのだろう。そういう時にサボる人が相手なら、周りの反応も自ずと変わる。姉であるレーネさんが焦っているのなら、ミーアさんがサボっている可能性は低いというわけだ。
「……店の方には事情を聞いたのか?」
「あ、その、父が今……」
「成程。それでレーネさんは、ここに居ないか聞きにきたんですね」
そこでベッドの方に戻ったシロ様から疑問が飛んでくる。確かにシロ様の言う通り、そういう事情ならば商店の人に事情を聞きに行くのが最もミーアさんの行方に近づけるだろう。だがそっちにはどうやら既にガッドさんが向かっていたらしい。それでレーネさんは先程ミーアさんがサボっていた私達の部屋に訪ねて来たわけだ。何か情報はないのかと、藁にも縋る思いで。
「その……申し訳ないんですが、あれから私はミーアさんを見てません。シロ様は?」
「出先で見た覚えはない」
「……そう、ですか」
しかし私達は、藁にすらなれなかった。私達の言葉に、自分が掴もうとしたのは実体を持たぬ泡だと気づいたのだろう。ヘーゼルの瞳は伏せられ、唇は引き結ばれる。その表情を見た瞬間に、背中を擦る手は止まってしまった。下手な慰めが今の彼女にとって、余計なお世話にしかならないのだろうと気づいたからこそ。
ミーアさんが姿を消した。そうしてこの街の付近で最近囁かれている奴隷騒ぎ。点と点同士を合わせれば、それは無慈悲な線となる。確信は心にあった。それはきっと、私をじっと見つめているシロ様にだって。けれどそれを言葉にしないのは、こうじゃないかという推測を形にしないのは、レーネさんとて薄々それを感じていると察していたから。そうでなければこんな悲壮感溢れる表情を、客の前で店員の立場の彼女が浮かべるわけがない。お茶を持ってきてくれた時の完璧な振る舞いが頭を過る。なんだか、それが余計に悲しかった。
「……すみません、お客様に失礼な態度を。私は下に戻ります。父が、帰ってきているかもしれないので」
「……いいえ。何か手伝えることがあったら、いつでも言ってください」
「!……はい、ありがとうございます」
静寂の間。けれどそれは感情を整理するかのような溜息によって、切り裂かれていく。ゆっくりと立ち上がったレーネさんは深々と頭を下げると、歪んだ笑みをこちらへと向けた。上手く笑えないのを誤魔化すかのようなそれに、胸はずきりと痛む。さりとてそれを表情に出すことはなく、私はお節介にならない程度に言葉を返すこととした。その言葉に目を見開いた彼女が小さく微笑み返してくれた辺り、この返答は間違いではなかったのだろう。そうしてしずしずとレーネさんは退室していく。ドアが閉じる音だけが、その場に残された。
「……シロ様」
「もう探っている」
私は去っていった彼女の背中の余韻を、数秒と引きずって。だがいつまでも案じるだけの感傷に染まっているわけにはいかない。名前を呼びながら振り返れば、そこには片目を閉じて何かに集中している素振りの少年が居る。どうやら、言うまでもなかったらしい。
……さて。シロ様が風で現場付近の声をかき集めてくれているのなら、私は何をするべきか。一瞬過ぎった思考は、けれどすぐに答えへと辿りついた。奴隷騒ぎ。レーネさんが突然とこの部屋に入ってくるまで、ミーアさんが巻き込まれた可能性の高いそれについて私とシロ様は話していた。その原因とは、あの人である。
「……ちょっと、行ってきていいかな?」
「……何かあれば呼べ」
「うん、了解」
確か彼の部屋は階段を上がって右のずっと奥だったはず。そんなことを思い出しながらも伺いを立てれば、シロ様は眉を顰めながらも頷いてくれて。私を一人でどこかに行かせるのは不安だろうに、それでも私の意思を尊重して頷いてくれるシロ様。信頼が形になって見えていることは、なんだか面映い。
「じゃあ、行ってきます」
「ああ」
思わず浮かんだのは、緊迫した状況に似つかわしくないへらりとした笑顔。行ってきますの言葉に頷きを返してくれたシロ様に背を向けて、私は先程レーネさんが出ていった扉を開けた。振り返ること無く後手でぱたんと閉じれば、もう迷いはそこになかった。今の自分に出来ることを、やるのだ。
私の心情のせいか、どこかざわめいて思える海嘯亭の廊下。それを真っ直ぐと歩いていけば、道中でサイドに階段が見えた。けれど今は下に用事はない。そこを更に突っ切って進んでいけば、突き当りに到着する。そう、そここそがレゴさんの居る部屋。奴隷騒ぎに何かしらの関心を抱き、今日の午前中に情報を集めていた、何かは知っているであろう彼の部屋だ。
「すみません、レゴさん」
こんこんこんと、ノックを三回。その音に反応したのか、部屋の奥からは小さな物音が聞こえる。どうやら部屋には居るらしいと、小さく安堵して。けれどその安堵を飲み込み終えるよりも早く、部屋の扉はがちゃりと開いた。見上げるほどの位置には、今日も燃えるような色合いの橙色の髪がある。
「ん? 嬢ちゃんだけか。一人でどうかしたのか?」
「はい。大事なお話があって」
「大事な話……?」
眠っていたのだろうか、少し跳ねて見えるその髪から視線を下へ。黄金色の瞳を見上げて告げれば、瞳は丸くなってその奥には疑問が浮かぶ。確かに突然大事な話だと訪ねてこられれば、戸惑うのも当然だろう。だが今はレゴさんの心情に気を遣うだけの余裕はないのだ。
……正直、動揺している。ミーアさんが居なくなったことは勿論だが、心の中にあるのはそれだけではなくて。とは言え今は私の心情や過去なんて関係ないのだ。私を心配して、バタークッキーを持ってきてくれたミーアさん。少し怖いところがあれど、根は優しい人。そんな彼女が危険な目に遭っている可能性があるのなら、私は助けたい。何もせずに怯えるよりは、自分の出来ることをしたい。だから、だから。
「……ウィラの街で起こってる、奴隷騒ぎについて」
「……!」
「それについて、教えてほしいんです。出来れば私にだけじゃなくて、レーネさんたちにも」
「……それは、どういう」
言葉は単刀直入に。すっと切り込めば、動揺から金色の瞳は見開かれる。気の所為でなければ、扉のドアノブを掴む手にも力が込められた気がした。だが一々とそれを指摘している暇はない。一歩と踏み込んで言葉を続ければ、彼の手は頬へと伸びる。いつもの癖だろう。
「ミーアさんが、それに巻き込まれた可能性が高いんです」
「なっ……!?」
けれど次の私の言葉で、その手は宙でぴたりと停止した。ひゅっと掠れた呼吸音は、間違いなく彼の喉から零れたもの。その反応を見るに、やはりレゴさんは犯人側ではないのだろう。タイミング良くミーアさんが居なくなったから少し疑っていたが、今の反応は確実に予想外を示すものだ。レゴさんは、白。それならばきっと、話してくれるはずだ。
「だから、何か知っているのなら教えて下さい」
「…………」
見上げた金の瞳は、ゆらゆらと揺れている。まるで私の視線が眩しいかのように細められた瞳は、無言のままの口よりも余程雄弁と物を語っていて。躊躇いと不安、それに揺らぐ瞳が示すのは四個目の答えだ。先程のレーネさんと同じ顔を、今のレゴさんは浮かべている。
奴隷騒ぎなんて物騒な事件にに興味を持つのは、四種類の人間。一つはそれを取り締まろうとする警察側、一つは張本人である犯人側、一つはただ野次を飛ばすのが好きなだけの野次馬。シロ様と話していたことが、レーネさんの話を聞いた時に思ったことが、整然と頭の中で整えられていく。そうして、最後の四個目は。レーネさんであり、レゴさんでもあるその答えとは。
「……わか、った」
攫われた被害者と何かしらの関わりがある人間、だ。




