八十四話「特訓開始」
「すみません、ミコさん。いらっしゃいますか?」
「……あ、はい!」
ひたすらに紙に見本と同じものを書き写していく。かろうじて円の中に何か模様が書いてあることと文字のような何かが綴られていることはわかっても、全体像として見れば意味のわからない魔法陣にしか見えず。ただそんな中でも私は、少しでもお手本に近づけられるようにと紙とにらめっこをしていた。
そんな中聞こえた、ノックの音。聞いたことのある声に慌てて扉へと駆け寄り、鍵を開ける。そのままどうぞと入室を促せば、ドアはがちゃりと開いた。ドアの向こうからは、栗色の優しい色合いの髪が覗く。瞬間香ったのは、紅茶の良い香りで。
「レゴさんからこの時間にお茶のデリバリーをと、頼まれています」
「あ……ありがとう、ございます」
「いいえ。お礼ならばあの方に」
大人びた顔立ちに浮かんだ、優しい笑顔。耳触りの良い穏やかな声がゆっくりと言葉を紡ぐ。正しく綺麗なお姉さんというその佇まいに、私はなんだかとてもドキドキとしてしまっていた。なんというか、憧れるタイプである。彼女はこの宿の受付の女性。そうして恐らくはミーアさんのお姉さんで……名前、は。
「……ああ、申し遅れました。私、この宿の受付を担当しているレーネと言います。昨日は妹が大変なご迷惑をおかけしました」
「い、いえ! ミーアさんにはお世話になったところもあるので……」
「ふふ、そう言っていただけると助かります」
そう、レーネさん。私達が海嘯亭に宿泊する際にもお世話になった人である。栗色の髪もヘーゼルの瞳もミーアさんと同じ彼女は、しかし妹よりも大人びた顔立ちをしている。ミーアさんが可愛い系で、レーネさんが綺麗系と表現するのが一番しっくりくるだろうか。
私へと紅茶らしきもののポッドとカップが乗せられたお盆を渡すと同時、嫋やかな仕草で頭を下げてくれたレーネさん。私はそんな彼女にお盆を持ちながらも小さく頭を下げた。到底彼女の洗練されたお辞儀には敵わない雑な所作である。ただそれにすら気を悪くした様子はなく、彼女は優しく微笑んでくれた。正しく理想のお姉さんと言わんばかりの出で立ちである。
「それでは私はこれで。お勉強、頑張ってくださいね」
「はい!」
こんな姉が欲しかった、ミーアさんが羨ましい、なんてそんなことを考えつつ。私は励ましの言葉を最後に扉を静かに閉じていった彼女を見送った。美人からの褒め言葉はなんか威力がすごい。ちょっと挫けそうになっていたが、引き続き頑張ろう。
そうして気合を入れ直した私は備え付けの机にポッドを置くと、再び紙に書かれたよくわからない模様たちと格闘を始めた。今日何度と繰り返したかわからない、よくわからない文字をよくわからないままに書き写す作業の始まりである。一人となった部屋には、紙をシャーペンが走る音だけが聞こえていた。
……さて、何故私が一人の部屋でこんな事をしているのか。そもそもシロ様はどこにいったのか。その答えは単純だ。私は今法術の特訓中で、シロ様はレゴさんと一緒に情報収集。答えはそれに尽きる。あ、ちなみにフルフはシロ様に付いていったので、私は正真正銘一人である。ちょっとだけ寂しいのは、まぁ置いといて。
寂しいだの何だのはともかく。自分の中にある法力を恐れずに自由に使うには、まず法力について知ることが私にとって重要な可能性が高い。今しているのは夜中に導き出した答えの、実践編というわけだ。昨夜シロ様に法力の訓練法を聞けば、とにかく繰り返し法力を操るのを特訓するのが一番だと言われた。しかし現状私は上手く糸くんを操ることができないのだ。そんな中で訓練を繰り返しても意味がないどころか、余計に糸くんとの心の距離が開く可能性が高い。シロ様としても、その方法は避けるべきだと言っていた。
「……うぐ」
そう、だからこそのこの地獄の書き取りなのだ。いつもシロ様が量産している法符。実はこれを書くことは、法力をコントロールするための特訓になるらしい。何でも法陣を描く内に勝手に身の内の法力が流れ、体内の法力の流れをより潤滑に出来るとかなんとか。正直五割くらい言っていることがわからなかったが、とにかくこの特訓は効果的であるらしい。地獄のような作業であることを、除けば。
「王と、朱……? いや、珠……ともちょっと違う……」
何が辛いかと言われれば、これだ。法符に描く法陣は基本的に円形に三角形やら台形やら四角形やらの、そんな図形の組み合わせで出来ている。まぁぶっちゃければこれを書くのはそんなにしんどくない。円はコンパスががないので少々不格好な出来になるが、線を引く分には筆箱に入っていた定規で事足りるのだから。
しかし問題はその後、その中にひたすらと文字を連ねることである。漢字のようで漢字ではない何かを、円や線の間に生まれた小さな隙間に埋めていく。これの厄介なところが、書く文字が完全に漢字ではないところだ。例えば今言った珠であったら、右の朱という字の下に何故か口という文字がくっついている。下手に漢字の知識があることが、私を苦しめているのだ。しかもそれを狭い狭い隙間に書いていく。ぶっちゃけとても細かい作業だ。
「……シロ様、ほんとすごいな」
ちまちまちまちま。見本の通りになるようにと、時折呻きながらも文字を重ねていく。見本がなければ投げ出したくなりそうなこの作業。けれどこの見本を見本無しで、シロ様は作ったのだ。それを考えれば彼の法力を操る腕が優れているのも、わかる気がした。シロ様の力は、彼のたゆまない努力のもとにある。なんとなくで糸君を操っていた私とシロ様には、雲泥の差があるのだ。
「…………」
そこでふと、私は指輪を見下ろした。少しだけ影が薄れて見える、さりとてまだ元の乳白色に戻ってはいない石。こころなしか付けられた石だけではなく、フレームとなる銀の部分にだって影は見える気がする。だが今の指輪のストライキ現象は、良く考えてみれば当たり前のことなのかもしれない。
知識も能力も何もない、それどころか自分の存在を恐れて否定する飼い主。そのくせ都合が悪くなったら自分に頼ってきて、また遠ざけて。今までのことを考えれば考えるほど、私は自分の法力に対しての態度が酷すぎると感じた。自分の中の力を人のように扱うのはおかしいのかもしれないが、でもこうして使えなくなったということは法力にだって心があるのかもしれない。そう思えば、自然と胸の中に申し訳無さは募り。
「……ごめんね」
すっと、優しく指輪を撫でる。当然願っていない今、その指輪が輝くなどの反応を見せるわけもない。でも私は撫でることをやめずに、ただ指輪を見下ろしていた。私の小指を飾るピンキーリング。私を助けてくれた、私の力。
要らない子だと思われるのが怖いことなくらい、誰よりも深く知っていたはずなのに。いつのまにか私は自分を守ろうとする内に、誰かを傷つけていた。そう思えるようになったのは、そう気づけたのは、シロ様のおかげだ。シロ様が話を聞いてくれたから、私は思い出すことが出来た。やっぱり助けてもらってばかりだと、苦笑はまた浮かんで。
でもだからこそ、私だってシロ様を助けたい。
「……よし!」
気合をもう一度入れ直し。カップに注いだ紅茶で喉を潤すと、私は再びと書き写し作業へと戻った。確かに文字を書く内に、私の中の固まっていた体内の何かが滑らかに動くなっているような気がする。僅かだが進歩はしているのだ。そう思えば、ちょっとだけ形が違う文字たちと向き合うことにも前向きになれる気がした。何百枚だって書き写してやる。それこそ、この部屋がノートの切れ端で埋まってしまうくらいに。
……頑張る、頑張るんだ。だって決めたから。大きな力を持つこと自体を恐れるのではなく、それをコントロールできないことを怖がるのだと。コントロール出来るのならば頼もしい力になる指輪と法力を、私なりに理解すると決めたのだ。
シロ様の力になりたい。いつだって私を守ってくれる、世界に残酷にされても前を向こうとするあの少年の、絶対的な味方になりたい。味方になるなら、彼を守るなら、どうしても力は必要になってくる。本当はまだ大きな力を持つことは怖いけれど、荷物になるのが怖いけれど、それでも過去にいつまでも負けたままでは居られない。打ち勝たなければ。
「……もしもし!」
「っ!?」
しかしそうして法陣の最後の文字を綴ろうとしたところで、聞こえてきた勢いのある声。扉の外から聞こえてきたその大きな声に肩を跳ねらせれば、当然文字はぐにゃりと曲がって書き損じてしまい。後少しで今まで一番うまく書けたのに、そんな風に落胆しつつも私は声が聞こえてきた方へと振り返った。聞こえてきた声には、聞き覚えがある。
「こんにちは、ミコちゃん!」
「ミーアさん……」
「クッキーあるからさ、美人姉妹の妹の方と休憩しない?」
扉へと近づいて、鍵を開けて。瞬間ばたんと開いた扉の先には、先程と同じ栗色とヘーゼルを持つ少女が立っている。三編みを揺らしながらもにこりと愛らしく笑った彼女は、小さな籠を抱えていた。香るのはバターの香ばしい匂いと、焼き菓子特有の甘い香り。どうやらクッキーを持ってきてくれたらしい。
私と言えば、毒気の抜かれる笑顔に何とも脱力していて。その笑顔は文字を書き損じたことだとか、固めた決意に水を刺されたことだとか、そんなのがどうでも良くなるような表情だったのだ。仕方ないなと、微笑んでしまいたくなるような無邪気な笑顔。憎めない人とは彼女……ミーアさんの人のようなことを言うのかもしれない。




