八十一話「朱の神楽祭」
ムツドリ族の庇護下にあるムツナギ。遠い昔この国には。誰よりも大きく誰よりも赤い翼を持った一人の女性が居た。彼女の名前はカグラ。誰よりも自由に大空を翔け、美しい星の光を地上の者に齎したムツナギの聖女。
時にはまだ飛べぬ幼い小鳥たちに飛び方を教え、時には愛に見放された者に無償の愛を捧げ、時には類稀なる強大な法術で人を守る。彼女は分け隔てない慈愛の持ち主であり、その長い生涯を人々に愛を振りまくために使った。人、獣人、幻獣族。いいやそれだけではない。言葉の通じぬ動物や魔物にも、決して偏見を向けること無く。自分の存在を必要としているものであるならばと、その全てを捧げた。それこそがムツドリ族においての至上の愛であったと、今でも後世に語り継がれるほどに。
「……ムツナギには三つ、カグラ様が愛したと言われる街がある。グラジオ、カロリロ。そして……ウィラ。その三つの街では今もカグラ様の存在を忘れないため、彼女が愛した空を翔けることを主軸とした祭りがあるんだ」
「へぇ……!」
「そしてここウィラで数日後に開かれるのが、朱の神楽祭ってわけだな」
ガッドさんの低い声で語られたのはムツナギという国にまつわる昔話と、今のお祭りに至るまで顛末。気球の中でレゴさんが話していた飛行大会とはその自由さを競うと同時、「カグラ様」という存在を奉るためのお祭りでもあるらしい。私の世界にもあった言葉で例えるならば、ムツナギ三大祭といったところか。
なんというか、私が想像していたよりも規模の大きいお祭りというか。てっきり街規模で盛り上がる程度のお祭りだと思っていたのに、まさかの国規模。国を代表する偉人のためのお祭りならば、それはもう盛り上がるものになるはずだ。レゴさんが言っていた赤い翼の持ち主の参加も、もしかしたら本当に期待できるかもしれない。
「ガッドの親父は毎年祭りの実行委員だからな。センセイ役にこれほど適してる人は居ねぇだろ」
「え?」
「……買いかぶりすぎだ」
そんなことを考えては、手がかりが近づいてきている予感に鼓動を弾ませて。しかしそこで聞こえてきた予想外の事実に、私は間の抜けた声を上げた。お祭りの実行委員。どうやら私達は知らずの内に、関係者の人から話を伺うことに成功していたらしい。最もその事実を知っていたらしいレゴさんとしては、それが狙いだったのだろうが。こちらを見て得意げに口角を上げた動作からは、そんなことを察することができた。
「そろそろ仕込みの準備に戻る。お客さん方、せっかく来たなら朱の神楽祭を楽しんでいってくれ」
「あ、ありがとうございました……!」
そんなレゴさんを見て溜息を吐きながらも、話は終わりだと言わんばかりに視線を逸したガッドさん。彼はそのまま未だ撃沈したままのミーアさんの首根っこを掴むと、彼女を引きずる形でカウンターの奥へと戻っていった。私はその背中を頭を下げて見送りつつ、話している間から今の今までぴくりとも動かなかったミーアさんが少し心配になった。あの重いデコピンが、まさかあそこまで深刻なダメージを彼女に齎しているとは。ガッドさんは怒らせないほうが良いだろう。
それにしても、予想外の収穫である。まさかお祭りの詳細を聞けるだけではなく、お祭りの実行委員の人と顔見知りになることにまで成功していたとは。実行委員のガッドさんならば参加者がどんな人物かくらいは知っているだろうし、この宿に泊まっているのならばまた情報を尋ねるチャンスがあるかもしれない。利用するようで、少し心苦しくはあるけれど。
「ピュ!」
「あ、食べ終わった?」
「ピュピュ~」
若干の苦々しさを抱えつつも、使えるものを躊躇する理由はない。迷惑にならない程度に話を聞いて、ご飯はなるべくここで食べるようにすれば話を聞かせてもらった対価だって返せるだろう。そうやって自分を納得させつつも、私はそこで聞こえてきた元気のいい鳴き声の方へと視線をやった。すると大皿に盛られていた山盛りのチャーハンはどこへやら、空っぽのお皿の前でぴょんぴょんと毛玉が跳ねている。どうやら無事完食することができたらしい。その小さな体の何倍もあったチャーハンが一体どこに消えたのか、それは謎であったが。
「さて、なら部屋に戻るか?」
「……情報収集は?」
「あー……それがあったか」
とりあえず完食できたことを褒めるように撫でてやると、機嫌よくピュイと鳴いたフルフ。それに生暖かい視線を送りつつも、レゴさんはそこで二階の方へと立てた親指を向けた。確かに食べ終わったのならば、いつまでも席を占領しているのは店側にとって迷惑だろう。食堂にとってはこれからが混み時のはずだ。
けれど私の隣に座っていた少年はレゴさんの言葉に納得がいかなかったらしい。首を傾げたシロ様の怪訝そうな声の問いかけに、レゴさんは思い出したかのように頬を掻く。そういえば夜の街での情報集、それがあったのだった。色々と立て込んでしまったせいで忘れていたが、一応本日のメインイベントである。シロ様にとっては最も重要視していた予定と言ってもいいだろう。
「……いや、やはりいい」
「え?」
「……えっと、良いのか?」
だが恐らく彼にとって重要だったはずのそれを、次の瞬間にシロ様はあっさりと放棄した。一度思考するように沈んだ瞳は次に私を捉え、そうしてその次には首を振る。まるで気を変えたと言わんばかりの少年の態度に、私だけではなくレゴさんまでが目を丸くして。
「噂話程度態々出歩かずとも、風で手繰りよせる」
しかしそんな私達が目に入ってるのかいないのか、いっそのこと傲慢不遜にも言い切ったシロ様は瞳を伏せた。瞬間、僅かに風が頬に靡いたような感覚。それがシロ様の得意とする風の法術を発動させるという合図だということは、知っている。今彼が何をやったかについて、だって。
「……さっすが、風の扱いが得意な種族だな」
ひゅうと、レゴさんが口笛を吹いた。それに一瞬鬱陶しそうな視線を送りつつも、シロ様の銀の方の片目は閉じられたまま。恐らくこうしている間にも、シロ様が操っているそよ風は街中を巡っているのだろう。いつかブローサの街の中の情報をその外から探ったときのように、風の反響によって地図を頭へと叩き込んだ時のように。
本当に人間業じゃないと、そう思う。いやそもそもシロ様は人間ではないのだが、そんなことは今はどうでも良いのだ。レゴさんの瞳を見ればわかる。感心するような金の瞳の奥、そこにあるのは確かな戦慄だ。私は法術に詳しくはないが、それでもわかっていることがあった。それはシロ様の風を操る力が、恐らく幻獣族間においても尋常ではないということ。時期クドラの当主であった彼の力は、幼くとも本物なのだ。
「まぁ確かに、夜の街の話なんて大体が噂話だ。無駄な情報料とか取られねぇ分、そっちのが都合がいいかもな」
「そうなんですか?」
「まぁな。昼のおばさま方や気のいいおっちゃんたちの話と違って、夜はあくどい奴らが多いんだよ」
まぁそれをレゴさんに話すわけにはいかないのだが。集中に入ってしまったシロ様に時折視線を送りつつも、私はレゴさんの話に首を傾げた。しかしそれは納得できる話でもある。どうやらどこの世界のどんな街でも、結局夜の方が治安が悪いらしい。情報料。確かにそんな単語をアウトローをテーマとした映画か何かで見たことがあるような。
「じゃ、街に行くのは明日の昼にすっか。色々案内してぇしよ」
「はい! じゃあ明日、お願いします」
「おう。朝飯のときにでも詳しく話そうか」
いつかテレビで放映されていた裏社会の人々を描く映画を思い出しつつも、私はそこで席を立ったレゴさんにぺこりと頭を下げた。今日は彼に色々とお世話になりっぱなしであったし、恐らく明日も迷惑を掛けることになるだろう。些か心苦しくはあるが、意固地になって親切を拒絶するのも違う気がする。ならばいつか何か別の形でお礼をするべきか。……いや、それに関しては後で考えることとしよう。
「……レゴさん行っちゃった、けど」
「……?」
「えっと、本当に良かったのかなって思って。シロ様、行きたそうな顔してる気がする」
「…………」
また一つ、去っていった背中を見送って。食堂の中には私とシロ様、そしてフルフだけが残されることとなった。いや、満腹のせいか眠りかけのフルフはノーカウントだろうか。つまり、珊瑚があちこちに象られた海の食堂の中にはもう、私とシロ様の二人だけ。もしかしたらこの後ここにお客さんが来るのかも知れないけれど、少なくとも今だけは。
私はそこで、くるりとシロ様の方へと振り返った。カウンターの裏のガッドさんたちに聞こえないようにと、密やかな声を紡ぐ。けど、続きを話さずにそこで切られた言葉に怪訝そうな表情を浮かべたシロ様。しかしその表情は私が言葉を続けたことで、何かを思案するかのような表情へと変わっていった。閉じられた左目とは反対の、開かれた黒い瞳。かつては私のものだったそれだけが今、私を射抜く。
「……あの男の夜の歩き方に興味がないとは言わないが」
「……うん」
「だが今はお前の問題もある。不確定要素は増やすべきではない」
「あ……」
かくして私は告げられたその言葉で、自分の予感が本物だったことを悟った。掌返し、正しくそういう風に振る舞った先程のシロ様の行動はあんまりにも奇妙だったのだ。シロ様は軽々しく自分の言ったことを取り下げたりしないし、やりたいことはやろうとする。なのに恐らく最初から考慮していたであろう法術の情報収集があるから、街を歩く必要はないと言った。きっとそれ以外の意味があったからこそ、街歩きを提案しただろうに。
そしてシロ様がそうやって意見を変えるのは大体、私のためだ。動揺に揺れてしまった視線が指輪を掠める。やはり影のような色が纏わりついたままの、乳白色の指輪。私の力に問題が起きていると知ったから、シロ様は危険度の高い夜の外に出歩くのをやめようとしたのだ。恐らくはこれ以上、私の身に負担をかけないため。
つまり、私の……。
「……自分のせいだと気に病むのは、時間の無駄だ」
「……!」
一瞬、心に靄が広がりかけた感覚。しかしそれは浮かび上がったと同時、断じるような言葉で切り裂かれていった。ぐいと俯きかけた私のおとがいを掬ったのは、白く華奢ながらも確かに硬い指先で。目前に迫った美貌に、その視線の強さに、私は息を呑んだ。勿論、薄い唇が紡いだその言葉にだって。
「お前が駄目な時は我が対処する。……そうじゃ、ないのか」
いつかをなぞる言葉に、喉の奥が詰まるような感覚がした。確かめるように問いかけると同時、今だけは一色となった瞳が揺れる。その揺らぎは不安にも、不満にも見えた。まるで私が約束を違えて、それをシロ様が責めているかのように。
……そうだった。そう、だったのだ。自分のせいだとそう思うのは、彼に対しての甘えをそう思うのは、もうやめたのだった。私という人間は懲りないものである。そうやって考えることの方が余程、目の前の少年を傷つけることになるのに。私は彼に全幅の信頼を求めた、それならば私がシロ様にそれを返すのも当然のことである。それが私達だけの、名前をつけられないこの関係性の、在り方。
「……でも現状、私が駄目なときが多い気がするんだけど」
「そう思うのであれば精進しろ」
「っふふ、はーい」
最も現状、今のように私ばかりがその背中に頼っている気がするのだが。冗談めかして告げた言葉は、一見厳しくも聞こえる優しい言葉で流れていって。そうだ、精進しろ。自分のせいだと膝を抱えるな。そんなことがあるならば思考を重ねて、やり方を模索して、一歩でも前へと進め。彼の背中に置いていかれないために、私が彼を導くことができるようになるために。
「……ありがとう、シロ様」
「……ああ」
ざわめきが近づいてくる気配。そろそろ本格的な開店を迎えるのであろうその店の席から立ち上がりつつ、私は小さな声でまた一つありがとうを重ねた。すると相変わらず片目を閉じたままの少年が、小さく笑う。そうして私達はフルフとリュックを忘れずに回収しながらも、自分たちの部屋へと戻っていったのだった。
……その時のシロ様が、覚悟を決めたような顔をしてることなんて知らないまま。




