七十七話「くすんだ指輪」
「……成程、確かにくすんでいるな」
「……だよね」
場所変わって、海嘯亭。私とシロ様は二人分として取った部屋の中で、膝を突き合わせるような態勢のまま座っていた。私の手を握るその手とは反対の指先が乳白色の石をなぞる。怪訝そうに寄せられた眉。その心情をそのまま表すかのように、薄い唇は訝しげな言葉を紡いだ。そんな場合ではないが、近くで見る度に感心する。この少年の顔はとても美しいだなんて、そんなことを。
あの後私達はレゴさんに勧められた通り、そのまま海嘯亭へと向かった。その時点での時刻は既に十五時程。今から情報収集をするにも観光をするにも、そのどちらもが難しい時刻だと判断したのだ。それならば宿を取り基盤を整えた後、夜にでも情報収集のために外へ出向くほうが効率的。そう告げたレゴさんの言葉に、私もシロ様も異論はなかった。ご尤もであると感じたのである。
外見の時点で確かに大人だとわかるレゴさんが居たからか、宿を取るのにも不都合はなく。優しそうな美人なお姉さんを受付に私達は無事チェックインを果たした。桃花の宿と違い旅館と言うよりは、民宿と言った表現が近い海嘯亭。家族で運営しているらしいこの場所は、どうやら宿というよりも食堂で有名らしい。特にお刺身が美味しいのだと、受付のお姉さんはチェックインの際に自慢気にそんなことを話してくれたのだったか。
「それで先程から浮かない顔をしてたのか」
「うん。いつからこうだったのかな……って思って」
けれど待望とも呼べるお刺身を前に、私の気分が素直に高揚することはなく。宿に来てから、というよりはあの雑踏の中に居た時から、私の心は言いようのない不安に支配されていた。浮かない顔、シロ様の言うとおりである。私の心の曇りを表すかのように、私の瞳に映る乳白色は変わらず灰色にくすんでいて。
私の特別な力の出力源とも呼ぶべき、乳白色の石が嵌められたこの指輪。あの極悪蝉との戦闘の際に初めて生まれたそれがその姿を変えることなんて、今まで見たこともなかった。それなのに今見下ろしているその石は露骨に色を変化させ、ただ沈黙している。まるで指輪の持ち主である私に何かを訴えるかのように。
「糸は出せるか?」
「……! やってみる」
けれど言葉なくしては、その訴えをわかってあげることが私には出来ない。唇を噛んだ私に何を思ったのだろう。僅かに眉を寄せながらも、シロ様は静かに問いかけた。そうか、糸。糸くんが上手く使えるか否かで、この石が何を思っているのかがわかるかもしれない。天啓のようなシロ様の言葉に視線を上げると、私はそっと心の中で石に願った。丈夫な糸を紡いで欲しい、と。
「……あ」
「……随分と弱々しいな」
かくして願い通り、糸は生まれてくれた。しかしそれは私が願った糸の姿とは随分と異なっていて。僅かな白い光を放った石、そこから同じく白い糸は伸びていく。だがシロ様の言う通り、伸びてきたそれはひどく細く動きすらも覚束ない様子だった。まるで今にも自然とちぎれかねないような、そんな。
その瞬間、がつんと頭が殴られるような衝撃が走る。薄々とはわかっていた。石の色が翳りを見せている時点で何かしらの異常が起きていることくらいは。しかしいざ目の前でそれを見てしまうと、わかっていたはずなのに心は傷んで。今のこの石は、糸くんたちは、私の言葉に答えてくれない。弱々しく伸びたそれは、確かにそのことを表していた。
「……なんでだろ」
情けない呟きが口から零れる。信じていたのに、なんてそんな心情が透けて見えそうな言葉。信じていた、それは正しくそうなのだろう。私はこの指輪を信じていた、縋っていた。これがあれば、糸くんの力があれば、私はシロ様の役に立つことが出来る。だからもう一人の仲間のように思っていて、頼っていて。けれど突然それが裏切られたような気持ちになったのだ。どうしてなんて身勝手な言葉すらも浮かんでしまうほど。
「……お前がそれを外と見るか内と見るか」
「え……?」
「我からすればそれが問題だと思うが」
思わず呆然と、今にも消えてしまいそうな糸を凝視していた私。けれどそこで聞こえてきたシロ様の声に、私は視線を声の主である少年の方へと移した。白と黒の瞳は私だけを見つめて、そしてこちらの意図を探るかのような色を浮かべている。外と内、その言葉に何故か心臓は跳ねた。まるで自分すらも自覚していなかった何かを、言い当てられたかのように。心の奥底、透明のままに区切っていた線が色付けられていくような感覚。明瞭になったその色が訴えるのは、一体何か。
「……まぁ、我が全てを告げるわけにはいかない。それはお前の問題だ」
「私の……」
「クドラの領地から離れた現状、今焦るべきことは何もない。一度落ち着いて考えてみたらどうだ」
跳ねる心臓、鼓動は逸っていく。何かを見落としているような、何か大切なものをそこに置いてきてしまったような、そんな焦燥感。けれどその答えの直接をシロ様が告げることはなかった。ただ澄み切った湖畔のように揺らがない瞳が私を真っ直ぐに見つめる。落ち着けと、そう訴えかけるように。
……その瞬間、答えを教えて欲しいと思ったことは否定しない。きっと私よりも私を見ていてくれるシロ様は、この石の翳りの理由を知っている。持ち主である私よりも余程、この指輪のことを理解している。けれどそれでもこの少年が明確に答えを私の前に示さないのは、きっと私のためだ。この問題は私が考えなければいけないことで、私が答えを出さなければいけないこと。だからシロ様は何も言わない。何も言わないまま、私をただ見守ってくれている。
「……それとも、我の助言がなければ立てないか?」
きっとそれは、今のシロ様が私を信頼してくれているからこそ。
「……ううん、立てるよ」
「…………」
その瞬間、指輪から伸びていた弱々しい糸はぷつりと切れた。挑発めいたその言葉は、私を奮起させるための物だったのだろう。ただそれに苛立つのではなく勇気付けられてしまう辺り、私は平和ボケしているというかなんというか。呆れたように眇められた二色の瞳。それにへらりと笑顔を返しつつ、私はそのままゆっくりと瞳を伏せた。
正直に言ってしまえば、わからない。何故突然突き放されるかのように、この力が使えなくなってしまったのかなんて。始まりがどこかわからない以上、何が切欠だったかさえもわからずに。答えは頭のどこにもない。けれど確かに、今指輪は何かを訴えている。
「今はよくわからないけど、ちゃんと考えてみる。なんでこうなったのかって、ちゃんと」
それならば考えなければ。シロ様の言った外と内。それが答えだと脳は訴えているのに、結局私はその全てを理解できているわけではない。だからこそシロ様の言う通り、焦らずに考えるのだ。
胸に落ちた、何かを置いてきてしまったかのような不安感と違和感。それが示す答えを見つけることが出来れば、きっと指輪が翳った理由を知ることだって出来る。大丈夫、時間はあるのだから。シロ様が言葉無く私を置いていくことだなんて、ないんだから。だから焦るな、逸るな、決して。一瞬どくんと嫌な記憶が蘇った気配なんて、ただの気のせいなのだから。
「それで答えを見つけて、シロ様の隣に立つよ。……だから」
「……ああ」
「だから、待っててほしいな」
過ぎった何かを振り切るままに、紡いだ言葉。その言葉は、自分でも驚くほどにすんなりと口から滑っていった。誰かに何かを願うことはとても怖いことのはずなのに、何故彼の前でだけはこんなにも簡単に口にできるのか。……いいや、今更そんなのは考えるまでもない。答えはただ単純。いつだってシロ様が私の言葉に真摯に答えて、向き合ってくれたから。それに他ならないのだ。
「……それが、お前の望みならば」
「……うん、ありがとう」
ほら、今回だって。満足そうに微笑んだ、いつもよりも少し幼く見える美しいそのかんばせ。それに高揚や動揺ではなく安心感を覚える辺り、私も大概馴染んでしまっているのだななんて考えつつ。美人は三日でも飽きないしその美しさに慣れることはないが、その存在に安心感を得ることは出来るらしい。新たに得た知見である。
そんなことを考えている内に私の手を握っていた、まだ幼くも剣を握るに相応しい硬い手が引いていく。あとは自分で考えろ、その合図だろう。見下ろした乳白色はまだ灰色に翳っていて、それを見る度に胸は痛むような気がした。けれどシロ様に道を示して貰った以上、その程度の痛みで足を止めるわけには行かない。少しずつでも良い、考えなければ。私が私自身の中に生まれた力と、確かに向き合えるように。
「そろそろ食堂に向かうぞ」
「そうだね。レゴさん待たせちゃってるかも……」
だがひとまずは腹ごなしである。部屋はレゴさんに頼み二人部屋と一人部屋として取ってもらい、今はひとまず荷物を置きにきただけなのだ。荷物を整理した後、食堂で一緒に食事を取ろうと言う約束をしている。このままこうして話し込んでいては、レゴさんに待ちぼうけを食らわせてしまうだろう。それは避けなければ。
「あ、シロ様はお刺身好き?」
「さしみ」
「生のお魚を捌いて、そのまま食べる料理かな……なんでそんな嫌な顔するの?」
「……生魚を、食したことがない」
立ち上がったシロ様に続くように慌てて立ち上がりつつ、私達はそのまま部屋を出ていった。フルフとお金が入っているリュックは背負ったまま、エコバックだけを部屋に残して。
部屋には当然、きちんと施錠を。そうして食堂へと向かい出した道中、ふとお刺身の話を振ってみればシロ様は露骨に嫌そうな表情を浮かべた。基本的にはなんでも好き嫌いなく食べるシロ様にも、食わず嫌いという概念はあるらしい。先程の私を導いてくれた大人びた姿とは裏腹、一気に子供らしくなったシロ様に私は微笑んだ。気づけば胸中にあったなにかの不安が、いつのまにか消えていたこと。それに安堵して。




