七話「二人ぼっちの焼き肉」
「ハシ、ナ?」
「ああ」
出会って二日目、漸く自己紹介を交わすことが出来た私達は今、お肉を焼いていた。彼が狩ってきたという熊のお肉である。朝からお肉とは中々ヘビーではあるものの、こんな森の中ではパンやご飯というものには当然ありつけない。自分が健啖家で良かったと考えながらも、私は少年の話に耳を傾けていた。お肉はまだ焼き始めたばかりである。
「お前が居た世界がどうかは知らぬが、このシリンという世界では名前は重要な意味を持つ物になる」
「うん」
焚き火の薪を弄り回しながら、少年は説明を続けた。ぱちぱちと乾いた枝が弾ける音に目を細めながら、私はその語りに相槌を打つ。ちなみに今目前で燃えている焚き火は、彼に連れられた私が外に出た時には既にあった。彼がいつ頃に起きてこれを用意したかはわからないが、随分とサバイバルに手慣れているらしい。
焚き火が燃えると同じく、枝に刺さったお肉は香ばしい香りと共に焼けていく。食欲を唆る香りだ。そういえば昨日は夜から何も食べていないのだとそう思えば、空腹を自覚して。しかしまだ焼け頃ではないし、彼の話も重要である。お腹の音が鳴らないようにと苦心しながらも、私はそこで問いかけた。
「だからこの世界の人は、名前とは別のハシナ、を作るの?」
「作る、というよりも大概は親が渾名のようなものをつけ、それが自然と端名になる方が多い」
端名とは、彼がお肉を焼き始めた頃に最初に話してくれたこと。つまるところ、通称の名前というものらしい。私が居た地球と違い、この世界では名前は酷く重要なもの。その重要がどこまでのことなのか、それはまだ聞けていないが。少なくとも昨日の私みたいに、出会ったばかりの初対面の相手にあっさりと名乗るようなものではないとか。
とはいえ相手のことを呼ぶ名前が無いというのは、中々に不便である。故にこの世界では端名と呼ばれる、渾名にも近い文化が広く深く知れ渡っているらしい。例えば今目の前に居る彼の端名は、シロ。大概の場合はそうして名前から一部を切り取ることが多いのだとか。シロガネのほうが格好いいと思うのだが、先程お前もそう呼べと言われてしまった。昔飼っていた犬の名前がシロであったので、何だか複雑である。
「お前であれば……そうだな、ミコとでも名乗ればいい」
「ミコ……」
「……なんだその顔は」
「いや、なんでもないです!」
流れでか、さらりと名付けてくれた彼。しかし「尊だからミコか、安直だな」と思ったことが顔に出ていたらしい。不機嫌そうに眉を寄せた少年は、こちらをじとりと睨みつけてくる。美人の怒り顔は怖いので、私は直ぐに両手を上げて降伏を宣言した。溜息と共に直ぐに瞳を伏せてくれる辺り、この少年は寛大である。その優しさに感謝しつつも、私は再び問いかけた。
「でもそんな分かりやすいような端名で大丈夫なの? シロ様もそうだけど」
「……様?」
「ちょっと個人の事情がありまして。まぁ私からの渾名だと思ってほしい」
彼の真似をして、私も湿った木の枝で焚き火の中を弄る。唐突な様付けに再び眉を顰められてしまったが、そればかりは許してほしい。枝で肉を焼いていても隠せない高貴さと美貌を持つ彼を、流石にかつての愛犬と同じ名前では呼べない。というか呼ぼうとすれば可愛くも少し間抜けだったあの子の顔が重なり、吹き出しそうになる。
彼は不可解そうに眉を寄せていたが、渾名だと言った瞬間に距離を取っているわけではないということが伝わったらしい。一度瞳を瞑って私からの渾名を受け入れてくれることにした彼は、私の質問に答えようと口を開く。お肉はそろそろ食べごろだ。
「問題ない。こちらが相手に名乗らなければ、名前を特定されても構わないからな」
「……ううん?」
「重要なのは、相手に名乗るという行為だ」
焼けたぞと、大きな葉に乗せて熊肉の枝挿し焼きを差し出してくれるシロ様。火傷しないようにとの気遣いに感謝しつつも、私はお肉を受け取った。惜しむべきは調味料が無いことだが、それでも十分香ばしく焼けた熊肉は美味しそうである。空腹のまま齧りつきそうになって、しかし彼の話がいまいち理解できずに私は首を傾げた。
別に名前を知られる分には構わない、しかし相手に気安く名乗ってはいけない。それの意味するところが、違いがわからないのだ。どちらも同じではと、私は葉越しに串を持ったまま眉を寄せる。それを見たシロ様は、串を傾けながら言葉を続けた。焼き立てで相当熱いはずの串を素手で持っているのには、ツッコミが必要なのだろうか。
「名とはただ知られるだけには、ただの個人を指定する文字列に過ぎない」
「うん」
「だがこちらが名乗るということは、相手に信を置き魂を差し出すのと同意義だ」
「え!?」
相槌を打ちながら、お肉へと齧りつこうとして。しかしとんでもないことを聞いてしまった私は、齧りつく前に硬直する。魂、というのは一応知っている。地球にも存在した言葉だからだ。スピリチュアル、とでも言うのだろうか。生憎そっちの方面に明るくはないが、魂というものが命みたいなものだということくらいは知っている。地球では存在が不確かな概念のようなものだったが、現状文化で差異しか無いこちらの世界では当然違うのだろう。
「……えっと、私シロ様の魂貰っちゃったの?」
いつになったらこのお肉に齧りつけるのか。そんなことを頭の隅で考えながらも、私は恐る恐ると問いかけた。彼の話を聞くに、相手に名乗るのは魂を差し出す行為と同じ意味らしい。つまるところ先程彼に名乗られた私は、彼の魂を握ってしまったのか。そしてお返しのように名乗った私も、彼に魂を握られているのではないか。そう考えて僅かに青褪めた私に、シロ様は鼻を鳴らした。
「今更気づいたのか」
「ええっ!?」
「安心しろ、一方的な譲渡ではない。契約を結んだ、という表現の方が近いだろう」
やっぱりそういうことらしい。驚きのあまり串を落としそうになって、何とかキャッチする。少し冷めたのか串は熱くなかったが、それよりも今話されたことのほうが問題だ。魂を渡し合うって、それは大丈夫なのだろうか。いや私に異常はないし、彼に異常も見受けられない。シロ様の余裕そうな表情を見るに、今すぐ死ぬとかそんな物騒なことにはならないとは思う。だが契約とそう言うのなら、先程の行為には何かしらの意味があるはずだ。
私の説明を求める視線を無視して、シロ様は熊肉に齧りつく。到底その繊細な容姿には似合わない行為だが、美少年というのは得だ。一見ワイルドに見える行為をしても、何故か高貴に見えるのだから。それに釣られるように私も熊肉を齧ってみる。塩が欲しいところではあるが、不味くはなかった。
「怯えずとも今後、我とお前に支障がでることはない。決してな」
「……?」
「……お前も我も、行く宛がない者同士ということだ」
「……そうだね」
齧って咀嚼をして、そして飲み込んだシロ様は呟く。それは私に言ったというよりは、独り言のように思えて。お肉を口に含みながら首を傾げた私に、シロ様は端的に告げた。それきり口を閉ざしてしまった以上、今はこれ以上話す気はないらしい。
契約、それが何なのか。気にならないとは言わないし、正直に言えばすごく気になる。けれど目の前の少年が拒絶するように瞳を伏せている以上、それ以上を問い質す気にはなれず。私はただお肉を飲み込んで、小さく頷いた。彼が話してもいいと、そう思ったときに聞く。それでいいと、そう思ったから。現状影響がないのだから、きっとそれで問題がないはずだ。
「……ところで、私が名乗らなかったらどうしたの?」
また齧って咀嚼して飲み込んで。とりあえず今を生きるために黙々とお肉を食べていた私は、そこで一つ気になって問いかける。名乗りは魂を譲ると同義、あの自己紹介で先に名前を告げたのはシロ様だった。例えばあの時の妙なプレッシャーで私が名乗るのを拒絶していた場合、彼は一方的に私に名前を譲ることとなったはずだ。そうなったらどうしていたのかと、私の素朴な疑問はしかし返ってきた返答に彼方遠く吹き飛ばされることとなる。
「殴って記憶を消そうかと思っていたが」
「!?」
さらりと、当然だと言わんばかりに告げるシロ様。まさかの解決策が暴力であったことに唖然とする私に、彼は不思議そうに首を傾げた。まるでそれ以外の答えがあるのかと、そう言わんばかりの顔である。この少年は繊細な容姿に似合わず、熊を単身で倒すくらいの力持ちだ。そんなのに殴られては、ただの女子高生である私は記憶を消すどころかこの世から去ってしまいそうな気がする。
私は返す言葉を失い真顔になりつつも、一つ学んだ。この硝子細工のごとく繊細で儚げな美しい容姿を持つ少年は、その容姿に反してかなりの脳筋であるということを。つまるところ、様付けは正解だったということである。