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四幻獣の巫女様  作者: 楪 逢月
第三章 愛の大地と飛べない少女
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プロローグ「羽のない小鳥」

「さっさと歩け!」

「っ、……」


 いつから、こうだったのだろう。虚ろな赤い瞳は陽の光を受けても、尚も昏いまま。叩かれた背中が痛みを感じることはなく、それはただの衝撃となるだけで。ただひたすらに虚しかった。一昨日も昨日も今日も……そしてきっと、明日も。この日々は永遠に変わることがないのだろう。

 お腹が空いていた、喉が乾いていた。けれどそれを訴えたところで、状況は何も変わらないことを知っている。それどころか悪くなることを。また一つ、殴打するような音が背後から聞こえた。嗚咽にも似た悲鳴も。きっとまた誰かが叩かれたのだろう。ここを取り纏めているあの人は、とても短気だから。


 座り込む人々の隙間に挟まるように荷台の端に座り込み、膝を抱える。まるで積荷のように扱われる、そのことにすら何も思わない。下手に逆らったところで待っているのは暴力だ。だからこうして心を虚無に染めて、罅割れて砕けたそれを抱えて生きていく。

 少ない食事、まともに眠れない環境。不平や不満を零せば飛んでくるのは暴言と暴力。しかし例えそれら全てのことに耐え口を噤んで静かにしていても、「売れない」のならばそれらは簡単にこちらへと牙を剥く。少女は「売れない」常連だった。自分という存在には値をつける価値もなく、それを少しでも正すために俺たちが殴ってやっている。確か纏め役の男は、酒焼けた声でそんなことを言ったのだったっけ。その行為はただ値を下げ続けるだけの行為でしかないと、そんな反感を抱いていた時期もあった。けれどもう、それに不満を覚えることもない。


 ただ黙って全てのことを受け入れ、そうして生きていく。反抗したところで待っているのは転落だけだと知ったから。もうその道しか残されていなかったのだ。光のない赤い瞳をもった、その少女には。


「……怖いよ」

「どうしてこんなことに……!」


 ふと、声が聞こえた。子供の怯えるような声と、まだ年若い女性の声。普段は全てのことを受け入れ、それと同時に全てのことに目を瞑っている少女。しかし今日は何の気まぐれか、少女はその空虚な瞳を動かすとその声の主を探し始めた。


「お母さん、」

「……大丈夫よ。きっといつか、誰かが助けてくれるから」


 そして、声の主はあっさりと見つかる。荷台の端っこ、そこには「荷物」の中ではいくらかマシな見た目の女性と子供が居た。恐らく新入りなのだろう。こんな狭い空間では、声を潜める事に何も意味はない。誰かが話しているのなら、耳を澄まさずともその声が聞こえてくるのだ。二人はそれすらもわかっていない様子だった。

 お母さん。その言葉が指すように、その二人は親子連れらしい。不安そうにする子供を優しく抱きしめる、穏やかそうな風貌の女性。泣き出しそうになっていた子供はその抱擁に僅かに顔を緩めた。それは少女がとうに忘れてしまった、安心という感情なのだろう。少女はどこか遠い世界のように、そんな二人をぼんやりと見つめていた。例えあたりの荷物……ここでは奴隷として扱われている仲間たちが、母である女性の言葉に失笑していたとしても。


 きっと、いつか、誰か、助け。この世界にそんな言葉はない。ここに長く居た奴隷ほど、それを良く知っている。だからこそ周りはまだ希望を持つその二人を見て、昏く笑っているのだろう。いつか二人がそんな希望を砕かれた時、どんな顔をするのか見ものだと。

 だが少女にとってそんなことはどうでもよかった。そんなのはここに来てある程度擦れてしまった、その程度の人間たちの考え方でしかないのだから。その先にある虚無を、彼らはまだ知らない。いつかそれを知った時には、失笑することすらもなくなるだろう。自分の世界から見た他人が、その人生の行く先が、どれほど価値のないものなのかということを思い知るから。


『お前のせいだ』


 親子の姿を見て少女が思ったのは、母という存在のこと。自分には居なかった存在のこと。母のことを聞く度、あの人達は憎しみの光を滾らせてはこちらを見下ろしていて。当時は恐ろしくて堪らなかったそれが、しかし今思い返している少女の心に響くことはない。今の少女の姿は、その憎しみの先の顛末を迎えてしまっているから。


 色を失った瞳に、過去がよぎる。


『あんなに大切に育ててきたあの子が、何故あんな男に奪われてしまったのだ』

 

 嘆きも。


『なんで貴方みたいな出来損ないのためにあの子が死ななければならなかったの……!』


 悲しみも。


『全部、お前のせいだ!』


 怒りも。


「…………」


 結局その全てが行き着く先は、それに覚えた恐怖が迎える先は、虚無だった。もう全てがどうでもいい、全てのことに価値なんて無い。自分の人生において、これから価値のあるものなんて何も生まれない。何も生めない自分だから、出来損ないと呼ばれたのだ。

 少女はそっと、自分の左耳に触れた。人間のものである右耳とは違う、今となってはぼさぼさになってしまったその耳へと。しかしそうして触れたところで、何かが起きることはない。少女に何かが答えることはない。こんなだから出来損ないで、愛されなくて、こんなにも虚無になってしまったのだ。いつか憎んだその事実が、空っぽの心に溶けていく。口の端が僅かに歪んだ。自嘲めいた笑みだった。


「ふふ」


 もうどこにもいけない。いいや寧ろ最初から自分は、どこにも行けなかったのだ。翼のない小鳥の顛末、最初から幸せを得られるようになんて出来ていない。そういう風に生まれられなかった。それこそが失敗だ。だからこの先だって、なにもないのだ。


 そうして少女は一人、愛のない世界で心を抱える。罅割れて空虚な、何もない心を。

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