六十四話「気球を操作する翼」
「こ、これは……!?」
そうして夕方から宵へと向かい始めていた空の下、ケヤさんの店から桃花の宿へと戻ってきた私達。先程の言葉はどういう意味だったのかと問うても、カッシーナさんは意味深に微笑むだけで何も答えてくれず。更に言えば、見送ると言って付いてきてくれたケヤさんも何も答えてくれず。結局私とシロ様は何もわからないまま、こうして宿まで戻ってきたのだった。
しかしそんな些細な事を忘れてしまうほどの光景が今、目の前に広がっている。何故か借りていた部屋に通すのではなく、庭まで連れてきたカッシーナさん。最初はその意図がわからずに首を傾げていたのだが、今ならその意味がよくわかる。足を用意したという、その言葉の意味だって。
何故ならば今日も美しく咲き誇る千年樹の隣に、いつの間にか見覚えのない気球のようなものが置いてあったのだから。
「よ、カシ子! 待ってたぜ」
「ちょっと。そのダッサイ呼び名、やめてよね」
趣のある庭の中に突然として出現した気球。優美な千年樹の隣に当たり前のように置かれたそれを見て、思わず言葉を失っていた私。しかしそこで聞こえてきた声に、私に思考は再稼働した。聞き慣れない男性の声である。視界が暗いせいで姿はいまいち掴めないが、カッシーナさんと親しい人なのだろうか。渾名らしき呼び名で呼ばれたカッシーナさんは、不満そうな声を上げているが。
「カッシーナも対して変わらんだろ……で? こいつらが今回のワケアリ客か?」
「っ!? あ、えっと……初めまして……?」
「おう、ハジメマシテ」
声の主はどこに居るのだろうと、視線を彷徨わせていた私。しかしそこでにゅっと現れた人影に、思わず舌を噛みそうになってしまった。すんでのところで悲劇を回避しつつ、私はいつのまにかカッシーナさんの隣に立ったその人を見上げた。私のしどろもどろな挨拶に、歯を見せる快活な笑顔を返してくれたその人を。
長身のカッシーナさんよりも高く見える背。短く刈り上げた橙の髪と、褐色の肌。年の頃は三十代半ば程度だろうか。いわゆる強面と呼ばれる容姿に近いように見えるが、笑うとその威圧感は消え幼さが目立つ。第一印象は、気の良さそうなお兄さんというところ。子供に好かれそうである。だがそんな日本に居てもおかしくなさそうなお兄さんの容姿で、一つだけ異色だったのは。
「……あの、その左耳は?」
「ん? 嬢ちゃんムツドリ族を見んのは初めてか?」
「ム、ムツドリ!?」
そう、どこからどう見ても普通のお兄さんであるその人。しかし不可思議なことに、なぜかその人の左耳だけが人間のそれとは違っていたのだ。見るからにふわふわそうな、橙の羽毛のような何か。先端が黒に染まったそれをぴるぴると揺らしながら、お兄さんは私の問いかけに首を傾げる。けれど私は、返ってきた驚愕の事実を受け止めるだけで精一杯で。
「……混血か」
「ハーフって言ってくれよ、お坊ちゃん」
ムツドリ族。一応今の旅の最初の指標である、ムツドリ族。まさか突然に現れたお兄さんがそんな人物だとは思っておらず、脳内の疑問は一気にとっ散らかっていった。しかしそんな私とは真逆、隣のシロ様は至って冷静で。お兄さんを見上げては、納得したように頷くシロ様。最も冷静に判断された側のお兄さんは、困ったように眉を下げていたのだが。
「ムツドリは幻獣人の中で唯一、同族以外とも情を交わすのが一般的な種族だ。そうして生まれたのがこの男のような……はーふ、だ」
「そ、そうなんだ……?」
だがそんなお兄さんを気にも留めず、私を見上げては補足情報を告げてきたシロ様。成程、片耳だけがもふもふなのはハーフだからなのか。と、そう納得しながらも私の顔に浮かんだのは苦笑いだ。恐らく親切心のつもりだし、言われたことをすぐに改めているのは偉いと思う。けれどできれば、シロ様の口から情を交わすなんて言葉は聞きたくなかった。言っているのが容姿は儚げな美少年だからこそ、余計に申し訳ない気分になる。
どことなく気まずい気分になった私。そうしてそれは目の前のお兄さんも同じだったらしく、彼もまた物言いたげな顔でシロ様を見下ろしていた。字幕をつけるのであれば、「子供がそんなことを言うんじゃありません」なんて流れそうな表情である。そしてその気持ちは私にも痛いほどにわかった。説明してくれているのが私のためだという手前、何も言うことは出来ないのだが。
「もう、黙り込んじゃって。一々気にしてんじゃないわよ! ちっさい男ね」
「いや、お前……いって!?」
「とにかく! ミコちゃん、こいつはレゴって呼ばれてるわ。で、レゴ。この子達はミコちゃんシロちゃんね」
そのまま気まずい沈黙が漂いそうになって、しかしそんな空気をカッシーナさんは拾い上げてくれる。ばしんと勢い良くお兄さんの背中を叩くと、私達の代わりに紹介を済ませてくれたカッシーナさん。成程、お兄さんの端名はレゴと言うらしい。この街で出会った人達と比べると少しだけ毛色が違って聞こえるのは、彼がムツドリ族のハーフだからなのだろうか。そんなことを頭の片隅で考えながらも、私はカッシーナさんに促されるがままに口を開いたレゴさんの言葉に耳を傾ける。
「あー……こいつの言う通り、俺はレゴって呼ばれることが多い。好きに呼べ」
「は、はい!」
「で、そんな俺の職業は気球便の操縦者。といってもでっけぇ会社に務めてるんじゃなく、仕事の殆どはワケアリ連中の護送だがな」
レゴさんが話してくれたのは、簡易的な自己紹介。カシ子とは旧知の仲だ。最後にそう締めくくったレゴさんの言葉を、私は必死に噛み砕いた。この人はカッシーナさんの友達で、ムツドリ族のハーフで、気球便とやらの操縦者で、でも正式な社員ではない。いや、あまりにも情報量が多くないだろうか。
友達なのはわかる。ムツドリ族であること、そうしてその中でもハーフと呼ばれる人種であること。それに関しては、シロ様の説明のおかげで若干は理解できているはずだ。あと訳あり連中、という言葉の意味も大体はわかる。訳ありとは私達のような、どこかに逃げなければいけない人達を指しているのだろう。しかし残された最後の一つ、気球便の操縦者とはそもそも一体なんなのか。単に気球の操縦者じゃ駄目なのだろうか。というかそもそも、気球を操縦なんて出来るのか。
「……気球って、操縦出来るんですか?」
「ん? いや、普通の奴は無理だぜ」
だが考え込んだところで、気球に対する知識が殆どない私には答えが出ず。結局尋ねた私に、レゴさんはさらりと解説をしてくれた。どうやら面倒見の良い人らしい。カッシーナさんの友人だというくらいだし、恐らく類友なのだろう。
そうして始まったレゴさんの解説曰く、本来気球はその高度以外を操作できるものではない。風まかせにふらふらと空の旅を楽しむだけの、決まった目的地へと辿りつける乗り物ではないんだとか。それは私が考えていた通りのことである。ならばどうやって気球を操作しているのかといえば、それは法術による力だった。風の法術と火の法術を組み合わせ、気球を操縦者が思う方向へと誘導する。それが出来る人物のことを、気球便の操縦者と呼ぶらしい。
「だから操縦者ができんのはムツドリ族だけなんだよ。人間や獣人には無理だしな。まぁ他の幻獣族もやりゃできるかもしんねぇが……不安要素がある」
「不安要素……?」
成程、人間や獣人が操縦者を出来ない理由はわかる。以前シロ様から聞いたところによると、人間は基本的には一種類の属性の法術しか操れない。そしてそもそも獣人は法術を使えない。そこまではわかるが、けれどムツドリにしか出来ないという言葉には疑問が残った。何も二種類以上の法術を使えるのはムツドリに限った話ではない。その条件に関しては、他の幻獣人も同じはずだ。なのに何故、ムツドリ以外には不安要素があると言うのだろう。
「ああ、そういえばムツドリ族に会うのは俺が初めてだっけか。じゃ、見てな」
「えっ?」
けれどそんな風に浮かんだ疑問は、次の瞬間に溶けていった。見てな、その言葉を告げると同時にカッシーナさんから少し距離を取ったレゴさん。カッシーナさんもそんな彼に合わせるように、肩を竦めながらもレゴさんから離れていって。暗闇に慣れてきた目は、そんな二人の一挙一動を見逃すこと無く捉えた。
そうして周りから十メートル程の距離を取ったレゴさんのその手が、ふわふわとした左耳に触れる。瞬間強い風が吹き荒び、千年樹の花びらが幾つかと散っていって。だがそれが目に入らないくらい、風に晒されても目が閉じれなくなるくらい、私は目の前の光景に夢中になっていた。ひゅ、という枯れた呼吸が口から零れていく。見開かれた瞳に、目前の彼の姿が焼き付いていく。
先程までただの人間にしか見えなかったその人の背から、何かが生えてくる。大きな橙色の、翼が。
「……ま、こういうことよ」
やがて風が止んだ先、そこにはレゴさんが立っていた。先程まではその影すらなかった、大きな翼をその背中に宿して。その足は地についていない。何故ならば背に生えた翼が、羽ばたいてはその体を浮かせているから。
私はその姿を見た瞬間に、一つのことを悟った。きっとレゴさんが言っていた不安な部分とは、他の幻獣族は飛べないという部分にかかっているのだろう。確かにムツドリ族が空を自由に飛ぶことが出来る種族ならば、それほどまでに気球の操縦者としてぴったりなことはない。常に気流を自ら感じ取り、感じ取っては操作をし、さらに言えば墜落した時にだって乗客を救うことが出来るかもしれないのだから。




