六話「あなたの名前は」
「……あ、」
差し込んだ僅かな光、それを感じ取って私は目を覚ます。寝ぼけた眼を擦りながら体を起こせば、埃の臭いがまた鼻を衝いた。ぼやけた視界を見渡しても、そこはやはり自分の部屋ではない。わかっていこそいたが、やはりこの世界は夢なんかではないただの現実なのだ。
現実を直視してまた落ち込みそうになって、しかしそこで私ははっとする。少年から衝撃の事実を聞かされ泣き喚いて、そこからの記憶がない。つまるところ私は、あの後泣き疲れて眠ってしまったのだろう。子供のようで恥ずかしいとそう考えながらも、私は再び部屋を見渡した。
「……居ない?」
狭い部屋を何度か見渡して、そして素っ頓狂な声が零れる。昨日目を覚ました時と同じように、少年は居なかった。この小屋の中は狭く、家具もベッドにぼろぼろなテーブルと椅子が一つずつというくらいで隠れるところも無い。つまるところ、少年はやはりこの小屋に居ないようだ。
よくよく考えれば居る理由もないのかと、そう考えた私は俯いた。この世界に落ちてきた私と違って、少年は元よりこの世界の人間だ。私と違って帰るところがあるだろうし、待っている人だって居るのだろう。どういう原理かはわからないが傷もあらかた治ったようだし、いつまでもこんなボロ屋に居る必要はない。それに出会ったばかりで泣き喚くような傍迷惑な女の面倒なんて見る義理は、彼にはないのだ。
「!」
「ああ、起きたか」
「えっ!?」
しかしそこまで考えて少し落ち込みそうになったところで、小屋の扉は古びた音と共に開く。思わずばっと視線を上げれば、そこには血塗れで立っている少年が居て。昨日の再来かとぎょっとしてみせた私を他所に、少年は平然とした表情で何かをどさりと小屋の前に置いた。けれどそれを見る余裕もなく、私は弾かれたようにベッドから飛び降りて少年の方へと駆け寄る。
「そ、その怪我どうしたの!?」
その血は昨日の比ではない。昨日は昨日で腹部と目から流れた血が致命傷であることを物語っていたのだが、今日はいっそのこと血を被ったのではないかと言うくらいに真っ赤だ。綺麗な白銀の髪も、白皙の肌も、全てが赤で汚れてしまっている。
なのに彼は平然と立っているものだから、どう処置をしたものなのかと迷ってしまって。私は焦るあまり、制服のスカートから取り出したハンカチで彼の頬を拭った。趣味で作った白地に愛らしい栗鼠が刺繍されているものである。あっという間に真っ白だったそれは、血で汚れていって。しかしハンカチが真っ赤になって彼の肌の白が覗いたところで、私は何をしているのだろうと思った。怪我をしているのなら、まずその傷を見せてもらったほうが良いのでは。そう考えて動きが止まった私に、されるがままになっていた少年は不思議そうに告げる。
「ただの返り血だ。怪我はない」
「かえ、えっ!?」
「狩りをしてきた」
返り血、現代日本で暮らしていれば縁遠いその言葉を私は一瞬飲み込めなかった。また動揺の声を零した私を置いて、少年は指を差す。床へと向けられたその指の行く先を視線で辿れば、そこにはふわりとした何かの毛皮があって。狩りをしてきた、つまるところ彼が居なかったのはそれに赴いていたからで。全身血塗れなのはその狩りの対象の返り血で。そこまで思考が行き着いた私は、途端に脱力した。
「……よか、った」
「……?」
へなへなと力が抜けて、床に座り込む。思わず零した言葉が「置いていかれなくてよかった」なのか、はたまた「無事でよかったなのか」それはわからなかったけれど。それでもまだ名前も知らないこの少年が無事で共に居てくれること、それがなんだか嬉しくて。
「なんだ」
「……ううん、何でも無いよ」
「…………」
座り込んだ私を、不思議そうに少年は見下ろす。それにへらりと笑いかければ、少年はますます不可解そうに眉を顰めて。馬鹿そうだと思われただろうか。一瞬生まれた迷いは、しかし彼が視線を合わせるように屈んでくれたことで飛んでいく。
ハンカチを犠牲に少し白が覗くようになった肌。視線を合わせて近づけば、彼からは昨日よりも色濃い血の匂いがして。けれどそれが何故か嫌じゃなかった。髪のてっぺんから服から何まで、まっかっか。何をどうすればこんなに赤くなるのだろうと首を傾げた私を、色の異なる瞳で少年は見つめる。その形の良い唇が一瞬迷うように吐息を漏らして、しかし迷いを振り切るようにして少年は口を開いた。
「……我は、シロガネ。シロガネ・クドラ」
「しろ、……?」
突然の自己紹介に、私は首を傾げる。昨日はあんなに名前を教えることを躊躇っていた様子だったのに、どうして急に名乗ったのか。内緒話でもするかのように密やかな声で紡がれたそれを、私は一部だけ切り取って繰り返す。なぜだかその全てを私が紡ぐことは、許されない気がして。
「ああ、我の真名だ。今となってはお前以外に知る者はいない」
そんな私にそれでいいと告げるように頷いて、少年は重々しく言葉を続けた。マナ、また聞き覚えのない言葉だと私は眉を寄せる。たかだか名前をそんなに重々しく語るものなのかと一瞬疑問が降って湧いて、けれどここは別世界なのだ。私の常識が通用しなくても、何もおかしな話ではない。
シロガネ・クドラ。それがこの少年の名前。白銀の髪と白皙の肌と、てっぺんに猫のような耳を持つ少年の。硬い響きのそれは繊細なこの少年の美貌には少々似つかわしくない気がしたが、硬い口調と表情を合わせればとんとんというところだろう。重さを増したように感じた雰囲気にそうして現実逃避をしそうになって、しかし重ねられた彼の問いかけがそれを許してはくれなかった。
「……お前の名は?」
「……私は」
名前を問われる。そう、相手が名乗ってくれたのだから私だって名乗らなければ。それなのに名乗ろうとした口は、そこで躊躇するように動きを止めた。なんでだろう、昨日はあんなにもあっさりと名乗れたというのに。
思わず生唾を飲み込んで、私はシロガネと名乗った少年を見つめた。変わらず彼は異色が混同した瞳で黙って私を見つめるばかりで、しかしそこには確かに威圧感があるのだ。彼が醸し出す雰囲気が、私の口を押し止めて蓋をしているような。名前を聞いているはずなのに名乗ってはいけないと、目の前の少年は告げているように感じる。何かの選択肢を、私に委ねているような。
「わ、たしは……」
どう答えるのが正解なのか、私にはわからなかった。名前を名乗ることが正解なのか、それとも名乗らないのが正解なのか。迷うようにまた、口の中で言葉を溶かす。けれどいくら迷ったところで、私の中にはもう揺るぎない答えがあって。小さく息を吸って、吐いて。そうして私は言葉を紡ぐ。彼が先程やったように声を潜めて、しかし確かな言葉で。
「……城崎、尊」
「……!」
瞬間、息を呑むような音が目の前から聞こえた。目を見開いた彼の反応に、これが正解だったのかがますますわからなくなって。でもこれでいいのだと、私は必死に自分に言い聞かせた。だってこれ以外ないだろう。彼に名乗らせておいて自分は名乗らないなんて、そんなのは何か違う気がする。だからこれが彼にとっての正解ではなくても、私にとっての正解なのだ。
開き直って内心で自分を正当化した私。しかしそんな私の内心を覗けるわけもない彼は、先程よりも眉を寄せてこちらを見つめていて。血塗れなこともあって威圧感がすごいと、私はその視線に若干怯えた。自分よりも幼い少年を前に怯えるなんて情けない話だが、それくらい目の前の彼には何かの雰囲気があるのだ。その絶世とも言える美貌も相まって。
「あっ、と……尊! 尊のほうが名前だからね!」
重苦しい雰囲気に耐えきれず、私はそこで変に明るい声を上げた。彼の名乗り方を思い出し、シロサキの方が名前だと勘違いされるかと思ったのもある。それでも一番の理由は、無言の重い雰囲気が続くのに耐えきれなかった方が大きい。
「……ああ、ミコト」
「……!」
しかしそこで重苦しい雰囲気を払拭した彼が、眉を寄せて出来た皺を解いた彼が、その繊細な美貌に軽やかな笑みを乗せるものだから。思わず名前を呼ばれた衝撃よりも、その笑顔を見た衝撃のほうが勝ってしまって。美しい人のその笑顔に、私は思わず見惚れてしまった。そしてそれと同時に、深い安堵が胸を満たす。
とりあえず無骨な表情以外を見せてくれるくらいには、信頼を得られたような気がすると。まぁそんなのは、私の都合の良い妄想に過ぎないのかもしれないが。でもそれでも良かった。それら全てをどうでもいいと思わせるほど、彼の笑顔は美しかったので。