五百十話「海を従えよ」
「……終わったな」
「うん……えへへ、勝てたよシロくん!」
「ああ、よくやった」
彼女を形作っていた塵が完全に姿を消す。からんと、落ちた双剣すらもやがて霧になって消えていった頃。敵がこの場所から完全に消え去ったことを確認したシロガネは、静かに呟いた。
この場に残されたのは傷だらけになりながらも笑顔を浮かべるアオイと、繭の中で籠り続ける尊と、そうして大きな貝殻の上で眠る族長、ソウスイのみ。この場を守っていた番人を排除したのなら、あと二人がやるべき事は決まっている。アオイの頭を優しく撫でると、シロガネは静かに告げた。
「我はミコを起こす。恐らく、相当に魂に負担をかけたはずだ。名を使ったのでな」
「……でも、しょうがなかったよ。ああしないとミコ姉と戦うことになっちゃったし」
「……そう、だな」
外れたその視線が向けられたのは、少女が中で眠る繭の方。その表情に浮かぶ見慣れぬ憂いに、アオイは精一杯慰めんと明るい声を上げた。だとしてシロガネの表情は、晴れることはなかったが。
……叔父に名前を使われた父親が、魂ごと崩壊した姿を見た記憶。その記憶から、シロガネは名前を使うことがどれ程相手に負担をかけることかを知っていた。全ての意思も理も無視し、ただ相手を自分の言葉の言いなりにする。名前に込められた力全てで魂を押しつぶすような行為。叔父のようにシロガネが尊の魂を崩壊させるようなことは起きえない。だとして、今回のたった一つの命令が彼女の魂に負担をかけたのは疑いようがなくて。
「……いや、過ぎたことはいい。我はミコと魂を分け合っている。恐らく、我が傍に居れば僅かに負担も和らぐだろう」
「む、それずるいよね! まぁいいや、あたしにもやることあるし」
「……起こせそうか?」
「んー…………」
だがシロガネだけが尊の魂に負担をかけられるなら、その逆もまた然り。名を教え合い、魂を預けあっている間柄であれば逆に相手の魂の傷も癒すことが出来る。自分の魂の力を少しを分け与える形で、となるが。しかしたかだか僅かに自分を消耗させるだけで唯一である彼女を助けられるなら、シロガネに躊躇う理由はない。
まさしく唯一無二。その関係にアオイの唇はつまらなそうに尖らされたが。けれど彼女にだってやるべきことはあった。この空間に来た目的。かつて自分と一緒に戦ってくれていた祖母を助けるという、何よりも大切な目的が。シロガネの問いに、少女は瞳を伏せる。やがて開かれた青い瞳が、貝殻の上で眠る自分によく似た女性を見つめた。
「起こすよ」
「…………そうか」
「うん。あたしになら出来るって、今は自分のことを信じてる」
一言一言、噛み締めるような声音にシロガネは小さく頷く。それ以上励ましも、叱咤も、何も必要が無いように思えた。自分で自分の道を歩こうとしている者に、背後からどんな言葉をかける必要があろうか。必要なのはきっと、背中を押す相槌だけ。
「ミコと待っている。行ってこい」
「…………うん!」
背を向けて別の方向へと歩き出した少年の声に、少女が一歩と踏み出した。その歩みは徐々に早くなって、やがて小走りになって。息が切れそうになったのは、心臓が激しく鼓動を奏でているからだろうか。今の自分は魂だけの存在。疲労も何も感じないはずなのにと、首を傾げたアオイの歩みはそれでも止まらない。
貝殻の上で眠る彼女はすぐそこに居るはずなのに。ほんの僅かな歩みが、まるで永遠のように感じられた。だけどそんなはず、そんな遠くに居るはずがないから。そうやって足を進め続ければ、やがて永遠は断ち切られる。すぐ目の前、触れられるそこにソウスイが居た。呼吸音すら僅か。静かに眠る彼女に、泣きそうに顔を歪めたアオイが手を伸ばす。
「……おばあ様、来たよ」
「…………」
「遅くなっちゃって、ごめんなさい」
震える声に、しかし返事はない。いつだって自分が泣きそうになる度に優しく抱きしめてくれたその腕も、ぴくりとも動かない。いつかは自分を偉大に守っていてくれた祖母の姿は、眠りに就いているからか旅を挟んだからか、今のアオイには小さいもののように見えた。
「……ねぇ、おばあ様。あたし、色んなものを見てきたの。そんなに長い旅じゃなかったのに、すごく長い時間を過ごしてきたみたい」
アオイの手が、自分よりもほんの僅かだけ大きいソウスイの手を握る。体温は感じられないほど冷ややかで、まるで永遠の眠りに就いているようで。だけどいつかそれだけでしゃくり上げて泣いていただろう自分は今ここには居ないのだと、彼女の手足で七色の鱗が輝いた。
心臓の鼓動が落ち着いていく。震えていた声が滑らかなものへと整っていく。短く長い旅がアオイに齎したのは果たしてどれほどの物か。強大な敵と戦って、仲間を取り戻して、誰かを守って。そうしてたくさんの背中を追いかけてきた。深い傷を与えてきた相手をそれでも許した少女を、恨みと悔恨を断ち切り前に進もうとした少年を。何より、深い絆と共に歩き続けている二人を。
「憧れがたくさんできたよ。今もお姫様になりたいけど、王子様にだってなりたい。それで、なにより…………」
狭い城の中、本の世界。それらだけでは知ることが出来なかった感情を、光を、闇を、世界と見つめ合って。そうして夢がたくさん出来たのだと、少女の瞳で涙が光った。繋いでいた手のひらが離れていく。手首の白いシュシュに、その手がかけられる。
「大事な皆を守れる、仲間で居たい」
そして彼女を守り縛る枷が、外された。
「この力は呪いで、でも紛れもなく祝福なんだって。それを、証明してみせる」
「…………」
瞬間ぐるりと、アオイの中で何かが蠢くような感覚がした。怖くて仕方ないと、震えそうになる足に叱咤をかける。持っていればすぐに着けてしまいそうなシュシュは、苦渋の決断で海の中に落とした。自分を守る、誰かを守るお守りは今ここにはない。それが酷く恐ろしい。
もし仮にまだ力がちゃんと扱えなかったら? このまま祖母や、そしてシロガネや尊まで自分が好きに扱える人形に、奴隷のようにしてしまったら? 押さえ込んでいた不安が溢れかえるさま。もう一人の自分が耳元で囁いているようだった。「お前には所詮その力は使いこなせない」と。だけどそこに光が差す。
『まちがえそうになったら、わたしがちゃんと教えるよ。わたしもみんなも、アオお姉ちゃんを助けるよ』
見失いそうになった月の輪郭を、太陽の温もりが形作る。
「っ、あたしに…………!」
息を吸った。深く、深く。そうして魂ごと叫ぶように。咆哮と共にこの世界に、自分を未だ支配しようとする海に反逆を企てて、革命を起こすように。少女の目に光った輝きを、遠くで少年が見つめていた。繭から助け出した己の半身を抱えながら、瞳を細めながら。
「従え!!」
鋭い叫び声が海にさざ波を作り出す。震えた水面が、やがて断ち切られた。大波がアオイを中心に作り出される。掲げられた旗を前に頭を垂れる。そうして瞳を青く蒼く碧く輝かせると、少女は祖母の形を掴んだ。必死の形相は、なおも美しい。逃げぬ勇敢な姫のよう、困難に立ち向かう王子のよう。七色の鱗が、白く輝いていた。
「起きて、ソウスイおばあ様」
「っ、…………?」
「夢は終わり。もう未来を見る必要も、悪夢を見る必要もないんだよ」
先程シロガネが尊の魂に命令を下したよう。海の力を使って相手を波で押し流し、自分の望む場所まで連れていくように。己の美しさを以て相手を操る力は、今や完全にアオイの手中にあった。誰も命令に逆らえない。完全なものでないとは言え、名前を呼ばれてしまえば尚更に。
そこまで反応のなかったソウスイの手のひらがぴくりと震える。未だ彼女を閉じ込め引き止めようとする何者かの枷が、海の渦潮によって流されていく。いつかはその力で里を海の底に沈めようとしていた少女の力が、自分を水面へと押し上げる。そしてやがて、最後の鎖が断ち切られた。
瞳が、開かれる。
「……あ、お」
「……おばあ様」
「ふ、よく、やった…………」
自分と同じ深い青の瞳が、自分を見返している。アオイがその事実を噛み締めたのは途切れ途切れ、掠れに掠れた、そんな声で名前を呼ばれた頃になって。心臓が震える。今度は恐怖じゃない感動が、ぽとりと少女の瞳に浮かんでいた小さな海を決壊させた。泣いたアオイに、彼女は微笑む。
「お前もまた、妾の、自慢の孫よ……」
「っ、…………!」
もうそれ以上、力は必要なかった。海を沈めた少女が泣き笑いの形相で強く祖母を抱きしめる。今度はその腕に、腕が返された。それだけで二人には、十分だった。




