五百七話「海の闇よりいでし魔女」
「……なに、これ」
「……不気味だね」
そこからの世界は、一気に一変したようで。過去の寂寥感を一滴ずつたらしめたような、穏やかで静かな記憶の海。未知を謳いながら美しかった世界はどこへやら。そこら中から低い呟きが延々と聞こえてくる、影ばかりの世界。背景を流れる記憶に時折入るノイズすらも嫌な予感を連れてくる。まさに不気味の一言。ホラー映画のような世界に、私達の足取りは少しずつ重くなっていった。
「かわれ」「きえろ」「じゃま」 負の感情をそのままに垂れ流れる影達の呟きは一向に止むことがなく。延々と耳をループしては、ぐちゃぐちゃに脳を掻きまわそうとする。なんとかその追跡を振り払いつつ、私は黙々と前を歩いていくシロ様の背中を見つめていた。シロ様は今、何を思っているのだろう。特に怯んだ様子はないが、影達の正体が何かわかっていたりするのだろうか。
「……惑わされるな」
「え、」
「奴らの言葉は我ら宛ではない。そのような言葉に耳を貸す必要はない」
すると、まるで私の考えていることを読んだかのようなタイミングで飛んでくる声。奴ら、とは多分影のこと。彼らの言葉は私達に向けたものではない………? いや、よくよく考えればそうなのか。ここは族長様の記憶の中で、私達は不法侵入者。予定されていない来訪者のため、こんな仕掛けを用意する必要はない。ということは。
「……ここはおばあ様の記憶の中だから、あいつらはおばあ様に変なことを言ってる……ってこと?」
「その可能性が高いだろうな。どうやら奴は、余程族長を邪魔に思っているらしい」
「なにそれ……! おばあ様は閉じ込められて力を無理矢理使わせられてるだけじゃなく、変な夢まで見せられてるの!?」
あの悪意だけを閉じ込めて囁かれる言葉は、全て族長様宛のものということ。邪魔者を排除せんと繰り返される呟きは、全て。私と同じ結論に至ったのだろう。私の隣を歩いていたアオちゃんがふと眉を顰めた。その不快そうな視線は辺りの影へと向く。
確かに。アオちゃんはさっき、族長様はこの先に居る気がすると言っていた。この、進めば進むほど影の量も密度も声の大きさも増していく更に先に。それつまり、族長様は自分の能力を逆手に取られ苦しめられているだけではなく、こんな悪夢の中で苛まれ続けているというわけで。立てていたアオちゃんの槍が影へと差し向けられる気配。それは大切な祖母を苦しめている存在へと向けられて。
「……アオ、アレらは有象無象。排除してもキリがない」
「う、…………」
「根本を絶てば族長とて助かる。足を止めるな」
けれど僅かに振られた大きな太刀が、その一閃を止めた。力の差は歴戦。あっさりと自分の突きを止めたシロ様の言葉に、アオちゃんは不服そうに表情を歪める。だが師の言葉を疑おうとまでは思わなかったらしい。しぶしぶ、と唇を尖らせつつアオちゃんは槍を元の姿勢に戻した。代わりに足取りは軽くなる。
「……二人共、早く行こう! 怖いとか言ってられないもん!」
「……うん、そうだね」
いい加減この夢の牢獄の中から、族長様を助けなくては。私はアオちゃんと違って振るう武器はないけれど、気持ちは同じだった。この領域は不気味で、足を進めるのも少し恐ろしくて。でもこの先に助けを求めている人が居るのなら、それらの恐怖は足を早く進める理由になる。
私達の言葉を聞いてか、シロ様の歩みが少し早くなる。それに置いていかれないよう、まだ存在する浮力のようなものを利用しながら脚を動かして。精神世界のようなものだからか、呼吸が上がらないのが有難かった。今ここで体力が二人より無いからと、足を引っ張ってしまうのだけは嫌だったから。
「シロくん、そこちょっと左寄り!」
「ああ」
そうやって歩いて。
「ここからはずっと真っ直ぐ……かな? もうちょっとな気がする」
「わかった。警戒を怠るな」
走って。
「…………もう、近いよ。あっちに進んで、真っ直ぐ」
「ああ。武器はいつでも振れるように」
「了解……!」
足を進め続けて。
そしてやがて、私達は目的地へと辿り着いた。
「……!」
進めば進む度、影は濃くなっていった。囁きはやがてさざめきに。延々と耳を襲うそれらは、慣れればそこにあるだけの存在となる。けれどある場所に足を踏み入れた瞬間、影も音も全てが姿を消した。本能が告げる。「着いた」と。
二人も同じことを思ったのだろう。前方のシロ様が刀を構えた。アオちゃんが槍を持ち直した。私は糸くんを持ち上げて、いつでも操作できるようにして。そしてそのまま、前方を見据える。深い深い深海の中のよう。影はもう居ない。だというのに暗く思えるその場所に、その人は居た。
「おばあ様……!!」
震えたアオちゃんの声が、その名前を呼ぶ。深い深海の中、大きな貝殻の上でぐったりと横たわる彼女の名前を。恐らくはもう待てなかったのだろう。私の制止の声を聞くよりも飛び出していったアオちゃんは、その細い腕を族長様へと伸ばそうとして。
「……ハ? 何勝手に入ってきてんの?」
「……貴方、誰」
けれど瞬きの瞬間聞こえたのは、硬いものが激しくぶつかりあった様な音。ひゅっと息を飲んで目を開けば、そこに彼女は居た。肩までの空色のセミロング。瞳は酷く淀みながらも退廃的な美しさを残す深いブルー。そして何よりも特徴的なのは、濃い青を伸ばしたようなミツダツ属における象徴である耳元のヒレ。アオちゃんによく似て、だけど無邪気さだけがかけ離れたような。そんな美女は、海の闇より突如姿を表した。
忌々しいと言わんばかりの口振りで美女は舌を打つ。彼女の武器は曲線を描く双剣のようだった。恐らくはそれでアオちゃんに不意打ちと斬りかかったのだろうが、アオちゃんとて警戒はしていた。槍の棒部分で不意の初撃を防ぎ、輝く青の瞳は自分よりも背の高い女性を見やる。
「……ああ、予言の小娘。忌々しくも救われやがった、今代の『魔女』ね」
「……何言ってるかわかんない。それより、貴方が神主って奴? これ以上、邪魔しないでくれる?」
「あは、あたしが『あの方』だって? その目、ガラス玉かなんかなわけ?」
……彼女が、ここで族長様を閉じ込めていた犯人、或いは協力者。恐らくは神主側の人。いつか言った、リンガ族に幻獣人が協力しているという推論は今ここで現実のものとなってしまった。予言に魔女。裏側を知っているとしか思えない発言に、場の緊張感はますますと高まっていく。そしてその空気は、激しい絶叫と共にぶち破られた。
「っ、…………!」
「汚ぇ口で『あの方』を呼び捨てにしてんじゃねぇよ! ブス!!」
目にも止まらぬ速さで後ろに引いた美女が、再び双剣でアオちゃんへと斬りかかる。左から斬り上げて、右からは首を掠めるよう。その斬撃を器用にも棒術でいなしつつ、アオちゃんは軽く後ろへと飛んだ。けれどその怯みへも容赦なく追撃が。
着地直後で体勢を崩したアオちゃんの首へ、また右からの斬撃が飛ぶ。それはなんとか防いだものの、今度の左からの突き刺しは対応出来なかったらしく。迫った切っ先を前に、アオちゃんが選んだのは攻撃すること。相打ちを狙うような突きが、彼女の首元へと迫って。
「っ、アオちゃん!」
「……! ふん…………」
だが、アオちゃんは一人で戦っているわけではない。故にそんな捨て身の攻撃を許す訳には行かないのだ。ぐいっと糸を引っ張れば、アオちゃんの体は私の方へと飛んでくる。それで距離を取らせつつ、密かに忍び寄らせていた糸で彼女の体を一時的に拘束。そこで初めて瞳が合った彼女は、私を見て鼻を鳴らした。どこかぎらぎらとした敵対心を、その瞳の奥にちらつかせながら。




