五話「異世界」
「……そういえば、君の名前は?」
「…………」
とりあえず目下の心配事であった少年の無事が確認出来た私は、ベッドの上に座って一息ついた。聞きたい不可解な現象は多々あるが、今の私がどこまで踏み込んでいいかはわからない。瞳を抉られるような大怪我があったくらいだ、きっとこの少年は複雑で込み入った騒動に巻き込まれたのだろう。それを助けた存在とは言え、出会ったばかりの私に話せと言うのは到底無理な話だ。
けれど名前くらいは教えてくれないかと、私は自分の前に立ったままの少年を見上げた。まさか少年と呼ぶわけにもいかないし、彼の事情を聞けずともここがどこかくらいは尋ねておきたい。しかしそう考えて尋ねた私に、少年は眉を寄せてみせた。
「え、っと……?」
先程までの複雑そうな表情から一転、厳しい顔つきになった少年に私は首を傾げる。まさか名前すらも聞いてはいけなかったのだろうか。そう考えて頬を掻いても、少年は口を貝のように閉じて私を見つめるだけだ。……先程から思っていたが、十三、十四くらいの少年に見えるのにこの威圧感と重圧感は何なのだろう。
「その、私は城崎みこ……っ!?」
何故黙ったままなのか、短く重い沈黙の間にそれを考えても答えは出ずに。結局私は自分から名前を名乗ることにした。よくよく考えればこちらから名乗らずに相手に名前を聞くなんて、失礼に当たると思ったからである。彼も厳しい顔をしていることだし、それを不快に思ったのかもしれないと。
しかしそうして名乗ろうとした瞬間、素早く伸びてきた手によって私の口は塞がれる。それは仏頂面でこちらを見下ろしていた少年の手だった。いや、今となってはもう仏頂面ではない。信じられないと言わんばかりに眉を顰めた少年が、名乗ろうとした私の口を塞いだのだ。冷たい手が痛いくらいの力で私の口に押し付けられ、その指が頬を握る。
「……まさかとは思ったが、お前は本当に稀人なのか」
「ま……?」
突然の暴挙とも言える行動に、私は愕然と少年を見つめた。割と本気で何をするのかと、そう思ってしまったくらいである。だが少年の発した息を呑むようなそんな言葉に、私は首を傾げた。マレビト、聞き覚えのない響きである。そんな物になった覚えはなく、私はただの女子高生でしかないのだが。いいや今となっては隻眼の女子高生、になるのだろうか。ちょっと格好いい気がする。
「夕刻の黄昏時、訪れたるは異世界からの来訪者」
「……?」
「我が国に伝わる伝説だ。この辺りではそんな存在を稀人と呼ぶ」
私がそんな阿呆なことを考えているとは露も知らないのだろう。私の頬から手を離した少年は溜息を吐きながらも、私の隣に座り込んだ。その衝撃で軋んだベッドにちょっとだけ体を揺らしながらも、私は静かに端的に話す少年の言葉に耳を傾ける。
夕刻は、恐らく夕方。黄昏も昔歴史だか国語だかの授業で聞いたことがある。異世界とは、最近クラスで流行っていたライトノベルの話だろうか。友達の椎葉ちゃんが無料で読めるから読んでと、鼻息を荒くしていた気がする。生憎と読書に興味もなければスマホも持っていない私には、縁遠いものではあったけれど。けれどそうして単語ごとに整理しても、いまいち話が掴めない。恐る恐ると横へと視線を向ければ、少年は相変わらずその幼い容姿に似つかわしくなく眉を寄せていて。
「……えっと、つまりどういうこと?」
それはそんなにも眉を寄せている姿を見れば、容易く聞いて良いことではないのがわかっていたけれど。それでもおずおずと私は隣に座る少年に問いかけた。少年が今話しているその内容が、なんとなく自分にとって大きな意味を持つ物のように感じたから。
「……お前には、故郷があり家族が居るだろう」
「……うん」
私の問いかけに、少年は一度迷うように視線を彷徨わせて。けれど一度息を吐いた彼はそこで覚悟を決めたらしい。少し低い位置から私を見上げた少年は、掠れるような声でそう問いかけてきた。そこに一瞬だけ見えた悲しげな色、それに何だか息が詰まりそうになりながらも私は頷く。
生憎と両親は幼い頃に事故で亡くなってしまったけれど、それでも私には私を慈しみ守り育ててきてくれた祖父母が居る。同年代の子にはこんな田舎町と揶揄されることも多いが、なんだかんだ大切な故郷がある。夕焼けに焼かれて真っ赤になる商店街が、禄に舗装されていない家への帰り道が、私は好きだ。少し不便に感じるところもあるけれど、愛おしいとそう感じることの方が多い。
思い出して少し寂しくなって、視線を落とした私。視界に入るリュックやエコバッグが何だかやけに遠く感じて。そんな私に再び躊躇うように唇を開いては閉じて、けれど少年は溜息を吐くかのように言葉を落とした。私にとって知りたくなかった、しかし知らなければいけなかった真実を。
「その場所にはもう、二度と帰れないということだ」
「っ……!」
残酷な言葉が耳を衝く。視界が真っ暗になったような錯覚を覚えて、私は口に残っていた息を噛み殺した。けれどそうしたところで、胸を占めていった絶望という感情は消えてはくれなくて。
帰れない。あの場所には、家族の元にはもう。それはなんとなくわかっていたことで、だが気づかない振りをしていた事実だった。だっておかしいだろう。私が知っている地球には、マンホールの下に太陽が広がる国なんて無い。移植手術もなしに他人に瞳を渡すことなんて出来ない。最初から今の今までありえないことだらけで、それでも私はそれを信じたくなかったのだ。自分が未知の世界に来てしまったということを、もう帰ることが出来ないかもしれないということも。
「っ、……っう……!」
「…………」
それでもそうやって、他人からそう断言されてしまったら。そうしたらもう見ないふりは出来なくなるじゃないか。ぽたぽたと片目だけから流れた涙が頬を伝い、そうしてスカートに染みを作っていく。今となっては片目がないというそれすらも、自分が未知の世界に来てしまったという証明のように思えてしまって。
帰りたい、帰れない。今日の肉じゃがを楽しみにしてて、部活で作っていた服を作り上げるのに燃えていて、週末の小テストに憂鬱になっていて。そんな日常は一気に遠ざかってしまったのだ。私が彼の言う稀人なら、この世界に私を知る人は一人だって居ない。私は世界に取り残されて、連れ攫われて、一人ぼっちになってしまったのだ。
「……!」
「……好きなだけ泣け」
涙は止まらない。心を埋める寂しさや絶望、どうしてという理不尽への憎しみは溢れかえるばかりで。しかし私は隣に感じた体温に、涙を流していた瞳を見開いた。冷たくも温かさの残る、誰かが隣に居る証拠。恐る恐る視線を傾ければ、そこには白銀の耳をぺたりと伏せながら私に寄り添っている少年が居て。腕に触れているその耳が少しだけ擽ったい。
私の視線に気づいたのか、仏頂面のまま少年は短く告げる。そんな表情をしていてもその耳を見れば、私のことを不憫に思ってくれていることはわかるのに。それでも何も言葉にはせず、少年はただ泣いていいとそう告げてくれた。言い方こそ不器用であったが、少し高めのその声には優しさが滲んでいて。
……この子だって大怪我をしていたのに、その原因に心を痛めているかもしれないのに。それでも彼は私を案じ、私に寄り添ってくれている。そんな優しさに触れた瞬間、まだ人前だからとセーブできていた私の涙腺は壊れてしまった。
「……っご、め……っうう」
「…………」
ただ泣き続ける。それでも少年は宥めもせず、慰めもせず、ただそこに居てくれた。時々耳を動かしては悲しげにまた伏せても、泣き続ける私に付き合い続けてくれた。それは瞳をあげたことへの感謝から来る行動だったのかもしれない。それでもその行動は、私にとっては救い以外の何でもなかったのだ。例えもう家に帰れなくても、家族に会えなくても。それでも彼のその行動は、自分が本当の一人きりになってしまったのではないということを教えてくれたから。