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四幻獣の巫女様  作者: 楪 逢月
第十二章 母なる存在への革命
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四百九十八話「本当に怖いのは」

 重い沈黙が漂っていた。私達二人のどちらも口を開くに開けない、そんな沈黙が。何か言わなくてはと、何か伝えなくてはと。そうやって焦りを募らす度に、余計に喉奥に詰まっては出てこなくなる言葉。呼吸が上手くできなかった。胸がいっぱいになって、なんだかとても苦しかった。

 きっとそれはシロ様も同じだったのだろう。目の前に居る少年は、今までに見た事がないような困り果てた表情を浮かべていて。開いては閉ざされる唇。躊躇いというものを初めて知ったかのような彼の素振りは、私の焦りを加速させた。何か、何か言わなくちゃ。でも、何を言えば? そんなの、考えている余裕なんてない。


「あの、」

「ミコ、」

「あ、…………」

「…………」


 先の展望もなくとりあえずこの沈黙をどうにかしなくてはと、その思いだけで口を開いて。だがどうやら覚悟が決まったタイミングは最悪だったらしい。お互いの声が混ざりあって被る感覚。またしても気まずさが空間を満たし、沈黙が私達を襲う。なんだ、これ。口を開くタイミングまで一緒って、こんなところで以心伝心をしたくはなかったのだが。

 やばい。このままではよく漫画やアニメで見るような、お互いにどうぞどうぞと言い合っては話が進まない展開になるのでは。そんなことを考えて余計に焦った私。だがどうやらシロ様にそんな時間を過ごすつもりはなかったらしく。じっとこちらを見つめる二色の瞳。話せと、そう雄弁に告げる瞳を前に私はぎゅっと拳を握り締めた。


「…………その、」

「…………」

「ええ、と…………どこから、聞いてた?」


 だけど、私が聞けたことといえばそれくらいの事で。視線を逸らして問い掛ける。ぼやけた光を帯びて、静かに揺れる海。輪郭が定まらない姿は、まるで私のよう。未だ分からない。シロ様に何を言えばいいのか、私はシロ様に何を言いたいのか。それらが、全部。


「……大分前からお前達の声は聞こえていた。恐らくは最初から、と言って差し支えない」

「あ、そっか。シロ様耳いいから……」

「ああ。お前の昨日の呟きも、聞こえている」

「…………!」


 臆病にも足踏みをして、少しでも確信を遠ざけようとした私。しかしそんな私に比べてシロ様は勇敢だった。きっと、いつだってそう。大分前から私達の話は聞こえていたのだと告げた後、不意に近づいてきたシロ様が私の腕を取る。突然のことに思わず視線を向ければ、見据えるような白黒と目が合った。噛み締めるような言葉に、息を飲んだ。昨日の呟き、って。

 「やっぱり殺さなくちゃ、ダメだよね」 私を見上げる瞳を前に思い出したのは、つい零してしまった呟き。多分誰にも拾い上げられていなかったはずの、私の中のひとひら。さりとて私の一つだって取り零しをしないこの子は、きちんとあの言葉を聞き取っていたらしい。もう逃げ場は無い。真剣にこちらを見据える瞳に、私は今や一つしかない瞳で立ち向かうことにした。


「その意味を今日問おうと思っていた。奴を殺すのに、何を躊躇うのかと」

「……そうだよね」

「今、理由を知った」


 先に口を開いたのは私だと言うのに、もたもたとしている内に主導権はシロ様へ。複雑そうな表情のシロ様が何を考えているのかは、うっすらと読み取れる。まさかその躊躇いの理由が自分だとは思っていなかった。だから私を悩ませてしまったことへの罪悪感があって。でも、それでも。


「……我は魔物、獣の類は数え切れぬ程斬ってきた。人斬りはお前に出会う以前は機会がなく、出会ってからはお前に止められたが故行動に移したことは無い」

「……うん」

「だがそれでも、我の中に人を殺すという選択はいつだって存在する。故にお前の言うことが理解できない。仮に奴を殺したとて、我の中の何が変わる?」


 こっくんみたいに、私の思っていることを理解してくれているわけではない。人斬りはしたことはないとそう言いながらも、それを躊躇うことは無いと断言するシロ様。殺したって何も変わりはしないと、私の不安に首を振るシロ様。純粋な問いかけに、心に一雫の不安がまた貯まる。心の器が限界寸前まで、表面張力を膨張させる。

 ……風でふわふわと揺れる髪が柔らかいこと、その体温が温かいことは知っている。よくよく、多分世界の誰よりも。それでも今私を心底不思議そうな表情で見つめるシロ様に、温度が見つけられないのは何故なのか。世界がすれ違う感覚がするのは何故なのか。その差を埋めようと、私はシロ様に手を伸ばした。腕を伸ばして、そのまま。背中に両腕を回すように。


「……変わるよ、変わっちゃうよ」

「…………ミコ」

「やれそうなことと、やれることは、全然違うんだよ……」


 突然の抱擁を、しかしシロ様は抵抗することなく受け入れる。私はきっと誰よりも、この子に許されている。それが怖いのだとつい最近まで気づかなかった。こんなにも怖いことだと、知らなかった。だってその許しを以てシロ様は、私のために何だって殺してしまうのだから。

 今はまだ、無意識のブレーキがかかっている。私が、かけられている。でも一度、その手をこの世界で人と呼ばれる者の血で染めてしまったら? 出来れば、一度出来てしまえば、人は変わる。いい方向に、或いは悪い方向に。シロ様はきっと変わるだろう。今無意識にかけている「私が厭うから」というブレーキを、呆気なく外してしまえる。なぜならシロ様自身の躊躇はそこにないから。だから私が気づかなければいいと、そんな風に変わってしまうかもしれない。それが、加速していくかもしれない。


 そうなったら、私は。


 私のために人を殺すシロ様に、何をしてあげられる?


「……怖いよ、シロ様」

「……? ミコ、」

「シロ様が変わって、もっと躊躇わなくなって、私のために誰かを殺すなら。殺し続けるなら。私はそんなシロ様に、何を返せばいいの?」


 ……ああなんだ、根本にあったのはそんな利己的な恐怖だったのか。追い詰められて剥がれた化けの皮の、その醜さに自分で自分を笑いそうになってしまった。シロ様が変わるのも怖いし、重い荷物を背負わせるのだって恐い。それは本当。でも一番私が怖かったのは、対等では居られなくなること。シロ様の隣に、立てなくなること。

 私とシロ様の天秤は今、釣り合っている。客観的に見れば、限りなく私がシロ様に助けてもらっている評価になるだろうけれど。それでも私達は、お互いに平等だという意識がある。お互いにそう思えている。でも私のためにシロ様が誰かを殺したら? きっと私の天秤は揺らぐ。それも大きく。シロ様に変化がなかったとて、変わらずにはいられない。


「……ごめん、私が変わるんだ」

「…………」

「仮にシロ様が変わらなくても、私は絶対に変わっちゃうんだ。シロ様が私のために誰かを、って。そう思ったら怖くて仕方なくて。嫌、なんだ」


 シロ様が変わるもしもが怖いわけじゃなかった。私が変わる、絶対が怖かったのだ。そんな呆れるほど利己的で、自分本位な理由だった。情けなくて滲んだ涙を、左手で乱暴に擦る。きっと色にしてみれば溝色だろうそれが、汚く思えて仕方ない。

 また辺りを沈黙が支配する。今度は言葉が胃の奥まで沈んで、そうして出てこない。呆れられたかな、嫌われたかな。今なんとか片方背中に回しているこの腕も、振り払われてしまうかな。一つ静寂が重なる度に、自己嫌悪と恐怖でいっぱいになっていって。あの日一人生き残ったことを思い出して。だけれど割れた硝子とブレーキ音を思い出すよりも先。私の背中を、誰かが強く抱き寄せる。


「……ならば、二人」

「…………え、」

「二人以外は殺さぬという、誓いを立てる」


 決して離さないと、そう告げる腕の力の強さ。それは落とされた言葉の重みに比例しているかのようだった。

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