四百三十五話「春に咲く花」
一方現実の世界。尊が夢でそんな、予期せぬ存在と出会っていることなんて知る由もないまま。沈黙の中に大きな熱を秘めた観客たちに見守られる形で、中心の二人は儀式を進めていった。言葉一つを交わすこともなく。
「…………」
「…………」
月夜に三晩照らされた真水を、花が咲いた後時を止められた竹で出来た器の中へ。その中に人の乙女の涙を一滴、月下美人の花びらもひとひら。そんな儚い存在達と一緒に、法力を吸収できる類の宝石を一晩浸す。濡れた宝石は夜半烏の羽が編まれた布で拭き、更にそれを全の力が込められた特殊な研磨剤で磨く。
それでようやく夢を映すための媒体となった宝石が、今アダマの手の中にある。予期せぬままに手に入った、非常に状態のいい『今は青い』宝石が。尊から譲り受けた宝石を、その尊の傍らに置いて。そうしてアダマは目隠しを外す。露わになったのは普段は封を受けている、黒い宝石のような瞳。その瞳を見てか、観客達の息を呑んだ音が空気に僅かに混じった。
アダマが若い身ながら長老という立ち位置に収まった理由。瞳はその理由の中で最も大きいものであった。辺り一帯の法力のバランス、それらを整えてしまう……自分の都合のいい形に変えてしまう。その瞳の名を『回天の黒星』 彼が一度その瞳で世界を映せば、彼の周りは彼が最も法力を使うのに適した形へと変化する。世界が彼に引き寄せられる。水の法術を使うのであれば雨に、火であれば晴天に。
その瞳はレイブ族にとって大きな意味を持つものであった。同じく瞳に関する力はクドラの瞳やミツダツにおける未来視の祝福が上がるが、それら一代に必ず現れる秘宝とはまた違う。どちらかと言えば赤い羽の、聖浄の天輪に似たような滅多に現れない能力。初代長老もまた彼と同じ瞳を持ち、レイブ族達を率いたと言われている。同じ力を持つアダマが長老という座に就くことは、生まれた時からある程度定められた予定調和のようなものだった。まさしく瞳が彼に正しい世界を整えたように。
その用意された道を不満に思うだとか、子供じみた反骨心を抱いたりだとか、よくある物語の主人公のような感情をアダマが抱くことはなくて。当然だと、これが正しい形なのだと、当時長老の通達を受けたアダマが抱いたのはそんな納得。
世界は自分の思い通りに整えられる。整えられてしまう。ならばその世界を、世界が望むよう正しく扱うこと。それが力を与えられた者の義務だ。優秀な青年が抱いたのは、そんな義務感だけ。だからアダマは力を正しく扱ってきた。失敗など一度も起こしたことはない。自分の瞳が世界を映していれば、これからも起きるはずはない。だって世界は自分の思い通りに動くのだから。
だというのに。
「……ふ、」
「…………ちょっと、真面目にやれよ」
「わかっている。高揚しただけだ」
自分は失敗した。瞳で間違いなく世界を捉えておきながら、失敗した。そうしてそれを一切と責められることはなかった。眠っている少女の顔に、あの日向けられた心底不思議そうな表情を重ねたアダマはふと笑う。それを咎めてきた少年の口元にも同じ弧が描かれていることに、また少しだけおかしくなった。
青年はここ数日で、知らなかった世界をいくつか知った。瞳を利用しても適わぬ力があること、失敗をしたとて自分の価値全てが消えはしないこと、長老としての信頼が万能ではないこと、告白というのは容易ではないこと。そして、自分と同じだけの力と知を持つ存在と話をするのは楽しいこと。全は整った。そのことに、この少年も気づいているだろう。それならばいよいよ本番だ。
「……『こっくん』のお手並みとやら、拝見させていただこうか」
「……きしょ。まぁでも、いいか。最前列で見てろよ」
揶揄するような笑みに返されたのは言葉通りの気分の悪そうな表情。だけれどその呼び名に、誰の思いが込められているのかをすぐに理解したのだろう。少年はアダマの悪い笑みに、不敵な微笑みを返した。それ以上二人に言葉は必要ない。アダマが宝石にまた一度触れる。瞬間赤く輝きだした宝石に、観客たちは儀式の始まりを理解した。
「…………」
全を纏った宝石が、アダマの手を離れて尊の胸元の辺りで浮く。そこから伸びた光の色は白。それがゆっくりと尊の全身を覆っていくのを、コクヨウはただじっと見つめていた。そう、ここまでは前回と同じだ。今は尊がかつて見た夢、それに連なる記憶の全て。それらを全の力とアダマの認識を以て切り分け、必要なものだけを探している。
前回もここまでは問題なく遂行できたのだ。様子がおかしくなったのはその後、尊が神の夢を見始めたことで尊の内部に渦巻く法力が喧嘩し始めたから。如何に回天の黒星といえど神の発する法力までもを調停することはできず、水と油が混じったような爆発が起きた。幸いにして神が守護しているのか、はたまた『糸の力が今となっては彼女にまで及んで』いるからか、尊に影響はなかったが。
「…………よし」
ともかく、コクヨウのやるべきことはそれだ。長老の瞳を以ても整えることが叶わなかった、神の法力を吸収すること。水か、油か。そのどちらかだけを受け止めて、儀式の成功を守ること。編んでもらった、自分の仲間達が応援の気持ちを込めてくれたミサンガ。それを握った少年は、今か今かと神の訪れを待つ。しかしそこで、予定外のことが起きた。
「…………」
「…………?」
記憶の選別は終わり、段階は夢を取り出すところにまで進んだ。しかし、前回はここで最高潮に達していた神の力の干渉が無いのだ。アダマとコクヨウは言葉こそなかったが、探るようにお互いを見遣る。神の干渉は無いのなら無いで構わない。それこそが儀式の妨げになっていたのだから、無ければ都合がいいことに違いはなくて。ただそれを能天気に受け入れられるほど彼らは愚かではなかった。
尊が眠っている時に神からの干渉を受けたのは、合計三回。その内二回をコクヨウは目撃していて、その時に渦巻いた膨大な法力の力を忘れることはないだろう。そして問題なく今記憶を選別出来ているということは、尊は間違いなく神に関する何かしらの記憶を夢に見ている。だというのに、神の法力が感じられないのは不自然な気がした。まさか何か夢の中で異常が起きているのでは。そう不安に思ったコクヨウは、しかしそこで首を振る。
よろしくと、尊に頼まれた。身勝手な自分を、それでも信じて案じて一緒に居てくれた自分にとっての春に。そしてそこに咲いてしまった花に……自分の仲間達にだって、長老よりも自分の方を信じていると言われてしまった。ならば今コクヨウが出来るのは不測の事態に動揺することではない。いつ何が起こってもいいように、待ち続けること。
少年はただ静かに待った。自分の春に落とされる雷を、春雷を。ミサンガを強張る形で握っていた不器用な指たちは、今ではそのよすがを辿るように柔らかく糸をなぞる。予想していたことが起きなかったからかざわめく観客達の声も耳には入らない。研ぎ澄まされた集中力で、自分にとっての春である尊だけを見つめる。そして、それは起こった。
「…………っ、!」
「…………」
突如として広がった、膨大な法力の気配。もうじき宝玉に込めた夢を引き上げ終える、そのタイミングで起こったそれにアダマの指が止まった。観客の声が止まった。そんな止まった世界で、ただ一人待っていた少年は静かに法術を起動させる。ミサンガを頼りに、何度だって見つめてきた彼女と同じ力を。
……瞬間、その力がまるで引き金になったかのように。コクヨウの首の黒紋。その蛇の尾の部分、そして亀の甲羅を模したような中心に花が咲く。そのように自分の首を覆う黒紋が変化したことに、少年は気づかない。ただ目の前の力に向き合う事だけに真剣になる。神の法力を自分のものに変換して、自分のものにする。それは想像よりも強い衝撃を以てコクヨウを襲った。だけどそんな衝撃がなんだというのだろう。想像以上は、予想外は、知にとって甘露に過ぎない。
「…………ふ、」
神の法力に大勢のレイブ族が高揚する中、一部のレイブ族が畏れおののく中、少年は一人だけ心底楽しそうに口角を上げる。いいや、一人だけではなかったか。それを見ていたアダマもまた、口元の笑みを深めると夢の引き上げを再開した。この少年に、この男に任せれば何も問題ないのだと、そんな信頼を以て。
……そう、儀式に夢中な二人は気づかない。自分達の儀式を邪魔せんと、何人かのレイブ族が目立たない法術を打とうとしていることなど。その準備は今整い、小さな少年を陥れようと醜悪な笑みを浮かべていることなど。
……いや、或いは気づく必要がなかったと言うべきか。
「ぐっ……!?」
「……寝ていろ。死にたくなければな」
暗躍していたその内の一人が、声もなく倒れた。それに気づくレイブ族は一人だっていない。何故なら、誰もが二人の天才が織り成す儀式に、神をも退ける力に、まだ見ぬ法術に夢中になっていたからだ。高揚の中の闇はその対処を任された者によって、また一つ立ち消えていく。二色が混合した瞳が、暗闇の中で光った。




