四百三十一話「高揚の裏に」
その日の黎明の社は、いつになく浮ついた空気だった。半年前から徐々に各地から招集されていたレイブにおける七賢者。彼らが全員集まった時を凌ぐ高揚感に、深い森の中密集している一葉一葉が波のさざめきのように揺れる。それもそのはず。今回彼らが触れることになる知は、長いレイブ族の歴史においても未知数。かつ、待ち望まれていたものであったのだから。
数日前、長老アダマ直々に黎明の杜で暮らすレイブ族達に出されたお触れ。その内容はこうだ。「異世界からの稀人であり神の巫女たる少女を媒介に、この世界の神との接触を図る」 当然レイブ族達は驚いた。我らが長老が少し前から教皇を始めとした外からの客人を招いていることは知っていたが、まさかそれが異世界からの稀人で。そして長老の目的が神の存在に迫ることとは、まさしく青天の霹靂そのものだったからだ。
神の存在。それはレイブ族において長年疑問視されてきたものである。神聖時代に残された数々の秘具。そして数多の美味な調味料。それらの多くはレイブ族の技術を以て再現することに成功したが、どれもが只人が戯れに作ったものとは思えない程の出来であった。レイブ族とはいえ、一朝一夕で作り上げられるものではない。
今の時代よりも栄え富んでいた前時代のことを知る度、多くのレイブ族はこう考えた。すなわち滅んだ前時代には自分達よりも優秀な種族が居て、それこそが神と呼ばれるものだったのでは。故に前時代のことを彼らは神聖時代と名付け、その名前は結果的に世界的に普及されることとなった。
しかし多くの者が長い研究や探索を繰り返した現代となっても、神聖時代の記録は一切と出てこないまま。記録媒体が自分達とは違うのか、はたまたそもそも記録するという文化そのものがなかったのか。時折発掘される秘具以外、神聖時代の情報は一切と存在しなかった。或いは意図的にに消されているのではと勘ぐってしまうほど。
しかし、神との接触を図ることが出来るのであれば? その全てが謎のベールで覆われているかの時代のことを知る、絶大なチャンスなのではないか。触れられるかもしれない叡智を前に、多くのレイブ族は自分がこの時代に生まれたことを感謝した。そして儀式の見学の許しが出たことに諸手を挙げて喜び、長老の慈悲に咽び泣いた。少しでもその慈悲と知に自分達も応えようと、真摯な誓いを抱いて。
……故に、彼らが気にすることはない。長老の助手として、一切名前の知らないレイブ族の少年が付いていることなど。その知に敬意を払うことはあっても、その叡智に辿り着いたことに感服はしても、一切の妬み恨みが少年に向けられることはない。何故ならばレイブ族は完全実力主義。今自分がそこに辿り着けないなら、その事実を受け入れて邁進するまで。くだらぬ感情の揺れに囚われていれば、自分の知を見失うことになるのだから。そう、多くのレイブ族は現状を冷静に受け止めていた。
一握りの、彼らを除いては。
「それは、本当なのですか。後日行われる長老様の儀式に、あの子供が参加するなど……!」
「……はい、母上。間違いありません」
夜半、森が眠る頃。黎明の杜全体に知れ渡ったお触れに、高揚ではなく邪心を抱く者は少人数ながらも居た。それは現代の賢者達。中でも一層と動揺していたのは、かつてコクヨウを第三子として扱っていたユェアン家。
助手がかの子供と同年代くらいだと聞いた時から、微かにざわめいていた心。しかしそれがついに確信を得たことで、ユェアン家の今代の女主人……セキウやケイ、そしてルウの母親である彼女、ガラは動揺を露わにした。その驚きようと言ったら、目の前で露骨に冷めた目を向けてくるセキウに気づかない程。ぎりと唇を噛み締めれば、その形相は鬼のように歪む。鏡を覗き込めば一目でそれが嫉妬で狂った女のものだと気づいただろう。しかしそのことに、彼女はここ十三年の間気づけないままだ。
「なんてこと、なんてこと……! やっとあの女の子供が出て行ってせいせいしていたというのに、まさか今になってこんなことになるなんて……!」
「…………」
「どこかで野垂れ死んでいればよかったものの……! 忌々しい……!」
セキウがもたらした知らせに怒り狂うガラ。そんな母の醜態とも呼べる姿に、セキウは内心で溜息を吐く。こうなるから知らせたくはなかった、が知らせなければ知らせないで面倒となるわけで。
「……失礼、取り乱しました。セキウ、わかっていますね?」
「はい、母上。後日行われる儀式は、必ず妨害いたします」
「ええ。それと、あの子供の存在が旦那様に気づかれることもないようになさい。どんな手を使ったかはわからないけれど、長老様から認められたのは事実。そのことを知れば、旦那様はまたアレに興味を持ってしまう……!」
「わかりました」
こんなことならあの日、あの得体の知れない子供に殴られた挙句埋められて帰りが遅くなった日にでも全てを話しておくべきだったのだろうか。ヒステリックに怒鳴られた先日の事を思い返しつつも、セキウは母の言葉に淡々と頷いた。何故かって、逆らう理由がなかったからだ。
無理に逆らったとて、百倍にして怒鳴り声が帰ってくるだけ。それで父にまで気づかれては、また面倒なことになる。それにセキウとしてもコクヨウの妨害は行う予定だった。長老の助手という大事な舞台。そこで失敗すれば、今コクヨウの身の回りに居るもの達はきっとコクヨウを見限ることだろう。そこでセキウが手を差し伸べれば、きっとコクヨウは自分の元へ帰ってくるはず。そうしたら寛容な心で許して、また『兄弟』の日々を続ければいい。
「……妨害は、他の賢者達もやるって言ってたなぁ。となると、父上にコクの存在が気づかれないようにするのが最優先か」
半ば追い出される形でガラの部屋を退出したセキウは、ぽつりと呟く。その理想のための障害は両親だが……コクヨウを匿う部屋の用意などなんとでもなる。となると、父に気づかれないようにするという母の目論見は自分の目的にも合致していた。
妨害は他の賢者達も行う予定だと、噂に聞いている。それならば自分が優先すべきは父親にコクヨウの存在がバレないようにすることだろう。あの見栄っ張りはたとえコクヨウが儀式に失敗したとて、一度は長老の身に迫ったと愛人の子を重用するようになるはず。そうなれば母の堪忍袋の緒は切れ、自分の願いも叶わなくなる。それだけは避けなければならなかった。
「……兄上!」
「……セキウ」
「どうしたんだ、こんな時間に歩いていては体に障る。ただでさえ最近は……」
自分の、「兄のケイを誰からも認められるユェアン家の賢者とする」という夢のためには。そこで見えた頼りない姿に、はっとしてセキウはそちらへと駆け寄った。夜闇に紛れる形で廊下に立っていたのは、今正しく姿を思い浮かべていた自分にとって唯一の兄、ケイ。彼は一度こちらを見遣ると、気まずげに視線を逸らす。その青白い顔色に、セキウは胸が引き絞られるような心地になった。
「……コクが、長老様の補佐として儀式に参加すると」
「……!」
「ああ、やはりそうなのか。そう、なのか……」
やはり、聞いてしまっていたのか。頼りない粉雪の一粒のように落ちていく言葉。そんな兄の声にセキウは眉を下げた。昔は横柄なところがありながらも頼り甲斐があり、無能な自分に興味を示さない両親に代わり面倒を見てくれていた最愛の兄。彼が徐々にやつれていく様は、セキウにとっては何より耐え難いものであった。
十三年前、コクヨウが生まれた頃。まだ彼の矜恃はそこにあった。自分よりも優秀ながら愛されない弟を排他することで、その瀬戸際をなんとか保っていたのだ。しかし優秀かつ両親にも愛されるルウが生まれたことで、その均衡は一気に崩れてしまった。優秀なレイブ族が集まる黎明の杜に来てからは、その傾向もより顕著となってきている。
「……兄上、兄上は何も気にしなくていい。兄上が無能なんて言ってる奴らは見る目がないだけだ。俺はちゃんとわかっている。兄上はユェアン家の血を引き継ぐに誰よりも相応しいって」
「……本当か?」
「ああ、本当だ。俺は兄上を、誰より信じてる」
コクヨウの功績が代わりに捧げられていた頃はまだ、顔色も悪くなかったのに。セキウは一人ごちる。一度めざましい活躍を遂げた者に向ける目は自然と厳しくなる。よってコクヨウが去ってから、何の成果も上げられなくなったケイに対する他者の視線は鋭くなっていた。それが恐らくは彼の体調を悪化させている……が、それでもセキウは信じていた。この慈悲深い兄こそが、次期ユェアン家の家長、そうして賢者の座に相応しいのだと。だから何も案じることはないと、そういつものように勇気づけようとして。
「……コクよりも?」
「……え、」
「お前は本当に、コクより俺の方が優秀だと、そう思ってるのか?」
けれど普段、その言葉に嬉しそうに笑ってくれる兄の姿はそこにはなかった。猜疑心と困惑。それらが混じりあった視線を向けられたことで、セキウの思考は硬直する。そんなの、心からそう思っているに決まっている。だと言うのに言葉は喉奥に詰まって出てこないまま。
ケイは優秀だ。そのはずだ。能力しか見ていない両親なんかとは違い、自分を唯一見てくれた。自分を唯一愛してくれた。だからセキウはケイのためならなんだって出来た。弟を飼い殺しにすることも、その母を間接的に殺めることも、なんの躊躇いもなかった。元より自分を研鑽するより、他者の足を引っ張ることの方が自分は得意なのだ。だからこれからも「楽な」そちらへと尽力して、後のことは兄に任せればいい。今も昔も変わらず心からそう思っている。だというのにその視線は、どういうことなのだ。混乱したセキウが兄上と、そう口を開きかけたところで。
「一の兄様、二の兄様。こんな時間に何をしているの?」
「っ、ルウ……!」
「お話しするなら明日にしてくださいまし。お母様がまた怒ってしまうわ」
響いた涼やかで愛らしい声に、彼は背中に氷を落とされたような心地になった。振り返ればそこに立っていたのは、長い黒髪を二つに結いた小さな少女。末妹であるルウが、自分達を冷ややかに見つめている。とびきり優秀で、両親からも愛されている。そんな兄弟のコンプレックスを形にしたような、そんな存在が。
「……そうだな。お前も早く寝なさい」
「あ、待ってくれ兄上! 部屋まで送っていく……!」
「…………」
その存在に奥歯を噛み締めたセキウとは違い、ケイは静かに頷いた。そして彼女の横をすり抜ける形で足早に去っていく。それを慌てて追いかけたセキウの視線は一度憎々しげにルウに向けられ、そして直ぐに愛しの兄の方へと戻された。ルウはそれに何の反応を返すでもない。ただ連れ立って、いつまでも離れられずにお互いに依存する二人の兄の姿を見つめるだけ。
幼い頃から一切と変わらぬ二人の姿を冷めた目で見送った少女。けれどふと月を見上げた少女のその黒い瞳が、歳相応に緩む。久しぶりに聞いた名前。それに高揚する感情を、嬉しいと思う気持ちを懸命に抑え込んで。そうして潤んだ瞳で彼女は月に語り掛けるように呟いた。先程まで被っていた殻、その全てを脱ぎ去って。
「……やっと、来てくれたんだね。お兄ちゃん」
親しみと期待だけを、その声に込めて。




