四話「喪失と譲渡」
「……?」
ぱちり、目を開ける。覚束無い意識は徐々に覚醒して、ぼやけていた視界もそれに伴うように明瞭になっていく。視界一面に映るのは木で出来た天井。見慣れないそれに違和感から僅かに身動ぎした瞬間、埃臭さが鼻をついた。
ここはどこだろう、私は何をしていたのだろう。寝起き特有の霧がかったような思考の中、私はそんなことを考えた。年季の入った隙間だらけの木の天井を、ぼんやりと眺めながらも。
お使いをしていて、マンホールから落ちて、落ちた先は正体の知れぬ森の中で。そこで家に帰るため人を探そうという考えに至って、それで、それで……。
「っ!」
そこまで考えて、私は全てを思い出した。衝動に突き動かれさるまま、私は寝転んでいた古びたベッドから起き上がる。そうだ、私は見知らぬ子供が怪我をしながら倒れている姿を見たのだ。それでその子を助けようとして、けれど治療は無駄だと断られてしまった。
そして、そこからの記憶が無い。気づけばいつの間にか私は、この古い小屋の中に居る。自分にかけられていた毛布を握りしめながら、私は違和感の残る視界で必死に彼の姿を探した。しかし狭い部屋なんていうものは、あっという間に見きれてしまうもので。目を細めて懸命に探せども、この小屋の中にはあの目を引く白銀の姿なんて欠片もなかった。
「…………」
どうしよう、どうすれば、そんな思考がぐるぐると頭を巡る。あれからどれくらい時間が経っているのか、私はいつ何故意識を失ってしまったのか。そこだけがどうしても抜き取られたかのように思い出せなくて。けれど薄暗い視界を鑑みるに、今は太陽が射すような時刻ではないのだろう。煤だらけの窓でも、真っ暗で不気味な外の状況を伺うことくらいは出来た。
あんな幼い子が夜になった森でまだ一人、あそこに倒れているというのなら。
「……行かなきゃ」
放っておくなんて出来ないと、私はベッドから立ち上がった。あんな傷だらけで長時間放置してしまっては、最悪の可能性だって頭を掠めるけれど。深い森であったことだし、野生動物か何かにその体を蝕まれているかもしれないけれど。それでも忘れ去るなんてことが出来ないからこそ、せめて自分の目で確かめたかった。
今森に向かうことが危険だなんて、百も承知だ。僅かな知識と言えど、夜の森が危険だということくらいはわかっている。私みたいな素人では、手がかりもなしにあの場所を見つけることが出来ないかもしれない。仮に見つけられたとしても、一応の安全を保ってくれるこの小屋には帰れないかもしれない。ただそれでも、例え一縷の望みにしか過ぎないとはわかっていても。あの子が生きているかもしれない、その可能性を捨てきれないのだ。
「……っ!?」
そうして外に出るドアの方へと向かおうとした私は、しかし一歩を踏み出した瞬間に崩れ落ちる。いや正確には転んだ、という方が近かったのかもしれない。平衡感覚が上手く掴めずに、足が空を切ったのだ。踏み込んだはずの地面が想定よりも遠くにあって、たたらを踏んでしまったように。
「……なんか、変」
転んだ際に擦ってしまった膝は僅かに白くなっている。大した傷ではないと確認しつつも、私は床に座り込んで呟いた。起き抜けから違和感を覚えてはいたが、先程からどこか視界が妙な気がするのだ。いつもよりも狭まっているような、正しく物を映せていないような。確かに私の運動神経は平均よりも低い。だがこんな躓くような物が何もない場所で転ぶほど、ドジではないはずだ。
あの少年の身を案じすぎるがあまり、気が動転しているのだろうか。だから視界すらもおかしく映って見えるのだろうか。それともただ起きたばかりでぼんやりとしているだけなのだろうか。どれだけ眉を寄せて考えたところで、答えは出なかった。俯いてスカートの折り目をぼうっと見つめる。その視界すらも、今の私には違和感で。
「っ、!」
しかしそうして心ここに在らずと考えていた私は、ドアが開いた音に思わず視線を上げた。こんな人がいなそうな森の中、入ってくる存在なんて野生の動物の可能性が高い。草食ならばよいが、肉食の猛獣であったのなら武器も何もない私に為す術はないのだ。だが視界を上げた瞬間、そこに立っていた存在に私は目を見開く。
「……何をしている」
まず目に飛び込んできたのは夜でも尚眩い白銀の髪。その天辺ではぴょこんと動物の耳が揺れている。私が持っていたリュックとエコバッグを抱えた少年は、ドアの傍から座り込む私を怪訝に見下ろした。探しに行こうとした存在がそこに立っていた私は、ただ声もなく呆然とする。死んでしまっているかもしれないという存在が自ら現れた、その驚きで。
その珍しい髪色と見たこともない獣耳は、確かに血塗れで倒れていたあの子で間違いなくて。だがそれはおかしい。だってあの時の彼は血塗れで倒れて、今にも死んでもおかしくないような様相だったのだ。その証拠に彼の服は血で汚れている。それなのに何故そんなにも元気に歩いているのか。私にだってわかる。あの時の彼は致命傷を負っていた、そのはずなのに。
「っわ、……!」
「まだ動くな。体に障る」
私が声もなく呆然と自分を見つめているのに数秒経って気づいたのだろう。小首を傾げながらも荷物を床に置いた少年は、私へと近づいてきた。そうして座り込んでいる私の脇に手を差し込むと、まるで猫を抱えるかの如く私を抱き上げる。
自分よりも背の低い少年に軽々と抱き上げられたことに思わず驚きの声が零れるも、彼はそれを抵抗と受け取ったらしい。緩く首を振った少年はそのまま私をベッドの上に置いた。まさしく荷物を扱うかのような淡々とした手捌きに、私は呆然と彼を見上げる。そして、そこで私は一つのことに気づいた。それは彼の空洞だったはずの左の眼孔に、黒い瞳が収まっていたことだ。
思わず一心に私はその瞳を見つめる。髪も瞳も肌も真っ白な彼の姿には、その黒はどうにも違和感で。まるで後から無理矢理嵌められたような、そんな不自然さがどうしても拭えない。いやきっと、その表現は間違いではないのだろう。だってその瞳は、彼の物ではない。
「……貰い受けた」
「……う、ん」
私の視線に気づいたのだろう。少年はバツが悪そうに眉を寄せて、そう小さく呟いた。それに未だ現実が飲み込めないまま、しかし私は頷いてみせる。彼の眼孔に嵌った瞳を見て、私は漸く抜き取られたような記憶のその全てを思い出したのだ。左目の辺りに触れる。そこに眼球があるような感触はない。
視界の違和感は、片目であったから。私が意識を失ったのは、彼に左目をあげたから。そうして意識を失った私を、この少年がこの小屋まで運んできてくれたのだろう。腹部にだって傷があったはずなのに、何故片目を上げたことで元気になったのか。そもそもどうやって片目が彼へと移ったのか。そのことまではわからないけれど、私は彼を助けることが出来たのだ。そう思うと、胸の中を安堵が埋めていって。
「……無事で、良かった」
「……!」
どうして名前も知らないこの子が無事であったことを喜ぶのか、それは私にもわからない。ただそれでも彼が無事であったこと、助けることが出来たことが嬉しくて。思わず微笑んだ私に、彼は左右非対称のその瞳を瞠った。そうして少年は気まずそうに視線をそらす。しかしその頭の上の猫に似た耳は、まるで安堵したかのように僅かに外側に開いていた。