三百六十四話「本物の家族」
「あの人は、一番たくさんたたく人」
暗い、昏い声で最初にそう告げたヒナちゃんは、一本一本を指を重ねながら自分の『家族』のことを話し始めた。今日会った彼はヒナちゃんの『従兄弟の兄様』なのだと言う。当時はシロ様くらいの年齢の子供だったという彼は、時折ヒナちゃんの居る部屋を訪れては苛立ちを解消するように何度も何度も叩いてきたらしい。
そして他に居る『家族』は金切り声で怒鳴ってはヒナちゃんの首を絞める『お祖母様』。ヒナちゃんを徹底的に無視して存在すら認めてくれなかった『お祖父様』。ヒナちゃんをゴミを見るような目で見てはやはり時折殴り飛ばした『叔父様』と、ヒナちゃんの両親のことを口々に貶してはほくそ笑んだ『叔母様』。そしてそれら全ての虐待を無視した使用人の人たち。それがヒナちゃんの家族……というよりは家の人、だったらしい。
「それがわたしの、家族だった人たち」
「…………」
ぽつぽつと、途切れ途切れに一人一人のことを語ったヒナちゃん。その言葉は時折詰まったように零れて、恐怖に震えるように慄いて。だから上のそれぞれの家族の所業に関しては私の推測も含まれているのだけれど、きっとヒナちゃんが受けた所業からはそう遠く離れてはいないのだろう。
ヒナちゃんが奴隷として捕まったのは恐らく五歳ほどの頃。つまりそれ以下だった頃の年齢のヒナちゃんに、ヒナちゃんと血の繋がりがあるだけの外道たちはそれだけの非道を強いたのだ。想像するだけで気持ち悪くなって、吐きそうになって、けれどその衝動を懸命に堪えた。ヒナちゃんが堪えて苦しんできたものを、話を聞いただけの私が拒絶してはいけないと思ったから。
「……わたしは、お母さんをころしたんだって。できそこないなのに、下らない男の血を引く娘なのに、みんなからキタイされてたお母さんをころしてまで生まれたんだって」
「……殺した、って」
「わかんない。わかんないけど、わたしを産んだときにお母さんはしんじゃったって。だからみんな、わたしがだいきらいでにくいって」
そしてヒナちゃんは話を続ける。どうして自分がそんな仕打ちを受けたのかを。殺した、くだらない男の血を引く娘、わかんない。零れた言葉を拾い集めて繋げれば、自然と答えは出てきた。きっとヒナちゃんのお母さんは家族に祝福されない結婚をして、その上でヒナちゃんを産む時に亡くなったのだ。お父さんがどうなったかはわからないが、それでヒナちゃんだけが敵だらけの世界に残された。
「ははごろしって言われるのも、いたいのも、ぜんぶイヤだった。だからわたしはあの日、お家にだれもいなかった日、にげだして」
「……捕まった、のか」
「…………うん」
だからって、そうやって大切な家族を喪ったからって、その悲しみがヒナちゃんを傷つけていい理由なんてものになるわけがないのに。それでも小さな女の子に八つ当たりをし続けた大人たちは見限られ、ヒナちゃんは逃げ出して……けれどその先に待っていたのは、五年も続く地獄だった。
シロ様の問いかけに頷いたヒナちゃんの表情は、また深い夜に染まっていく。落ちていく。あの日、初めて出会った時の人形のような彼女へと巻き戻るように。こっくんが唇を噛み締めても、アオちゃんが堪えきれなかった涙を零しても、フルフに心配そうに体を擦り寄せられても、柘榴くんが悲しげな鳴き声を上げても、レゴさんが拳を握りしめても。……私が手を握っても、ヒナちゃんは反応の一つだって返してはくれなくて。
「そこから長い、長い時間がたって。あの人たちのことも、わたしはわすれかけてて。だけど今日会って、顔を見て、思いだしたの」
「……ヒナちゃん」
「……あのね、お姉ちゃん」
ゆっくりと顔を上げたヒナちゃんの、その赤い瞳はいつものような色合いではなかった。まるでこれから夜に向かう夕闇の色。夜が明けた朝焼けの赤ではない、希望が輝く明星ではない。ただ空虚な光だけを浮かべて、少女は口元に歪な弧を描いてみせた。
「わたしの家族はお姉ちゃんたちじゃなくて、あの人たちなんだね」
現実を知ってしまったように、諦めを語るように。冷たい声音は、到底ヒナちゃんのもののようには聞こえなかった。
「……ううん、それは違うよ」
「……え?」
だから、私は否定することにした。もう一度強くヒナちゃんの手を握りしめて、ゆっくりと首を振ってみせる。それに瞬かれた瞳は濡れてはいなかったけれど、きっと今ヒナちゃんの心は古傷をめちゃくちゃにされて悲鳴を上げている。泣いている。それならその傷が、少しでも癒えるように。ヒナちゃんみたいには出来なくても、私は私の言葉の星を降らせたかった。
「もしヒナちゃんがそう思いたいって言うなら、そう思うのを私に止める権利はないけど。でもヒナちゃんが嫌だと思うなら、そんな人たちのことを家族なんて呼ばなくていい」
「おねえちゃ、」
「ヒナちゃんがそう呼びたいと願うのなら、私達のことを家族だって私は呼んで欲しいよ」
「…………」
一つ、一つ。流れ星をその心へと降らせるように。瞬きの中に希望の火を灯すように。私がただ思ったことを、今彼女に知って欲しいことを、一つずつ落としていく。手の中のヒナちゃんの指先は冷たかった。震えていた。それに温度を与えたいと思う自分のことを、ヒナちゃんの家族だと自称して何が悪いと言うのだろう。
血の繋がりがある人を家族と呼ぶ。それは確かに一般的な認識で、数多の人にとっての当たり前で。でもそうじゃなくたっていいだろう。血なんて言うただ体の中を流れてるだけの、ちょっと情報が詰まっている液体だけで、全てを判別しなくたっていいだろう。心で自分が何をしたいかを、誰をどう呼びたいかを選んだっていいだろう。
「ヒナちゃんが私をお姉ちゃんだと呼んでくれる限り、私は絶対この手を離したりしないから」
「……!」
自分の全てを諦めなくたって、いいだろう。手を握った、言葉を落とした。ただそれだけのことにだって、意味の一つくらいにはなり得るのだから。私の告げた言葉にヒナちゃんは大きく、大きく瞳を見開いて。そうしてその奥に、いつかの星の光を灯らせた。あの日自分の意思で翼を勝ち取った、ただ一人の太陽みたいに。
「そうだよ……! そんなクズゴミ最低バカ共のこと、家族なんて言っちゃダメ!」
「あ、アオちゃん……」
「あ、アオお姉ちゃん……?」
と、そんな瞬間にアオちゃんが横からログインしてきたのだが。先程までヒナちゃんを完全に守っていた、或いは封じ込めていた心の壁。それが今少しだけ弱まったのは私だけではなく、この場にいる全員に伝わったのだろう。その隙に畳み掛けてやろうと言わんばかり、アオちゃんはヒナちゃんを思い切り抱きしめる。
大分お口が悪いが、これは果たして元からのものなのか、私たちと旅をするうちに嫌な方向に進化してしまったが故のものなのか。後者だった場合族長様、ならびにアイさんジョウさんと顔を合わせづらくなるため前者であってほしい。一瞬そんなことを考えるも、アオちゃんはそれ以上の思考の隙を私には与えてくれなかった。
「ヒナちゃんの家族はあたしっていうママと、ミコ姉ってパパが居るもん!」
「え、え……??」
「あとこっくんとシロくんっていう二人のお兄ちゃんと、フルフとザクロくんのペット二匹!」
「ピュイ」
「わふ」
いやあの、あの……。パパにママ、とは。その言い方は身内はともかく、レゴさんに主に誤解を招くのでやめてほしいのだが。待って欲しい、待って欲しいレゴさん。「え、そういう関係……?」みたいな目で見ないで欲しい。断じてそんな事実は無いのだ。
あとフルフと柘榴くんはなんでそんなにアオちゃんに従順なのか。はいはい、と言わんばかりにアオちゃんの言葉に鳴き声を上げ、ヒナちゃんにすり寄った二匹を私は眉を下げて見つめる。一応従魔だろうに、扱いがペットでいいのだろうか。いやまぁペットというのは、大概ヒエラルキーが最上位に君臨しがちな続柄ではあるが。
「絶対絶対あたし達がヒナちゃんに酷いことをしたゴミ共なんかに、ヒナちゃんを渡したりしないから!」
「…………アオ、お姉ちゃん」
「だから、だから、絶対大丈夫だから……!」
と、色々ツッコミは浮き出たものの。でもどうしてもそれを口に出せなかったのは、奥の方で色々と何か言いたげに言葉をこらえていたこっくんとて同じ気持ちだったのだろう。そこで堰を切ったように泣き出してヒナちゃんを抱きしめたアオちゃんを前に、ヒナちゃんは呆然と名前だけを呟いた。そうして。
アオちゃんの腕の中から聞こえてくる、しゃくり上げるような声。頑張って押し殺して、けれど時折押し殺しきれずに漏れ出て来る声には絶望なんかでは無い、深い安堵が込められていて。暫く私とお兄さん二人とレゴさんは、女の子たちが泣き続けるのを黙って見守ったのだった。




