三百五十五話「定められた瞳」
そうして部屋を出たはいいものの、私とは最早比べるのもおこがましいレベルで足の速いシロ様の姿はもうそこにはなくて。さてはて、どこへ行ったのか。少なくとも第三デッキをうろついていることはないだろうと考えつつ、私はすぐそばにあった階段を上っていく。
心当たりとしてはシロ様とこっくんの船室、第一デッキの廊下、あとは甲板くらいだろうか。今一人になりたい気分のシロ様は、きっとヒナちゃんとアオちゃん、フルフと柘榴くんがいる部屋には戻っていないはず。……というか今更だが、一人になりたい気分とわかっていながら追うのはどうなのだろう。私が一人にしたくないという衝動で出てきてしまったが、シロ様的にはお節介なのかもしれない。
「……まぁ、いっか」
今からでもイファさんのところに戻った方が。階段の半ばで止まった足は、けれどすぐに動き始める。たとえ本当に心から一人になりたい気分だったとしても、きっとシロ様はその隣に私の居場所を残してくれている。望んでいなかったとしても、傍にいることは許してくれるはずだから。なんて、ちょっと傲慢かもしれないけれど。いつの間にかシロ様の隣に居座ることだけには慣れてしまったこと。それに苦笑を浮かべながらも、私は思うがままに足を動かした。階段を上って、上って、そして空の下。今そこにシロ様が居る気がして。
その予感は、外れなかった。
「シロ様」
「……ミコ」
「お隣失礼するね」
何度かここでこうやって、二人で話したからだろうか。タコを倒した時、もうクドラ族が血を継いではいけないことを聞かされた時。それらのことを話した時の場所に、シロ様は立っていた。誰も居ない甲板を照らす快晴の下、白銀の髪がこちらを振り返って揺れる。太陽の光を吸い込んだその髪は、本物のプラチナのように輝いていた。
「……いいのか」
「シロ様のことは、こっくんが話してくれるって」
「…………」
想像通り、私が隣に立つことをシロ様は拒まなかった。ただ少し戸惑ったようにこちらを見つめる。いいのか。短い四文字に込められた意味はきっと、「今ここに来ていいのか」というものだったのだろう。そこのところは一家に一人は居てほしい、優しく思慮深いこっくんに任せてきたので問題なしである。笑いかければ、一度の瞬きの後に視線が逸らされた。二色は海の先、遠くを見つめる。
……今シロ様は、何を思っているのだろう。整った横顔をぼんやりと見下ろしながら、私はそんなことを考えていた。こんなにぼんやりとしているシロ様を見るのは久しぶり、というか。なんだかんだとシロ様も、ここまでの旅が激動過ぎてちゃんと考えられてはいなかったのではないだろうか。ビャクの真意を確かめること、あの日の惨劇の裏を詳らかにすること。ずっと不明瞭だったそのヒントが突然今目の前に迫ってきて、だからそれをちゃんと受け止めることが出来ないでいるというか。
「……だからさ、二人でこれまでの話を整理しない?」
「……わかった」
それならば私が、今めちゃくちゃに引っ掻き回されて酷いことになっているシロ様の視界や心を、少しでも晴らすことはできないだろうか、なんて。問いかけてみれば、一度少しだけ目を見開いたシロ様はそれでも頷いてくれた。それはきっと、私を信じてくれているからこそ。ならばその期待には、出来る限り応えなければいけない。
「……ええと、まず枯渇死を引き起こしているのはムツドリ族の赤い羽を持つ人。ウィラ付近の奴隷騒ぎやら、エーナの街で起こっていた異変の黒幕である可能性も高い」
「……ああ」
「で、災厄級を操り各地で暴れさせているのはレイブ族の人である可能性が高く、その場合霧雪大蛇の件でミツダツ族の人の協力があったのではと予測されている、んだよね?」
「そうだ」
さて、そうと決まれば現状を整理しよう。今新たに浮かび上がってきた問題。それはビャクがあそこにセミを配置した張本人であった場合、枯渇死だけではなく災厄級の騒動を引き起こしている組織の関係者でもある可能性が高くなるというものだ。その場合、両者の組織はイコールである可能性も高まると。
正直、証拠は出揃っていない。現状枯渇死と災厄級の関係は限りなく薄く、二つの組織がイコールで結ばれているのでは? というのも、殆ど私の憶測にしか過ぎないのだ。今の段階ではあくまで可能性の一つでしかない、ということである。けれどそう考えると納得のいくこともあるわけで。現状各地で引き起こされている事件には、それぞれ幻獣人が関わっている可能性が高いとされていた。それならばクドラ族も巻き込まれているのでは、なんて。何なら全て幻獣人を集めて世界を混沌に陥れようとしている組織があるのでは、なんて。少し本の読みすぎなような気がしなくもないけれど、でも。
「……そしてクドラ族は、同じ一族の者の裏切りによって壊滅させられた」
「…………」
「その目的は、なんだったんだろう」
クドラ族の里が裏切りによって壊滅状態になったことが、一連の事件の一部であった可能性。それを捨て置くことは、今の状況では出来ないような気がした。シロ様はかつて、ビャクのことを信頼出来る叔父だと話していた。だからこそビャクがあの大惨事を引き起こしたことを、『変心』と評したのだろう。
でもそれが変心ではなくて、何か目的や狙いがあってのことだとしたら? ビャクの、ではない。枯渇死や災厄級を世に放っている組織の、本当の狙い。そこにはクドラ族の里を壊滅に追いやらなければいけない理由があったのかもしれない。その理由はなんなのだろう。そして、ビャクがクドラ族を裏切り事件に加担した理由は一体。
「……一つだけ確かなことがある」
「?」
「叔父上は……あの男は、クドラの瞳を狙っていた。父上を名を使い死に至らしめ、次は継承者たる我を殺そうとした。そこに何かが隠されている、と思う」
「名を……」
何も思いつかず言葉に詰まった私を見てか、シロ様はそこで口を開いた。クドラの瞳はともかくとして、「名を使い死に至らしめ」? その言葉に私は昔のことを思い出した。そうだ、シロ様は出会ったばかりの頃にこう言っていた。「ビャクのように、お前も我を殺せる」と。もしかして、あの時の言葉の意味は。
「……前シロ様が言ってたよね。私もビャクと同じことが、シロ様に出来るって」
「ああ」
「それって、そういうことなの?」
あの時は分からなかった言葉の意味が、今なら理解出来る。以前アイさんは教えてくれた。名前とは魂を握るに等しい行いで、私は今四人の魂を握っているようなものだと。私は魂を握っているという状態そのものが怖くて、それで何が出来るかまでを尋ねることもしなかった。けれど、きっと。今シロ様が視線を逸らしたのは、つまるところそういうことなのだろう。
「……クドラの当主には一つの決まりが課される。最強の名を欲しいままにし、実質不老不死の力とも等しいクドラの瞳を継承するがこその掟だ」
「……うん」
「最も信頼すべきものに名と魂を受け渡し、己が力に溺れるようなことがあれば殺させる。我がお前を選んだように、父は叔父上を選んだ」
「…………」
……だから、シロ様は私に名前を教えたのか。自分が力に溺れることがあれば、私に殺してもらうつもりで。誰にも聞かれないためだろう。潜められた声で紡がれた言葉が、それでも耳を強く打つ。当時よくわからないままに受けいれていた名前の意味が、今更重すぎるものだということに気づいてしまった。
心臓にずしんと、重りが吊るされたような感覚。はくはくと唇を無意味に動かす私を、シロ様は少しだけ困ったように見つめていた。きっとこんなところで話すつもりでは無かったのだろう。シロ様は今、力に溺れてたりするような暇なんてないから。きっとその兆候が出た時に私に教えるつもりで、でも私がこうして踏み込んだから。だから、もう隠しておくことは出来ないと話してくれたのだ。ならば、ただ震えることなどできやしない。一度深呼吸を。続きを促すように見つめれば、複雑そうな表情を浮かべたままシロ様は口を開く。
「……それをあの男は、利用した。父上は武人として戦うことすらできず、魂が崩壊させられて死んだ」
「崩壊……?」
「ああ。生まれ変わることすら、出来やしない。さぞや無念だっただろうと、今も思う」
それが、里の壊滅の真相。かつてシロ様が言っていたビャクが行った卑怯な手段とは、信じて預けられた名前を使ってシロ様のお父さんを殺すこと。その瞬間のお父さんの心情は、どんな物だったのだろう。何よりも信頼していた兄弟に自分の武も力も何も関係無く、打つ手もなく、殺される瞬間の恐怖は、憤りは、悲しみは。
そしてそれを目撃したであろう、シロ様の心情は。それはわざわざ話してくれなくても痛いくらいに理解出来る気がした。握られた右拳から聞こえる、骨の軋む音。それがあまりにも痛そうに聞こえて、私はその手をそっと上から握りしめた。シロ様は何も言わないけれど、少しだけ力は緩められたようで。けれどこんな小さなことで悲しみが消えるわけが無い。尊敬すべき父親の尊厳を真っ向から叩き潰された、絶望は。
「あの男がクドラの瞳を手に入れ何をしようとしているのか。そして枯渇死や災厄級の件と何か関りがあるのか。すべてはまだ我らの憶測に過ぎない。だが……」
「……うん」
「その憶測が真実だった場合、あの男は里を壊滅させただけでは飽き足らず、我らが守るべき領民すらも手にかけようとしていることになる」
でもシロ様はそれを今乗り越えようとしているのだろう。ずっと見つからなかった、ビャクの変心のヒントが見つかったから。それが本当かはまだわからない。けれどどうであったとしても、もう彼との関係に親族としての情は必要ないと判断した。だから今シロ様はビャクを、あの男と呼んでいる。
「……それは、我が止めねばならないことだ」
そう告げたシロ様の瞳は、災厄級の魔物を前にした時と同じ色が浮かんでいた。




