三百四十三話「さよならお姫様」
「……ほんとに、行っちゃうの?」
「ああ。幸いなことにここまで迎えが来てくれたようだから」
大きな船と広大な海を背景にして、涙を溜める空色の髪の少女が一人。彼女は宝石のように透き通る瞳を涙で濡らしながら、目の前に立つ二人の人物を見上げていた。……まぁ早い話が、アオちゃんがアイさんとジョウさんを涙目に見上げていたということなのだが。
「そう泣くな。どうせ一週間もしない内に別れる予定だったろ」
「そうだけど、そうだけど違うもん! ジョウ兄の無神経バカ!」
「むし、……」
そしてついに大粒のその瞳から、涙は零れ落ちてしまった。ぽこ、という擬音でも聞こえてきそうな勢いでジョウさんのお腹を叩いたアオちゃん。が、その衝撃以上に言葉にショックを受けたらしい。ぴしりと凍りついたジョウさんの横で、仕方なさそうにアイさんが微笑んでいる。まぁ今のは言われてもしかないと思うので、私としても擁護は出来ないのだが
……さて、どうしてアオちゃんが二人を前に泣き出してしまいそうなのか。その理由は単純だ。明日カサヴァを出発し、ズェリへと向かう観覧船イェブリオ。二人は今日、この船から降りる。本来ズェリで待っているはずだったそれぞれの迎えが、カサヴァまで来てくれることになったからだ。
「……まぁアオちゃん。あんまり我儘言っちゃダメだよ?」
「うぇ、ミコ姉……」
「確かに予想外だったけど、二人が渡り巫女と境界騎士になれるのはアオちゃんだって嬉しいよね?」
「…………」
アイさんは渡り巫女としての旅団が、ジョウさんは本来ムットールの最端で任に当たっている境界騎士の使者が。それぞれ族長様から事情を聞いたことで、明日カサヴァの街に来てくれることになったらしい。その話を聞いたのは三日前。フルフの事件が解決してから、三日後のことである。まぁつまり、今日であの怒涛の登山から六日経っているというわけだ。
元々二人は船旅をする予定ではなかった。本来であれば渡り巫女や境界騎士の任に付くものは城で迎えを待つ慣習らしい。それをアオちゃんが心配だからという理由で船で待ち合わせ場所に向かおうとして、しかし予想外のトラブルが起こってしまったことであちら側が時間の帳尻合わせをしようとしたと。そんなわけで、二人との別れはアオちゃんの想像よりも早く訪れてしまったのだ。
「……うう」
「……ふふ、寂しいね」
「……うん」
ぎゅっと抱きついてきたアオちゃんを抱きしめ、その背中をポンポンと撫でる。アオちゃんがこんな風に衒いなく甘えられるのは、ここに私と従兄弟の二人しかいないからだろうか。見送りはいらないという二人の言葉に逆らって、今日から街の方の宿に泊まるらしいアイちゃんとジョウさんを見送りに来たのは私とアオちゃんだけ。まぁ私はアオちゃんに付いてきてほしいと頼まれたからなのだが……。ともかく。この場に自分よりも年下のヒナちゃんが居ないから、今日のアオちゃんは遠慮なく甘えてきているのかもしれない。
「……すみません、ミコさん。こうなるから困らせたくなかったのですが」
「いえ、気にしないでください。私もお二人とはちゃんとお別れしたかったので……」
「……そう、でしたか」
猫のごとく頭をぐりぐりと擦り付けてくるアオちゃんを見てか、アイさんは苦笑して謝ってくれた。しかし謝ることなんてない。これから私がお二人の代わりにアオちゃんの保護者代わりになるのだ。むしろこれくらいはやってやれるぜ、ってところを見て頂かないと。
「……おい、アイ」
「……なんだ」
「これから会えなくなる。言いたいことは言っておけよ」
「…………」
「……?」
なるべく頼もしく見えるよう笑いかけたのだが、何故かその笑顔にアイさんは寂しそうに微笑むだけだった。そのことに疑問を抱くも一瞬、思い切りアイさんの背中を叩いたジョウさんの方に気を取られてしまう。今、結構痛い音がしたような気がするのだが。アイさんがお強いのは知ってるが見た目は儚げな美少女なので、ちょっと心臓が嫌な跳ね方をしてしまう。
しかし本当に痛みはほぼなかったらしい。僅かに不快そうに眉を寄せただけで、アイさんの表情は瞬きのうちに変わっていった。不意を突かれたような表情から、ちょっとだけ困ったような表情に。私にはいまいちジョウさんの言いたいことはわからなかったのだが、二人の間において言葉はそれだけで十分だったらしい。一度瞳を伏せると、アイさんは真っ直ぐに視線を向ける。……何故か、私へと。
「ミコさん」
「えっ、は、はい……?」
「……その、ですね」
ここで、私? てっきりアオちゃんに何か伝えたいことでもあるのかと思っていたので、正直驚いてしまった。しかしアイさんの真剣そうな面持ちを前に突っ込むことなど出来ず。珍しく言い淀んでいるアイさんを待つこと十数秒。彼女は躊躇いがちに、ゆっくりと口を開いた。
「……出会った時から思っていたのですが。貴方は私が一番好きな小説の主人公に、とてもよく似ていて」
「……ええと、以前お話していた?」
「ええ。『放浪姫』の彼女に、貴方はとてもそっくりなんです」
放浪姫。その小説は確か、アイさんが一番好きだった本のタイトルのはず。気品のあるお姫様が各地を旅する話、だっただろうか。そんなお姫様に私が似ているとは到底思えないが……という思いを飲み込み、私はとりあえず黙って話を聞くことにした。唐突とした言葉への疑問よりも、その姫君に私が似ているかどうかよりも、今は彼女の思いを受け止めることの方が大切だと思ったから。
「見ていると癒されるお姫様。自然と誰かの力になってくれる素敵な女性」
「は、はい……」
「私にとって貴方は、理想のお姫様でした」
結果として、過分な褒め言葉を頂くことになってしまったのだが。ずっと伝えたかったんですけど、なかなか言えなくて。そうはにかむアイさんの方が、私にとっては理想のお姫様に見えるのに。でもそうじゃないらしい。こんなに綺麗で強い人にとって、私の方が理想のお姫様なんだとか。
……そういえばアオちゃんも、私を世界で一番格好いい王子様だと言ってくれる。多分それはたまたま二人が一番辛い時に手を差し伸べることが出来た、という贔屓目が八割なのかもしれないけれど。それでもやっぱり、気恥しいけれど嬉しくて。うん、恥ずかしいけど。そう言って貰えるほどでは……なんて、謙遜したくなるけれど。
「貴方に、出会えて良かった」
「……はい、こちらこそ」
それでも今は、少しでもその思いに報いたい。綺麗に微笑んだアイさんにとって、私がなるべくいい思い出として残れるように笑った。それだけで絶世の美少女が嬉しそうにするんだから、自分の笑顔にもミジンコ程度の価値はあるような気がして。いや、流石にあって欲しいが。
「……言っとくけどアイ姉、ミコ姉はあ、た、し、の王子様だからね?」
「……そうだね。それで、僕の憧れのお姫様でもある」
「…………」
「…………」
謙遜というか卑下が癖になっているかもしれない……と若干落ち込んだ瞬間。その隙に喧嘩が始まったことに、私は戦慄した。さっきまで抱き締めていたというのに、というか泣いていたというのに、いつのまに私から離れていたのか。アイさんをキッと睨みつけるアオちゃんと、そんなアオちゃんに柔らかく微笑みかけるアイさん。しかしその目の奥は笑っていない。
ど、どういう喧嘩だこれ……? 橋本くんであれば美少女二人に取り合われて嬉しい!やったー!となるのかもしれないが、私としては困惑の一言である。いやこれ、そもそも取り合われてもいないような。よくわからないところで仲良しのはずの姉妹が喧嘩をしている。謎すぎる。
「え、ええと……」
「解釈の不一致、ってやつらしい。ほっといていいぞ」
「わ、私が原因っぽいのに……?」
助けを求めるようにジョウさんに視線を送るも、可哀想なものを見るような目線で流されてしまい。その後姉妹二人のバチバチとした喧嘩は、様子が気になったヒナちゃんが迎えに来てくれるまで続くのだった。涙の別れは一体どこに行ったのだろう。




