閑話「ひび割れた太陽と月」
少年は、幼い頃から真っ当な倫理観というものを教わらずに育った子供だった。
「父様、最近入ったあのメイド『ぽい』ってしちゃってもいい?」
「ん? ミハイル、どうしたのかな?」
マスク家はミツダツ族の領地、タッコッタの国に古くから根差している、貴族の中では古株と言ってもいい家だった。しかしその長い歴史とは裏腹、昔は存在していたミツダツ族達との関わりは先祖の起こした不祥事によって絶たれ、かつては存在していた栄華は徐々に枯れ老いていく。
先祖の責任を子孫が払い続け、拭い続け、それでも一度付いた染みは消えないまま。やがてその一族は、人としての一線を踏み外した。或いは過ちを犯した先祖の時代から、もう人の方に戻る気などなかったのか。自分たちに都合よく脚色された歴史に真実は残らない。ただ言えるのは、彼らの使用人を人とも思わない態度は祖父のその親の代から変わっていなかったということだけ。
無邪気な声で、無邪気な瞳で、少年は自分の父親に可愛らしく告げた。夕食の最中、愛らしいはずのその声に控えていた使用人たちの肩が震える。誰もが怯えをその心に宿しながら、けれどそれを仕える主人に不快だと捉えられないように。そんな彼らを視界に入れることも無く、少年は柔らかく微笑みかけてくる父親に向けて唇を尖らせた。
「ぼくね、あのメイドの声好きじゃない。変に甲高いし、耳がきーんってするんだ! 綺麗じゃないよね」
「なんと! こんなに可愛いミハイルの耳に異常が出たら大変だ。確かに父様も、あの者の声はあまり耳触りが良くないと思っていたんだよ」
「うん! だからね、ぽいってしてほしいんだ」
ぽい。人間として生きている一つの存在を捨てること、消してしまうこと。その言葉の意味を理解しているのかいないのか。「ミハイルが望むならそうしよう」と鷹揚に頷いた父親を見て、少年は笑う、笑う。彼にとってはそれが当たり前だったから。身の回りにいる人間なんて、少しでも気に入らないところがあれば呆気なく投げ捨てて。そうやって生きるのが当然の環境で、彼は育ち続けた。
「新しいメイドは喉を潰した者にでもしようか。ミハイルはどう思う?」
「うるさくないならそれもいいかも! ありがとう、父様!」
彼の歯車はいつから狂ってしまったのだろう。父親に「肥え育ちすぎたね」と言われた母親が、目の前で殺された時からか。それともずっとずっと前、先祖が犯した横領という罪のせいで貴族ながら貧しさと侮辱の視線を味わうことになった祖父が、秘密裏に奴隷商売という大犯罪に手を染めてしまった時からか。もしくはその影響を受けた父親が、祖父以上の残虐な主として己の上に君臨していたからか。
それだとしたらきっと、小さな少年では取り返しの付かないとうの昔に歯車は外れてしまっていたのだろう。使用人を同じ人だとは扱わぬ父親の倫理観も、周りの貴族から密やかに爪弾きにされる孤独感も。それら全てが少年の外れた歯車にヒビを入れていく。もう元の場所には戻れないように、戻れたとしても上手く回らなくなるように。
「いいんだよ、私の『可愛く美しい』ミハイル」
「……えへへ」
壊れかけの歯車に毒のように注がれる、可愛いと美しいの褒め言葉。それらはやがて少年においての絶対の価値観として君臨する。美しければ何をしても許される。そうでなければ母親と同じように父親に殺される。だから美しくなくては、そして美しいもので自分を飾り立てなくては。いつからか、彼はそう思うようになっていった。
「ほら、ミハイル。君の奴隷だよ」
「わぁ……! 綺麗!」
「そうだろう? 名前はライリア。好きに端名を付けなさい」
だからある日少年は、自分に忠実な美しい奴隷が欲しくなった。金の髪を持つ自分を、父親に「太陽の化身のようだ」と言われる自分を引き立てるような月のような存在を。本当はミツダツ族の者が欲しかったけれど、彼らでは少々美しすぎるから。それで父親から自分はそう美しくないのだと、そう判断されるのが怖かったから。
そんな少年が十歳の時、誕生日プレゼントとして得た物がライリアという名の少女だった。当時十五歳程。どこかの街から攫われてきた元兵士の彼女の目は、死んでいた。その理由は単純なもの。彼女は捕まった直後忘念実を飲まされ、その後口枷を付けられた状態で一週間後の自分の家族の姿を見せられたのだ。自分が居なくても幸せそうな家族と、何事も無かったかのように妹と付き合っている婚約者の姿を。そうして自分を捕まえた男にこう囁かれた。「もうこの世にお前の居場所は無い」と。
「ねぇライリア。君の端名はライリでいい?」
「……はい、ご主人様」
「ミハイルでいいよ。ミハイル様ね」
「……ミハイル様」
だからだろうか。枯れ細った彼女の心は、差し込んだ一つの光に執着した。太陽のような髪色の少年に。名前を呼ぶことを許してくれた、自分に新たに名前を付けてくれた光に。彼のためならなんでもやろうと、何でもやらなければと、そう思ってしまった。そこでまた一つ、小さな太陽と月の歯車は狂ってしまったのだ。
「ねぇライリ、僕は今日も綺麗?」
「はい。ミハイル様より美しいものなどおりません」
「うん。ライリも今日も綺麗だよ」
ひび割れた太陽と月が飾られた箱庭の外。ライリが最初の実験体となった、忘念実を使ったマスク家の奴隷商売は徐々に拡大していく。父が一体どこで、誰からその植物を手に入れたのか。そんなことを少年は、ミハイルは知らなかった。知っているのは父がその商売に手を染め始めた当時、黒い外套を纏った青年が家を出入りしていたことだけ。
そしてそれは、ミハイルにはどうでもいいことで。時折夕食の時間が一緒になった父が美しい人間を捕まえたことを高揚混じりに教えてくるけれど、完成したミハイルの箱庭にそれ以上の物は必要なかった。だから全く興味がなかった。空に必要なのは太陽と月だけ。父親という安寧の籠を授けてくれる絶対的な世界の中、自分とライリが存在していればいい。それ以外に興味なんてない。
「ライリは大事にしてあげる。君は僕の月だから」
「ミハイル様……」
他の使用人とは違い、美しく声も耳障りじゃないライリ。奴隷とはいえ、自分のためならなんでもしてくれる彼女はミハイルにとって宝物だった。ほら今、恍惚とした視線をこちらに向けてくるの姿も。美しい彼女の世界には自分しかいない。それがわかるから、ミハイルは殊更にライリに優しく接した。こうやってただ時が過ぎればいいと思った。
けれど世の空とは違い、仮初の空にいつか終わりは来る。
「……ライ、リ……?」
「…………ミハイル、様」
「……父様は、父様、は…………」
ある日ミハイルの父親は、殺された。忘念実を飲まされた奴隷の青年の復讐によって、何度も何度もカトラリーのナイフを突き刺される形で。それは当然のことで、彼の今までの罪を、業を背負う日が来たというだけのことで。しかしミハイルには理解出来なかった。少し怖いけれど、自分にはいつだって優しかった父。彼がどうして死ななければいけないのだろう。たかだか奴隷に殺されなくてはいけなかったのだろう。
衝撃的な光景を前に青年となったミハイルの価値観が揺らぐ、揺らいでいく。美しいものは正しい。血に塗れ目を血走らせカトラリーを握る青年は美しい。父は昔はもっと美しかったけれど、今は老いてしまった。だとしたら今、この状況下においては、美しい青年の方が正しいのではないか? だとしたらいつか自分よりも美しいものに虐げられる自分は、『正しい』になってしまうのではないか? 何度も何度も刺された父親の遺体は、ミハイルに原始的な恐怖を植え付けた。
今まで自分が自分よりも美しくない者にやってきたことが、そのまま返ってくるのではないかと。
「……ライリ」
「はい」
「そいつを、殺せ」
「はい、ミハイル様」
瞬間、歯車は全て砕け散った。怖い怖い怖い。恐ろしくて恐ろしくて仕方ない。だってそうだろう。太ったから、声が耳障りだったから、見た目がちょうど良かったから。そんなことで殺されたり、自分の持つ全てを取り上げられたり。そんなのはだって、だって、理不尽ではないか。
その理不尽が自分がやってきたことだとは気づけないまま、青年はその手を血に染めた。否、血に染まったのは己の影とも言える月の方だったが。けれどその時流した血は、歪ながら美しかった箱庭を確かに穢したのだ。そして青年は思う。思ってしまう。いつか美しい者に自分が蹂躙される日が来るのなら、その前に自分よりも美しい者を自分が蹂躙してしまえばいい。そう思うように。
父親と父親が捕らえた奴隷達はその日全て燃やした。奴隷関係の書類や情報ごと全て。火事になってしまったということにして、父親が捕らえていた奴隷に殺されたという事実をなかったことにしたのだ。そうしないと怖くて怖くて仕方なかった。父親が捕らえた奴隷たちに、今度は自分が殺されてしまうのではないかと。
ただそこから持ち出したものが一つ。それは父親が栽培していた忘念実という植物。ミハイルはこれを使い、自分よりも美しい者全てを火にくべてしまおうと思ったのだ。父親のように奴隷商売を行って、そうやって美しい者を集めて。そうして全て燃やしてしまえばいい。そうすればきっと、『美しい者が正しい』という歪んだ価値観において自分を傷つける者など居なくなるから。そうして再びライリと、箱庭で暮らし続けることが出来たら。
そんな願いがまかり通るわけがないということに、彼は最後まで気づけなかった。
「貴様は死刑になる」
「…………」
「やったことがやったことだからな。公的な処刑にはならないが……斬首という形を取られるだろうよ」
汚い汚い汚い。美しくもない男が自分にそう告げる。それだけ告げて、侮蔑的な視線を向けて去っていく。冷たい無機質な部屋の中、扉が閉まる音だけが無情に響いて聞こえた。縛られた手首は動かない。足首も動かない。ろくに食事を取っていないからか腹は切なく鳴き、張り付いた喉が掠れた吐息だけを零す。
ああ、きっと今の自分はあの男よりも醜いのだろう。もしかしたら、もっとずっと前から。ライリの導きで父親と同じ商売を始め、自分よりも彼女が優れているように感じ苛立ちを覚えるようになった時から。その時からもう自分は、醜かったのかもしれないけれど。涙はもう出なかった。ただ諦めだけが、深く深く心を満たしていった。
空はとうの昔に落ちた。そしてもうじき太陽が沈むらしい。ひび割れて砕け散ってとっくに輝かなくなっていた太陽が。そうしたら月はどうなるのだろう。あの看守はライリのことは話さなかったなと目を伏せ、ミハイルは、ミハイーラ・マスクはそのまま目を閉じる。
「……ライリ」
呼んだ名前に願いを託した。どうか自分と沈んでくれないだろうかと、いつか彼女と二人きりの箱庭の中。彼女の頭に花冠を飾った思い出を浮かべながら。




