三百三十六話「訪れた時」
その後、お嬢様とは思えぬ猛ダッシュで屋敷へと駆け込んだイファさんは、暫くして肩を落として帰ってきた。なんでもシロ様によって割られた瓶の中に入っていた忘念実は、もう全て枯れてしまっていたらしい。まさかこんな短時間で枯れてしまうとは。水草、いやそれよりも乾燥に弱いのだろうか。恐ろしい効果とは反面、意外と脆い植物である。
「これで証拠品はどうするのよ!?」
「……船に残っているだろう」
「……そ、れは……」
ともかく。イファさんは大変にお冠だった。これではミハイル・マスクを捕まえることが出来ないと思ったらしい。元々忘念実はあまり有名な植物では無いし、枯れた状態では何が何だか他人に説明するのが難しくなる。つまり枯れた忘念実は証拠として不十分という事なのだろう。
が、シロ様はそこまで考え無しに動くタイプでは無い。証拠がこの屋敷以外の場所にも残っているからこそ、ここのものは破壊し尽くして問題ないと考えたのだろう。何を言ってるんだこいつ、と言わんばかりのシロ様の態度にイファさんは鼻白んだ。……まぁイファさんの言いたいこともわかる。確かに船には十分な程に証拠があるが、多いに越したことはないというわけだ。しかしシロ様はもう暴れ尽くしてしまった後、と。
「……もういいわ。早く戻って船の方の証拠を抑えることにする」
「賢明だな。あの二人も連れていくか?」
「……悩むけど、あたし一人じゃ無理ね。人を寄越すから、それまで待っててくれる?」
「あ、わかりました」
これ以上追求しても反省させることは出来ないと踏んだのだろう。イファさんは諦めた様子で首を振った。シロ様も同じことを言っているが、私も賢明な判断だと思う。多分イファさんがどれだけ怒ったとしても、シロ様は聞く耳を持たないと思うので。
もうここでやることも無い、とイファさんは船の方に戻ることにしたらしい。ミハイル・マスクとメイドさんは今こっくんとアオちゃんが厳重に見張っている。連絡されて証拠を処分される心配はあまり無いだろうが、それでも急いで行動して損することは無いはず。さっと踵を返したイファさんは、来た道の方を戻っていこうとした。……ん? いや、待てよ?
「……もしかして、一人で降りられるんですか?」
「ええ。残党も居なそうだしね」
「でも魔物とか居るだろうし、危ないんじゃ……」
な、なんと。どうやらイファさんは迎えを待つとかではなく、一人で山を降りていくつもりらしい。確かにサンザ山はなだらかな山だが、一人で深夜に下山するのは危ない。しかもこの世界には魔物が居るのだから、危険度はよりいっそう高まるだろう。流石に一人で降りるのを黙って見ているわけには……。
「……そういうことでしたら、私とジョウに送らせてください」
「あ、アイさん……」
「どうやら私達の出番はもう無さそうなので。ついでにお祖母様に報告も済ませようかと」
かといって私が送って行ってもな、とミイラ取りがミイラになるという言葉を思い出していた私。しかしそこでヒナちゃんの様子を見ていてくれたアイさんが声をかけにきてくれた。成程、確かに二人に送って貰えるなら安心だろう。これ以上ここで時間を奪ってしまうのも申し訳ないし。
お祖母様に報告、というのは忘念実のことだろうか。確かに世界的に禁忌とされているもののことなら、族長様にも話を通しておく必要があるはずだ。ジョウさんもそれでいいのだろうかと視線を送ったところ、丁度こちらを見ていたのか頷いてくれる。……ここはお言葉に甘えておこうかな。
「……えっと、イファさんもそれで大丈夫ですか?」
「ええ、来ていただけるなら心強いわ」
「そういうことなら……ええと、気をつけて降りてくださいね」
イファさんの方にも確認は取れたところで話は決まった。善は急げと言わんばかりに三人揃って去っていく影を、シロ様と二人見送る。さてはて、船の方の証拠が処分されていないといいのだが。一応処分されていることを見越して、私も一回屋敷の方を捜索してこようか。ああでもいや、その前に。
「……ヒナちゃん、フルフはどうかな?」
「ピュイッ!!」
ついついヒナちゃんに任せきりにしてしまっていたが、フルフの容態を見ておかないと。近づいて声をかければ、ヒナちゃんよりも先に元気に挨拶をしたのはフルフだった。先程まで酷い怪我を負っていたというのにとても元気である。……いや元気なのは、酷い怪我を負っていたときもそうであったが。
手を広げれば飛んできた毛玉の体を私はよく観察してみる。傷だらけだった全身は、ヒナちゃんの治療のおかげか元通り真っ白でふわふわな状態へ。とても元気そうではあるが、何の異常も見つからず無事星火で治せたということだろうか。ミハイル・マスクの言葉が本当であればいたぶられた後崖から落ちていったはずなのに、それが感じられないくらいには元気である。
「……えへへ、元気みたい」
「ふふ、そうだね」
フルフに特に問題がなさそうなこと。きっとヒナちゃんはそのことに私以上に安心したのだろう。ふにゃりとはにかむ表情を見れば、心は自然と和んだ。良かった、本当によかった。フルフが死ぬことも無く、ヒナちゃんが死ぬことも無く、二人が再び楽しそうにしている姿を見ることが出来て。そう息を吐いた瞬間、突然手の中のフルフは跳ね始める。
「ピュッ、ピュイッ」
「えっ、急にどうしたの……?」
「フルフちゃん……?」
一体急にどうしたというのか。困惑する私達を他所に、フルフはひたすらぴょんぴょんと跳ね続けた。まだ痛いところでもあったのだろうか、と慌てたヒナちゃんが捕まえようとしてもその手から毛玉はすり抜けていく。ひたすら跳ね続ける姿は、まるで誰かに語りかけているようにも見えて。
「……どうした? 何か問題があったか?」
「シロ様、えっと、それがわかんなくて……」
「フルフちゃん……」
すると戸惑っている私達の様子に疑問を感じたのか、シロ様がこちらへと近づいてきてくれた。変わらずミハイル・マスクとメイドさんを見張ってくれているこっくんとアオちゃんも、遠くから心配そうな視線を投げかけてきてくれている。けれどその間もフルフは跳び続けたまま。
何か足……足? ええと、下半身の方に異常でもあったのだろうか。ヒナちゃんが治療で元気になりすぎてしまった、とか。いやでも星火に今までそんな効果は見受けられなかったし、何よりこれはフルフが自分の意思で跳ねているようにも思える。だとしたら原因はヒナちゃんの治療ではなく、フルフの習性的な何かなのだろうか。けれど生物の教科書にもそれらしきことは書いていなかったわけで。
「フルフがこんな感じになっちゃったんだけど……シロ様、何が原因かってわかる?」
「…………」
「シロ様……?」
「……いや、その時が来ただけだ」
考えても分からなかった私は、結局シロ様に頼ることにした。シロ様ならもしかしたら何かわかるのではないかと、そう期待して。けれどその予想はあながち間違いではなかったのだろう。跳ね続けるフルフの姿を見て、シロ様は眉を寄せた。そうして何か覚悟を決めるかのように息を吐くと、ゆっくりと瞼を伏せる。
「……!」
瞬間世界は、何故かさっきよりも静かになった気がした。
「ピュイ」
「……わかっている。これでお前の『仲間』も来るはずだ」
「……シロ様、それって……」
「……そういうこと、だ」
……その会話だけで、大体のことは理解出来た。恐らくはシロ様が何かしらの気を発していたことで、ずっとここあたりの空気は緊張感漂うものになっていたのだろう。だから本来は『何かしらの意味があった』フルフの行動は、その本懐を遂げられなかった。
けれど今シロ様がその空気を絶った以上、それは本来の意味を持ち始める。シロ様が気配を潜めて暫く、跳ね回っていたフルフはピタリと動きを止める。ああ、きっと意味を成したのだ。そう思った瞬間、遠くの空に白い影が見えた気がした。一つではなく、いくつもの影が。
「ミコ、ヒナ、あれを見ろ」
「……!」
「あ、れは……」
シロ様に言われるがまま視線を向けた先、そこに居たのは宙に浮かぶ白いふわふわたち。いや、まどろっこしい言い方はよそう。たくさんのフルフの群れが、この屋敷へと近づいてきていたのだった。




