三百三十三話「貴方が言うから綺麗事」
「貴方にかけられた疑いは二つ。まぁ一つの方の罪は確定してしまっているのだけれど」
「…………」
彼の兵隊はもう全て泥沼に沈められ、逃げ道は籠繭によって封じられている。だからか、ミハイル・マスクはイファさんの話を聞くことにしたようだった。まだ誤魔化しが効く段階だと、或いは突如彼の別荘にまで攻め込んできた私達を逆に糾弾してしまおうという考えがあったのだろうか。しかしその目論見は、続いたイファさんの言葉で木っ端微塵に砕かれた。
「貴方、忘念実を所持しているわね」
「……!」
「察するに、この屋敷の中にも保管されているはず」
ここは取引の場で、その相手だってまだ中に居るのでしょう? 恐らくはティーカップの中で何かを見ていたのだろう。確信めいた表情で告げたイファさんに、ミハイル・マスクの表情が白に染まる。そこまで掴まれているだなんて、表情はその思いを正直に物語っていた。
やがて彼はばっ、という音が聞こえてきそうな勢いで泥沼の方へと目を向ける。顔色は白から赤に。強く強く唇を噛み締めたかと思えば、眉を思い切り釣り上げて彼は泥沼を指さした。その指が向けられた先に居たのはメイドさん。何をしているのかと思えば、口を大きく開けた彼はメイドさんを口汚く罵り始めた。
「何故こんな事態になった!! この無能が!」
「…………申し訳、」
「何故忘念実のことが知られている!! お前が雇ったゴロツキに問題があったんだろう!? 人間としてゴミな上に腕前も無能ときた!! ああ一番に無能なのはお前だったな!」
……それはなんとも、聞くに絶えない声で。唾を飛ばす勢いでメイドさんを罵倒し続ける彼に、私はどうしても好意的な視線を送ることは出来なかった。それは彼の一番近くにいるイファさんも同じだったらしく、間近で聞こえる大声に不快そうに繭を顰めている。顔を真っ赤に醜さを振りまくその姿に、高貴さなんて一ミリもない。人をゴミだなんて簡単に言える人に、どうしてそんなものが生まれるだろうか。
メイドさんは無表情のまま、何も言い返さずにその罵倒を聞き続けていた。まさか何とも思っていない、のだろうか。その表情には怒りや悲しみは愚か、諦念すら浮かぶこともない。その人間味のない姿が恐ろしいと思った。怒鳴り散らすミハイル・マスクなんかより、余程。
「……それは、罪を認めるってことでいいのね?」
「っ……!」
「助かるわ。ご自身の無能さを自ら吹聴していただけて」
「ぐ、……」
いい加減黙って聞いている事にも飽きたのか、そこでイファさんは無理やりミハイル・マスクの罵倒を中断させた。その声で私も正気に戻る。いけない、今はあのメイドさんの底知れない雰囲気に怯えている場合では無いのだ。折角相手が大してごねることもせずに暴露してくれたのだから、この機会を無駄にしては行けない。私もイファさん側に加わることとしよう。
「……今、私達の仲間の一人がお屋敷に潜入しています。それから屋敷の周りも、完全に包囲されているので」
「っな、……!?」
「こちらに……アーシャ・イファ様がいらっしゃる以上、もはや言い逃れは出来ません。仔細話すことをおすすめ致します」
ええと……こんな感じの口調で、いいだろうか? この人に敬意を払う必要性は全く感じないが、かといって居丈高く振る舞うほど図太くはなれないので。暗にもう証拠を握るまで時間の問題であること、それから逃げ場はないこと。それらを匂わせれば、私のような者の言葉でも何かしらのプレッシャーにはなったらしい。ミハイル・マスクはギリギリと唇を噛み締めた。
「……貴方が攫った、私達の仲間も」
「!」
「その顔、どうやら図星のようですね」
イファさんにも特に何も言われていない。それならばここが攻め時だろうと一歩足を踏み出して告げれば、ミハイル・マスクはその目を大きく見開いた。メイドさんとは違い、その顔にはよく表情が乗る。浮かんだのは驚きと悔しさ。この表情を見るに、当たりだろう。彼こそがフルフを攫った張本人、そしてその目的は……。
そこまで話してようやく、自分の計画が全て露見してしまっていることに気づいたのか。恐らくは自分が欲をかいてフルフを攫った結果が、この事態を招いていることも。彼は顔を片手で覆うと、くつくつと笑った。やがてそのブラインドが解かれた先の視線、それはヒナちゃんへと向けられて。ああ、やっぱり。やっぱりそうだったのか。首元を全部覆う襟の詰まった服の下。きっとその下には、凄惨な傷跡が広がっている。私たちの推測通り、彼はきっとその傷をどうにかする為にフルフを攫い……そしてヒナちゃんを、手に入れようとした。
「……そうだよ、そうだ。全て認めるさ。忘念実のことも、あの魔物を攫ったことも」
「……!」
「……は、魔物に手を出したことは失敗だったな。その小娘の能力に目が眩んだばっかりに、どうやらやぶ蛇をつついたらしい」
「え、……?」
だがそれを、ヒナちゃんに知られてしまう訳には。もう全てを諦めてしまったのか、自嘲の笑みを浮かべて全てを語り出したミハイル・マスク。だがそれは、決して殊勝な感情から来るものでは無かった。彼は最後、この自爆劇に誰かを巻き込むつもりで自白し始めたのだ。その矛先は、そう。
「っ、まっ、」
「はは、知らなかったのか!? 全部お前のせいなんだよ! お前があんな力を見せびらかすから、だからお前を欲しいって思う奴はあの船に溢れかえった! 散々声をかけられたんじゃないか!? 或いは脅されたりとか!」
「……!」
「だから私だってお前を手に入れるため、この傷を治しそしてお前を子飼いにするため、あの魔物を攫った! 全部お前のせいだ! ぜん、っぐ……!」
止めようとしたところで、もう遅かった。狂気的な笑みを浮かべたミハイル・マスクは、フルフを攫おうとした動機をよりによってヒナちゃんの前で明らかにし始める。その言葉を聞いてヒナちゃんの赤い瞳は、動揺に揺れた。フルフが攫われた理由が自分だったなんて夢にも思わなかったのだろう。ミハイル・マスクを見つめていた表情から、徐々に色が抜けていく様。彼女の耳を塞ぐにも、ミハイル・マスクの口を塞ぐにも、全てがもう遅すぎて。
それでもと、全員が固まる中槍を振るった影が一人。結いた長い空色の髪を揺らしながら、彼女は半泣きの表情でミハイル・マスクの背中を思い切り叩いた。勿論槍の刃の方ではなく、柄の方で。それでも一切加減しなかったらしい。叩かれた勢いで吹き飛ばされたミハイル・マスクは、思い切り地面に顔を擦り付ける形となってしまった。全員がその勢いを前に呆気に取られる中、彼女は……アオちゃんは、真っ直ぐにミハイル・マスクを睨みつける。
「……貴方のせいだよ」
「っなに、を……!」
「フルフちゃんが攫われちゃったことは、全部貴方のせいだって言ってるの!!」
その叫びは、ここにある全ての音をかき消してしまえるほどの鮮烈な色を湛えていて。地面に伏せた彼を強く糾弾したアオちゃんは、そのままミハイル・マスクへと駆け寄り槍先を向ける。その泣きじゃくった表情を見てか、顔色を悪くしていたヒナちゃんの瞳に光が点った。
「貴方が欲深い人じゃなきゃ、フルフちゃんが攫われることは無かった! 貴方以外、皆そう思ってる!」
「……っ、……!」
「ヒナちゃんは何にも悪くない! 分かったようなこと言わないで!」
……うん、その通りだ。真っ直ぐに、どこまでも一生懸命に。強く言い切ったアオちゃんを見て、私は思わず泣きそうになってしまった。そうだ、ヒナちゃんは何も悪くない。そんなことは知っていたのだ。最初から正直に打ち明けていれば、そんな今更な後悔が胸を襲った。
もしかしたら、隠そうとした私が馬鹿だったのかもしれない。ヒナちゃんの能力を目当てにフルフが狙われたことを。ヒナちゃんが傷つくかもなんて憂う必要はなかった。ただ正直に打ち明けて、その上でヒナちゃんの責任はないと最初から伝えておくべきだったのだ。そうしておけばここでヒナちゃんが揺らされることは無かった。そのことに、アオちゃんの思いの丈全てが詰まった叫びで気付かされた。
「……アオちゃんの言う通りです。ヒナちゃんは何も悪くない」
「……は、綺麗事だな」
「ええ、そうかもしれませんね。汚い貴方から見てしまえば」
「っ、なんだと……!?」
でもまだ全部、遅いわけではないから。未だアオちゃんに槍先を向けられたままのミハイル・マスクに、私は近づいた。せっかくアオちゃんが流れを変えてくれたのだ。このまま押し流してしまおう。ヒナちゃんが彼から押し付けられそうになってしまった痛みを、全部。
綺麗事と吐き捨てたその人に、私はなるべく綺麗に見えるよう微笑んだ。そうだ、綺麗事だ。彼が言えばそうなるのだろう。でもヒナちゃんは違う、アオちゃんは違う。彼女たちは心からそう思って、そして自分の美しい理想に立ち向かっていこうとしている。いつだって全力で、善意を心に大切に抱えて。それは綺麗事とは言わない。ただ心からの本心と、そう呼ぶのだ。
「自分の力で誰かを助けたい。誰かに笑顔になって欲しい。どれだけ疲れても、苦しくても、見返りは要らない」
「……………………」
「貴方が綺麗事と吐き捨てたその思いには、計り知れない価値がある。少なくとも私は」
その思いを抱えて大切にしているヒナちゃんを、心から誇りに思っています。そう告げれば彼は一度大きく目を見開いて、そうして項垂れた。きっとそれは自分の吐いた悪辣な言葉より、アオちゃんや私の告げた言葉の方がヒナちゃんの心に響いてるのを見てしまったからなのだろう。後ろから聞こえてきた小さな嗚咽を聞けば、振り返らずともヒナちゃんが何を思ったのかはわかった気がした。




