三百二十九話「邪悪で些末な計画」
(……始まったか)
屋敷の中に居た人間たちが騒ぎ出し、外へと一斉に飛び出していく気配。内部に忍び込んでいたシロガネは、それを直接肌で感じ取った。四階建てという到底山奥の隠れ家には似合わない屋敷の中、現在位置は地下室。最初にこの階層に足を踏み入れた時は、こんな不安定な場所に拠点を構えておいて地下室まで……と呆れたものである。恐怖心がないのだろうか。
だがこの地下室の存在は、シロガネにとって意味が無いわけではなかった。少なくとも上層階のざわつきをここではすぐに察知することが出来ない。幻獣人、それもクドラ族でもない限りは。気配を押し殺したシロガネは、目を伏せてとある一室の様子を窺っていた。その部屋の中には金髪の美丈夫とそれに仕えている様子の銀髪の女、そして顔を青ざめながらもテーブルの上に置かれた「瓶」から目を反らせない男の姿がある。
「再三申し上げますが、これは大きなチャンスになります。卿程の方であればその価値も理解出来ましょう」
「ぐ、し、しかし……」
「おや、まだご決断できないと?」
言わずもがな、金髪の美丈夫はミハイル・マスク。そして彼が座る椅子のすぐ側に控えている女は彼の使用人か何かだろう。となると顔中を汗で滴らせながら必死に何かを考えている形相の男が、件の取引相手と言ったところだろうか。見るからに高値が付きそうな意匠の細かいテーブルに、一人佇む瓶の中身。それは尊たちが船で発見したものと同じだった。
透明な水の中、白い粒のようなものがいくつもと浮かぶさま。ここに姿を隠してだいぶ経つが、忌々しいその姿を前にシロガネは何度衝動を噛み殺してきたことか。幸いにしてその中身がたっぷりと詰まっていること、そして予め尊に宥められていたこと。それらのおかげで暴れ出さずに済んでいたが、先程から脳で騒ぐ声がうるさくて敵わない。アレを消せ、アレを今すぐ処分しろ、シロガネの"血"は何度も何度も己に訴えかけてきている。
いいや、正確に言えば瞳と言うべきか。
「やれやれ、今更貴方に倫理観に縛られる程の余裕があったとは、驚きです」
「…………、…………」
「貴方がその態度であれば構いません。私には他にも幾らでも取引相手が居る」
「……っ、……!」
強い衝動を堪えようとシロガネがぐっと拳を握りしめた時、そこで初めてその話し合いに動きが見えた。瞬間シロガネの瞳に冷静な光が宿る。潜入後、ある程度屋敷全体を捜索し、そうして発見した地下室で彼らの繰り返される押し問答を聞き続けること幾星霜。先程からミハイル・マスクは忘念実を使った商売を推し進めることを男に推奨し、男は明らかに心動かされながらも最後の良心が咎めるのか素直には頷けない。「再三」ミハイル・マスクが先程告げたその数以上にその問いと躊躇いは繰り返されていたのだ。
「貴方がこの案を聞き入れられないというのなら、どうぞお帰りください。ティモー殿」
「……っ、」
「ただしその場合、帰り道での身の安全は保証できない。そうだな、ライリ?」
「はい、ミハイル様」
だがいよいよミハイル・マスクの我慢も限界、ということらしい。不愉快そうに釣り上げられた柳眉、テーブルの上で組まれた腕は彼に……ティモーと呼ばれた男に強い威圧感を与えたのだろう。彼の頼りない肩がびくりと震えるのを他所に、柔らかい笑顔をミハイル・マスクはライリと呼んだ女に向けた。主に釣られてか、表情の乗らなかった女の顔に笑みが花咲く。
「申し訳ありませんが、ミハイル様の提案を断られるのであれば……ティモー様にはこの帰り道魔物の餌になっていただくか、不運にも転落死を迎えた哀れな被害者になっていただきます」
「な……!」
「貴方は聞いてはいけないことを聞いてしまった。共犯者になれないのであれば、消えてもらう他ないんだ」
そのまま美しい笑顔にはそぐわない残酷な提案を、女は告げて見せた。途端戦慄したように表情を青ざめさせるティモーと、追い打ちをかけるように微笑みかけるミハイル・マスク。そんな美しくも恐ろしい狩りの光景を前に、成程最初から逃がす気は無かったらしいとシロガネは頷く。
ここは山奥の屋敷。それも本来の山道ルートからはかけ離れた道を進むことでしか辿り着くことはできない。たとえティモーがこの屋敷にミハイル・マスクと取引するために来たことを知っている者が居たとして、その上でティモーが帰ってこないことをミハイル・マスクに訊ねる者が居たとして。「自分は関与していない。帰り道に魔物に襲われたか、足を踏み外して崖から落ちたのでは?」と言われれば引かざるを得ない。ただでさえ他国の貴族という身分を持っているのだ。確かな証拠でもない限り、カサヴァの警備隊では踏み込むことが出来ないだろう。
「そ、そんな……! わ、わた、私は……!」
「私の提案を受け入れるか、それとも自分の不幸を受け入れるか……」
「あ、あ……!」
「この屋敷に足を踏み入れた時点で、貴方の命運は二つに一つだ。ティモー殿」
華やかで優しげな笑みを、ミハイル・マスクは浮かべている。それが吐き気を催す邪悪なものであることを、この部屋の外に居るシロガネでしか気づけない。彼の笑顔はシロガネの知る笑顔とは到底比べ物にならないほどに醜悪だ。尊の浮かべるような、温かで柔らかく相手にひたすらに慈愛を注ぐようなものとは。これで美に執着しているというのだからとんだお笑い草である。一度自分の顔を鏡で見た方がいいだろう、シロガネは冷笑した。もっとも鏡で己の顔を見たところで気づけないほど、彼は手遅れなのだろうが。
「わ、わかり、ました……」
「! ティモー殿……」
「そちらのてい、あんを、受け入れ……ます」
「それはそれは! まさしく英断ですよ!」
そして悪魔のささやきに、ティモーは答えることしか出来なかった。そうでなければ失われるのは自分の命だというのだから、明らかに小心者である彼には実質的に一択だったのだろう。感激したように口元を緩めるミハイル・マスクはとんだ役者だった。自分で誘導した結末がこれだろうに。
「それではまず、この街から始めましょう。美しい少女や少年を攫い、彼らに忘念実を飲ませるのです」
「…………」
「そうすれば生まれるのは世界から忘れられた、どこにも行き場のない哀れな奴隷だけ。以前ウィラの方で解決した奴隷騒ぎのように、誰にも周知されることはありません。ああでも、くれぐれも慎重に。攫う際の人選はは出来うる限り絞っていきましょう」
そうでないと、数百年前と同じことになってしまいますから。立ち上がったミハイル・マスクは、優しげな笑顔でティモーの肩を叩く。語られた計画は至って面白みのない、誰にだって考えられるような些末なもの。これを短時間で何度も聞かされたシロガネとしては、飽き飽きとしているという表現が的確であった。
ミハイル・マスクはどうやら、忘念実だなんて大層な代物をそんな下らない悪事に転用しようとしているらしい。美しい子供を攫い、その者に忘念実を飲ませ、そして世界から忘れさせる。そうすれば誰に気づかれることもない完全犯罪の出来上がりだ。そして商品となった者たちは高値で売られ、ミハイル・マスクとティモーの商売になると。ただ、それだけの取引。
(だが……)
しかしそれだけと言うには、使われるものがあまりにも悪名高すぎる。忘念実はクドラ族にとって因縁あるもの、かつシロガネの瞳があれを放ってはおけないと疼き続けている。なおかつこちらとしては奴隷騒ぎには嫌な思い出がある身。彼らの悪事をそのまま放っておく気はシロガネには一切なかった。計画の概要は掴めた。それならば潜入しているシロガネがやることは二つ。フルフを見つけること、そしてその上で。
あの実を全て破棄すること。
「……失礼、ミハイル様」
「なんだ?」
「何やら上が少し騒がしい気が。見てきても構いませんか?」
「またか……構わない。今度こそアタリが来たのかもしれないしな」
今更上の騒ぎに気づくくらいだ。全ての計画が日の下に晒されかけていることも、これから全てをぶち壊されることも、彼らは何一つとて察することが出来ていないのだろう。ライリの提案に含み笑いを浮かべるミハイル・マスク、その笑顔をシロガネは目に焼き付けた。
その表情はこれから、失笑する価値もない程に無様なものへと変わり果てる。欲をかいてシロガネの身内に手を出したことが間違いであったこと、その全てを分からせるために。シロガネは扉のすぐ側に居たというのに自分に気づかず、そのまま上に駆けていったライリを見送った。あの足運びは中々の手練と言えるだろう。さてはて、上の面々は大丈夫だろうか。人数の利に加え手練の参戦となれば苦戦を強いられることになるかもしれない。が、負けることは無いだろう。そう信じられるように、今のシロガネはなっている。
「行くか」
部屋に残されたのは柔らかい微笑みを浮かべる見た目が美しいだけの男と、完全に倫理観が狂わされてしまった哀れな男のみ。彼らの話す細かい計画になんて興味がなかったシロガネは場を後にした。彼らの狙いをを詳らかに出来たのであれば、やるべき事を先に済ませなければ。そうして小さな影は、騒ぎが徐々に大きくなっていく屋敷の中にいつの間にか紛れ込んでしまった。




