三百二十話「その箱が開く前に」
禁忌指定危険植物。ただフルフを見つけるのが目的だったはずの覗き行為で、まさかそんなものを見つけるとは。禁忌に危険と、文字列からして明らかに不穏であるそれ。そしてその予想に違わず、忘念実という植物は私の想像よりもずっと恐ろしいものであったらしい。
「……数百年前に各地で起きた集団失踪事件について知ってる?」
「いえ……」
「そうよね、あれは一般にはあまり知られてない事件だもの」
先程までの余裕の表情はどこに行ったのか。険しい顔つきになったイファさんは、この忘念実という植物がどれほど恐ろしいものなのかを私達に教えてくれた。とは言ってもこっくんは事情を知っているようなので、この場においてその事件のことを知らなかったのは私とヒナちゃんだけなのだけれど。
……数百年前、どの領地も巻き込まれることになった集団失踪事件。それは数百人程が犠牲になったところでようやく世間に気づかれた事件だったらしい。理由は簡単。被害者の家族や友人が、居なくなった人達について何も覚えていなかったからである。
しかしたとえば家にもう一人居たような痕跡が残っていたり、身に覚えのない物の貸し借りの記録があったり、大きい街では住民記録が残っていたり。そういった小さな痕跡の積み重ねで、世界は忘れられた人達が居ることに気づいた。それも世界規模で見れば八百人程。気づいてしまえば、世界を統治している幻獣人たちが動くのは必然のことで。
そして明らかになったのが忘念実という植物の存在。先程も言ったように「飲ませた対象者の記憶が周りから消える」という性質を持つ忘念実を利用し、人を攫っている組織がある。そして幻獣人たちはついに、その事件の首謀者を突き止めた。
「それが、リンガ族よ」
「……!」
その事件の黒幕は、いつかレゴさんとシロ様に教えてもらった世界の中心で暮らしているという幻獣人、リンガ族だったらしい。前に聞いた話は何だったか。確か黒、黒……そう、黒蟲病。法力のないものをゴミとして判断し捕食する蟲を空の上から落とし、その結果十万程の人間や獣人が犠牲になったという話を聞いたことを思い出す。
今聞いている集団失踪事件はその時ほどの被害者は出ていないが、聞くだけで十分に痛ましい事件だ。世界から忘れられて、誰の助けも期待することが出来ず攫われるのはどんな気分だろう。きっと被害者の人たちは世界に見捨てられたような、そんな深い絶望に陥ったはずだ。
「当然リンガ族以外の幻獣人たちはリンガ族を問い詰めた。その結果、被害者たちは一応全員帰ってきたわ」
「……一応、ですか?」
「ええ、だって」
ぎゅ、と胸が痛くなる感覚。状況が天と地ほど違うが、ウィラで同じく攫われた身としてはほんの少しだけ共感できるような気がした。けれどその共感は次の瞬間イファさんの告げた言葉で粉々に打ち砕かれることになる。何かを躊躇うように言葉を迷って、けれど口を開いたイファさんの表情は痛みを湛えていた。
「……リンガ族からどんな人体実験を受けたのか、被害者たちは全員死体で帰ってきたの。その多くの遺体は原型を留めていなかった、というのが記録に残っているわ」
「っ、……!」
「そん、な……」
衝撃から、咄嗟にヒナちゃんの耳を閉じてあげることは出来ず。それをそのまま聞いたヒナちゃんは、とても悲しそうに顔を歪めた。こっくんだって一緒。心底不愉快そうに歪めた表情に乗るのは嫌悪。
なんで、なんでそんな事が出来るんだろう。リンガ族は本当に自分たち以外の生き物をゴミか何かだとでも思っているのか。世界から忘れ去られた何も悪くなかった被害者たちは、その尊厳さえも踏み躙られたのだ。そして忘れてしまった遺族の人達はそれを悲しむことすら出来ない。どの遺体が自分にとって大切だった人なのかも認識できない。なんて残酷で、非道な。
「それから忘念実は世界基準で使うことを禁止された。リンガ族もそれには従わざるを得なかったわ」
「……それは、どうして」
「クドラ族がそれを強く希望したからよ。いかにリンガ族と言えど、クドラ族全員に攻め込まれれば大きな損害を受けることになる。最悪絶滅するかも。故に幻獣人たちはそれぞれが法術で描かれた契約書に同意した」
今後一切忘念実を利用した如何なる研究、実験、それらの全てを禁ずると。
「それからも幻獣人たちは警戒を続けていたけど、今の今まで忘念実やその被害者の痕跡はなかった。そもそも記録にある通り、忘念実は当時全て燃やし尽くされたらしいわ」
「そう、だったんですね……」
……せめて救いがあるというのであれば、その悲劇が二度と繰り返されないことくらいだろうか。法術で出来た契約書と念を押すくらいだ。きっとその契約は破れば大きな報いを受けることになるのだろう。そうなるように、当時のクドラ族を始めとする幻獣人達が頑張ってくれた。そして今の今まで同じ悲劇は繰り返されていなかったのだ。
「……でもその忘念実が、今ここにある」
「…………」
今、この時までは。紅茶の水鏡の中に映る光景は変わらないまま。透明な液体の中に白い実がいくつもと浮いている。見間違いであればどれだけよかったか。それはイファさんが見せてくれたイラストのものと酷似していた。リュックを開いて生物図鑑を見ても同じ答えが返ってくることだろう。
開いたパンドラの匣の中には、開けてはいけない絶望が詰まっていた。フルフを見つけたいだけだったのに、どんどん大きな渦潮に巻き込まれていっている気がする。その事になにか末恐ろしいものを感じながらも、私は口を開いた。
「……ミハイル・マスクが何をしようとしているかはわかりませんが」
「…………」
「仮に彼がフルフと何の関係がなかったとしても、忘念実のことは止めなくちゃいけないことだと思います」
ただ一つ、幸いなことがあるとしたら。あの瓶の中身はたっぷりと詰まっていて、開けた形跡がなさそうなところ。他に瓶があった場合を置いておいて、このパンドラの匣は開かれていないのではないか。まだ私達は、悲劇が繰り返されることを防ぐことが出来るのではないか、その点だ。
フルフのことが一番大事。その優先順位は変わらない。ただ、だとしても彼のことは止めなくては行けない。彼が何をするにしたって、ろくなことでないことはわかっている。それをこのまま放っておいて誰かが犠牲になるようなことがあれば、私は一生後悔するから。
「協力していただけますか、イファさん」
「……その言葉、そのままそっくり返すわよ」
真っ直ぐにイファさんを見つめて、ただ希った。その言葉をどう受け止めたのだろう。彩られた唇は何か言いたげに歪んで、けれどそれを飲み込んで。そして小さな溜め息と共に、彼女は立ち上がった。その頭が深く下げられる。
「貴方たちの従魔のことを差し置いても、あたしはあいつを問いつめなくちゃいけなくなった。是非協力してちょうだい」
「勿論です。……ヒナちゃんとこっくんも、いいかな?」
改めての協力関係だ。フルフを見つけ出すこと、そしてミハイル・マスクの目的を割り出し忘念実を回収すること。彼が逃げ出してしまう前に、それらをどうにか達成しなければならない。当然私に否は無い。そしてきっと、二人だって。
「……うん! ひどいこと、させない!」
「まぁついでだし。一生出れない牢獄に閉じ込めるなら、それはそれで都合もいいと思う」
頼もしく頷いてくれた二人に思わず笑みを零しつつ、私は自分の手を強く手を握りしめた。……ちょっとだけ、震えている。リンガ族の話を聞いた時からこうだった。多分怖いのだろう。下手に攫われた経験がある分、もしかしたら自分を同じことになっていたかもしれないという恐怖が背筋を這い回るのだ。
けれど怯えていては、真実を見つけるための目は曇ってしまうから。ふぅと深呼吸を一つ。フルフを探すためまた水源同士でのジャンプを始めたこっくんに協力するよう、紅茶の水面を見つめる。どうか、どうか、あの子がここに居ますように。そしたら助け出して、あとはミハイル・マスクを捕まえることで決着が付くのだから。
しかし祈りも虚しく、飛んだ水源のどこにもフルフが映り込むことは無かった。




