三百十五話「冠の水」
私達を連れたイファさんは、迷うことなく船内内部の階段を次々と降りていった。その足取りは真っ直ぐに一番下の第三デッキへと向かって行く。……思えば、私が第三デッキにまで行くのは初めてのような。
シロ様やこっくんは船全体の様子を確かめる際に第三デッキにも赴いたことがあるが、その際私達が降りるのは止めた方が良いとも言っていた。第三デッキには善良な貴族の人もいるが、それとは正反対にあまり素行が良いとは言えない人も居る。たとえばさっきヒナちゃんを無理やり攫おうとした彼のように。だから下手に目を付けられないよう、私達は第三デッキはおろか第二デッキにもあまり立ち入らないように。というのが二人の意見だった。
「着いたわよ、入って」
「あ、はい……」
第二デッキにはヒナちゃんの治療に付き添う形で入ったことはあるが……と若干ドキドキしながら、上の階に比べて扉同士の間隔が倍くらい広いフロアに降りた私達。もし知らない貴族の人に絡まれたら、と不安に思うも一瞬。イファさんの部屋は階段のすぐ側にあった。これでは絡まれるも何も無い。
若干拍子抜けしつつ、扉を開けてくれたイファさんの厚意に甘える形で部屋へと入る。私たちが暮らしている複数人用の部屋よりもずっと広いその部屋は、正直船の中の一室とはとても思えなかった。こ、これがスイートルームってやつだろうか。こんなに広くては生粋の庶民育ちとしては少々落ち着かない。いやまぁ、ミツダツ族の人に用意してもらった部屋はこれくらい広かったけれど。
「そこにかけて。お茶を用意させる」
「えっいえ、お構いなく……」
「長話になるわ。あたしの前で聞き苦しい声を紡ぐつもり?」
「アッお願いします……」
ついでにイファさんを相手にするのも、色々緊張するというか。控えていた使用人さんらしき人に指パッチンで合図を送ったと思えば、一人がけのソファに緩慢な動作で腰をかける。そのままこちらを見つめたイファさんのその姿は、まさに女王様といった貫禄だった。これで私の一つ下だなんて信じられない。いやまぁ貫禄で言ったらシロ様もかなりのものだが。
「……貴方がミコであってるわよね? 黒髪黒目。見たことの無い異国の服装を纏っていて、眼帯をしている」
「は、はい」
「シロ……って子は居ないのね。白髪で白と黒の異色が混合した瞳。儚げな美貌だが、纏う雰囲気は一流の戦士……」
「…………」
お茶はすぐに用意された。ズラっと湯気を立てて並ぶ三人分のティーカップと、対面側にもう一つのティーカップ。三人で並んで座ってお茶を飲む私たちを前に、イファさんはぺらぺらと何らかしらの書類を捲りだした。大方そこに私達の特徴が並べられているのだろう。そんなに私達について書くことがあるのだろうか、と少々気になるところではあるが。
「で、貴方がコク。黒髪黒目で首を隠したレイブ族の少年。法術の腕はかなりのものだから怒らせないようにって書いてるけど、エーナでなんかやらかしたわけ?」
「……別に」
「そ、まぁいいわ。大事なのはここからだから」
「……?」
……と思ったが、そういえば私達はあそこで色々やらかしたのだった。いやまぁ、コダなんちゃら様の騒動も霧雪大蛇との戦いも巻き込まれた側ではあるのだけれど。怒らせないように、ってのは多分こっくんがあの時私を殺そうとした人を抹殺しようとした件についてのことだろう。
しかし大事なのはここから、とは? 特にこっくんの事については触れず、また一枚書類を捲って足を組んだイファさん。彼女の視線はこっくんからヒナちゃんの方へと向けられる。紫の瞳は暫くヒナちゃんを見定めるように縫い止められていたが、首を傾げるヒナちゃんを見た瞬間に柔らかく綻んだ。
「ヒナ。赤い肩までの髪と瞳のムツドリ族の少女。人間との間に生まれたハーフでありながら赤い翼を持つ……が、年齢と経歴から考えるに『枯渇死事件』とは無関係の可能性が高い」
「……!」
枯渇死、事件。それは公には秘されている事件だったはず。それを何故、彼女が。動揺からカップを揺らした私を見て、イファさんは艶やかに微笑んだ。優雅な仕草で用意されたティーカップを取った彼女はお茶を一口含むと、ソーサーにカップを戻す。
「改めてまして自己紹介。あたしの名前は、アーシャ・イファ。カネラさんと同じ、枯渇死事件について追っている組織……『冠の水』っていうところに属しているの」
「かんむりの、みず……?」
「そう。枯渇に抗うための組織よ。この組織の存在は本来極秘情報なのだけど、貴方達には話す許可が降りたから話してあげる」
冠の水。それは店長さんから聞いたことがない名前である。思えば彼女からは枯渇死事件とその件にシロ様が見たという赤い羽が関わっている可能性が高い、ということ以外はさっぱり聞けていないのだった。あの時霧雪大蛇を倒した直後にミツダツ族の使者の人達が来たから、店長さんとの別れはろくにさよならも言えない形だったし。
ところで、冠の水。それは水分が全て奪われて消えていく枯渇と、対するようにつけられた名前なのだろうか。そんな組織があったなんて、ミツダツ族のところで見た資料には書かれていなかったような気もする。いつどこでどんな事件が何件起こったか。あそこで見たのはそれだけだったが、それには何か理由があるのだろうか。
「冠の水に属している人間は世界中に居る。それはもうカネラさんのように大都市を管理している辺境伯から、あたしみたいな一介の伯爵令嬢。中には平民だって。で、そういう人たちの共通点ってわかる?」
「……事件に関わったことがある、とか?」
「あら、ぼんやり顔にしては判断が早いわね。でも不正解。確かにそういう人間は多いけど、カネラさんみたいに好奇心で首突っ込む変人もいるのよ」
イファさんが一介の伯爵令嬢かどうかは置いておいて。冠の水に属している人達の共通点、か。事件に関わりがある人が自然と……という推測は一瞬で浮かんだが、どうやらそれは外れらしい。さりげにぼんやり顔と罵倒された気がするが、まぁくっきり晴れ渡る美少女に比べれば私の顔などぼんやり曇り模様顔だろう。
共通点、共通点……。いや、ちょっとヒントが無さすぎないか? 事件に関わったことがあるがバツなら、事件被害者の肉親者も当然バツになる。知ってる冠の水の人の共通点から当ててみるか? イファさんと店長さんの共通点……び、美人くらいしか思いつかない。
「……人間」
「え?」
「人間、で合ってる? ミツダツ族の資料にあんたらの名前がなかったことと言い、最初に『世界中の人間が』って言ったように、獣人と幻獣人は冠の水に属していない。どう?」
しかし私と違ってこっくんは優秀だった。人間。そんな共通点は最初から私の頭の中にはなかった。だって私が生きてきた世界には、人間以外に人類と呼ばれる存在は居なかったから。でも確かにそうだ。それなら、ミツダツ族の資料に冠の水の名前がなかったことも頷ける。
「……正解。レイブ族の人にするクイズにしてはお粗末すぎた?」
「別に。で、結論から話してよ。冠の水が人間だけで構成されている理由は? あの男装の人が意識不明ってどういうこと? それと、俺達の質問に答える気はある?」
「はいはい。遠回しに話して悪かったわよ」
でも、どうして冠の水には獣人や幻獣人が存在しないのだろう。人間だけで構成された組織を作る必要があったというのだろうか、一体何のために?
イファさんがゆったりと口角を上げて頷いたのを見てか、苛立ったように瞳を細めながら矢継ぎ早に問いかけたこっくん。私としてもその気持ちは少しわかる。フルフのこと、そして店長さんのこと。二つの不安が重なっているのに、イファさんはまるで私達を試すかのように遠回しに話をしているように思えた。何が目的なのか、それとも『試す』こと自体が目的なのか。
「じゃ、まずは彼女の容態とそうなった経緯について話そうかしら」
ひとまず、ようやっと本題に入ったようだ。未だ入らないシロ様とアオちゃんの連絡にじりじりと焦げるような焦りを感じながらも、私は口を開いたイファさんの話に耳を傾けた。




