二百九十二話「雛はもう卵の外」
「……ん、」
「っ、ヒナちゃん!」
「ピュッ!!」
それから、どれくらいの時間が経っただろう。タコが倒され船が直ったことでか添乗員さんが部屋に来て説明を求められて、そうこうしている内に事情を説明するためシロ様とこっくんが部屋を出て行って。
アイさんもまた、中々戻ってこないジョウさんを探すと部屋を去っていった。そして残された私とアオちゃん、それとフルフは去っていく面々に「気をつけて」と声をかけながらも、ただヒナちゃんが起きるのを待っていたのだ。こっくんの見立てだと、近いうちに起きるということだったので。
「……あれ、お姉ちゃん……? アオ、お姉ちゃん……?」
「っ、わ、わかる!? あたしのこと!」
「うん……? わかる、よ」
そして今、その時が来たということである。ヒナちゃんに名前を呼ばれたことに反応してか、がばっと勢いよく立ち上がったアオちゃんはヒナちゃんの手をぎゅっと握った。その勢いに困惑しながらも、ゆっくりと頷くヒナちゃん。不思議そうなその表情にアオちゃんの瞳は徐々に潤んでいき。
「う、う〜っ……! ご、ごめんねヒナちゃん……!」
「え、あ、アオお姉ちゃん……!?」
「あたし、ヒナちゃんの王子様になるって言ったのに。ちゃんと、ちゃんと守ってあげられなくて……!」
ぼろぼろとサファイアのような瞳から零れだしたのは大粒の涙。それにぎょっとする私達を置いて、アオちゃんはぶんぶんと強く首を振った。一生懸命泣くのを堪えているようだが、それでも涙が出てきてしまうらしい。ヒナちゃんが無事起きた安堵で涙腺が緩んでしまったのだろうか。
ヒナちゃんの、王子様。それについて私はよく分からないけど、はぐれていた間にそんな約束でも交わしたのだろうか。起き上がり、困ったようにこちらへと視線を向けてくるヒナちゃんに向けて首を傾げる。頼りにならないお姉ちゃんで申し訳ないが、今回ばかりは私にもどうしようもない気がする。だって、アオちゃんが待ってるのはヒナちゃんの言葉だ。
「えっ、えと、ええと……あの、あのね」
「……うん」
「あの猫のお兄さんを治した時、わたし、すごく苦しくて。もう死んじゃうかな、やだな、皆にもういっかい会いたいな、って思ったの」
「…………」
それが伝わったのか、ヒナちゃんはしどろもどろに口を開いた。重ねられていく言葉には真摯さが滲み、それと同時に彼女の味わった苦痛も感じられる。我慢強いヒナちゃんが死んじゃうかもと思うくらいの苦痛。それを思えば自然と心は曇り空になった。ヒナちゃんが力の使いすぎで倒れたのはわかるけど、そこに至るまでに何があったのかを私は知らない。
傍に居られたらと思うのに、でもあそこにいなければこの船は無事だったのだろうかという思考も浮かぶ。今更言っても仕方ないことだし、私のやったことに意味があるとは思いたいけれど。でも、それでも、そんな苦痛をヒナちゃんに味わって欲しくなかったというのが姉心なわけで。
「そしたら急にね、ぽかぽかしたの」
「……ぽかぽか?」
「うん、お姉ちゃんにぎゅってされてるかんじの、ぽかぽか」
……でも私の知らないうちに痛みを背負って、そうして大きくなっていくのが妹というものなのだろうか。アオちゃんの手をぎゅっと握りしめてへにゃりと微笑んだヒナちゃん。そのヒナちゃんの言葉に、アオちゃんの涙は止まった。濡れた瞳に大きく映し出されるのは、まっさらな赤い瞳。
「こっくんお兄ちゃんのひかげみたいなおちつく、守ってくれるかんじの力が流れてきてね」
「……うん」
「それでね、おててがあったかかった。アオお姉ちゃんがおんぶしてくれた時とおんなじ、あったかさだったの」
いつかは口すらも開くことなんてなくて、ずっと誰かを恨まないように傷つけないようにと心を殺し続けて。でもそんな卵にはゆっくりとヒビが入っていった。雛だった小鳥がいつか空を羽ばたくように、ヒナちゃんだって成長する。誰かに心を伝えられるように、そういう風に話すことが出来るようになった。
「助けてくれて、ありがとう」
「……ヒナちゃん」
「……あとね、あのね。アオお姉ちゃんはね、お姫様にも王子様にもなれるよ」
「……!」
「かわいくて、きれいで、かっこよくて、やさしいから!」
日向が差す方向に歩んでいくだけじゃなくて、誰かに日差しを届けられるようになったのだ。ヒナちゃんの笑顔に、またアオちゃんは泣きそうになって。でもお姫様か、それとも王子様か。その言葉にぐっと堪えたみたいだった。
目元を強く拭ったアオちゃんが、言葉もなくヒナちゃんをぎゅっと抱きしめる。その時私の肩に乗ってきたフルフは、空気を読んでか珍しく何も言わないみたいだった。でもつぶらな瞳は、じっとヒナちゃんだけを見つめていて。それだけでこの小さな毛玉がヒナちゃんを心配していたのは痛いほどに理解出来た。
「……ヒナちゃんも、ヒーローだよ」
「!」
「あたしにとっても、助けた人にとっても、ヒナちゃんはきっと可愛くてかっこいいヒーローだったよ」
「ピュッ!!」
「わっ、フルフちゃ……!」
「えっ、ちょっ、……!?」
……まぁその我慢は、あんまり長くは続かなかったみたいだけど。そうだぞ!!と言わんばかりの鳴き声を上げたフルフは、我慢の限界だったのかヒナちゃんの方へと飛び込んでいく。その衝撃のせいか、アオちゃんごとベッドへとダイブして。
「ちょ、も〜! いい感じだったでしょ、フルフちゃん! 邪魔しないで!」
「ピュ〜」
「あ、煽ってるなこれ? もう、ぎゅってしちゃうからね!」
「ピュイ!?」
「ふふ、なかよし」
さっきまでの噛み締めるような穏やかさとは裏腹、柔らかな喧騒が部屋に満ちていく。アオちゃんがフルフを両手でぎゅうっと揉めば、途端に悲鳴を上げたフルフにヒナちゃんが楽しそうに微笑んで。
ただ良かったな、ってそう思った。危険な状況下で、命が喪われる中で、それでもこんないい形に収まったこの子達が居ることが。人によっては恨むかもしれない。私達は失ったのに、なんでこの子達ばかりなんて。けれど何も得るものがなければそれこそが悲しいことだと、私は思うから。
「……ヒナちゃん」
「っ、お姉ちゃん!」
「アオちゃん」
「……? なぁに、ミコ姉」
静かに名前を呼べば、それだけで二人の視線はこちらへと向けられた。きらきらと輝く赤い瞳と、ゆっくりと和んだ青い瞳。対象的な色彩がそれでも優しく交わっていることに安堵しつつ、私はそっと二人の頭に手を乗せる。そのまま髪が乱れないように、優しく撫でた。
「二人ともお疲れ様。頑張ったね」
「……えへへ」
「……ふふ、もっと褒めていいんだよ?」
ヒナちゃんにはあんまり無茶をしないようにってお説教をするべきなのかもしれないけれど、今はとりあえず頑張った二人を褒めてあげたくて。アオちゃんに関しては二回目になるかもしれないけれど、それでもやっぱり。
邪魔をしてしまうかな、と一瞬心配になったがどうやらそれは杞憂だったらしい。突然の横槍にも構わず、二人は嬉しそうに微笑んでいた。うーん、可愛い。こんな娘が居たら絶対嫁に出したくないな……などと考えながらも、アオちゃんのリクエストにお応えしてよしよしと二人を撫で続ける。色々疲れた心も癒されていくようだ、とほっこりしたところで。
「……ピュッ!!」
「うぐっ!」
「!? お姉ちゃん……!」
突然私の顎を襲う、衝撃。ふわふわとした毛の感触を感じることすら出来ず、喰らったアッパーに私は思わずよろめいた。なんなら後ろに尻もちを付いた。シロ様が居なくてよかった。ワンチャン今私に攻撃をしかけた毛玉が、驚異的な握力でお仕置きされるところだった。
「ピュイピュイピュー!! ピュ!!」
「……フルフちゃん、自分がほめてもらえなくておこっちゃったみたい」
「だからってミコ姉に頭突きはダメでしょ!」
成程、自分を褒めて貰えなかったが故の仕返しらしい。キャンキャン鳴くフルフと、それを困ったような声で翻訳するヒナちゃん。そして呆れたようにフルフを諌めるアオちゃん。そんな三者三様の声を、私はどこか遠くに感じながら聞いていた。なんせ先程の頭突き、いや体当たり?のせいでまだ目の前にお星様が散っていたので。




