閑話「異世界の少女」
『っ、だ、大丈夫!?』
どこか怯えたような、震えたような、知らない声。その声を聞いた瞬間のことを、恐らくシロガネは生涯忘れることはないだろう。深い茂みを探るように這い出てきた黒い瞳と、目が合ったその瞬間を。その色に、人を殺すという狂気がなかったこと。ただこちらを案じるかのように、不安に揺れていたこと。それにどれだけ安堵したかなんて、今目の前でリュックを目の前に唸っている少女に告げてやる気はないけれど。
「うー、やっぱ抵抗あるなぁ……」
古びた小屋の中、ここに居るのはシロガネと彼女だけ。昨夜彼女が寝落ちてしまった時も、散々と確認した周囲の気配。それが今日も変わりないことに安堵しつつ、シロガネはそこで瞳をそっと閉じた。そうしてそのままシロガネは、深い追憶の中に落ちる。どこか不安そうに揺れている彼女の声だけは、聞き逃さないようにしながら。
シロガネは、少し前まではただの子供だった。今のような老獪な落ち着きや、強靭な精神を持ち合わせることもない。……いや、思い返せば子供らしくないと、周囲にからかわれたことは数えられない程あった気もする。瞳があろうとなかろうと、本質は存外変わらないのかもしれない。例えばこの瞳があっても、父の気質はシロガネとは反対の賑やかな方向であったわけであるし。
まぁそんな粗暴ながらも朗らかな父、優しくも厳しい母、そして女と言えど立派な戦士だった姉に庇護される存在。シロガネは日々次期当主となるべく勉学に励み、鍛錬を積み。そんな日常に不満はなかった。将来は自分が父のように立派な当主になって家族や民を守るのだと、ただ愚直に信じていたのだ。
しかし、それはある日呆気なく壊れる。いや正確には奪われたと、そう言った方が正しいだろうか。何の前触れもなく起こった、叔父ビャクの反逆。父は信じていた弟に裏切られあっさりと命を落とし、祖父祖母や母はシロガネを守るために犠牲となった。クドラの瞳が自分の目に継承されるのを感じながら、シロガネはただ呆然と自分を守るように抱えて走る姉の腕の中に居ることしか出来なくて。
姉が駆ける。その間に目前を過ぎていったその光景を、シロガネは何一つ忘れること無く覚えている。叔父の手の者によって殺されていく無力な使用人たち。弱くとも何が起こっているかわからずとも、それでも当主の子供である自分達を守ろうと肉壁になる者も居た。逃げ惑うことも泣き叫ぶことも出来ず、ただ首を飛ばされた者も居た。シロガネが守ろうとしていた者達は、そうして呆気なく命を落としていったのだ。
その瞬間にクドラの瞳が宿ったからこそ、まだ幼かったはずのその心は壊れなかったのだろう。けれど瞳が宿ったからこそ、シロガネは目の前の惨劇を余すこと無く全て理解してしまった。苦しくて手を伸ばしたくて、しかし伸ばすことは許されない。何故ならばクドラの瞳を宿したシロガネは、もうクドラの当主だったから。
例え何を犠牲にしても、この裏切りの惨劇から生き残らなければならなかったから。
『ねぇ、お願いシロガネ』
死に際、一人の姉として戦士としてシロガネを守りきった姉の言葉。狭い離れ屋の中、血塗れで自分を法陣へと座らせた姉の姿はぼろぼろで、けれどその瞳は依然と死なぬまま。シロガネと同じ白皙のその手が、真っ赤に染まってシロガネの頬をなぞる。それは生者らしく温かくて、しかし段々と冷たくなっていった。
自分はその時、何を言ったのだろう。弱々しく姉の名前を呼んだのか、それとも何も答えられずに彼女を見つめていたのか。あの混乱の場の真っ只中、クドラの瞳が宿ったばかりのシロガネでは全てを把握することは出来なくて。けれどただ、最期に儚く笑った姉の言葉はこの耳に焼き付いている。
『いつか、この日の惨劇を……日の下に詳らかに』
それきり、瞼を閉じた姉が何かを告げることはなくて。ただシロガネは、徐々に冷たくなっていくその亡骸を抱きしめていた。法陣は生者のみを連れ出す陣。死人である彼女をこの戦場に置き去りに、シロガネはここから逃げ出すことになる。それが悔しくて、ただただ無念で、でもシロガネにはどうしようもなかった。叔父の首も取ることすら出来ずに、逃げることしか出来なかったのだ。全てはクドラの瞳を、裏切り者となったあの男に渡さないため。
『逃さぬ!』
……しかし、それすらも自分は全う出来ずに散りかけた。思い出した瞬間、強い痛みが走った気がして思わず左目を抑える。当然触れたその指に赤が伝うことはなかったが、それでもあの瞬間の絶望はそう簡単に頭から消えてくれはしないらしい。
重い溜息を吐いて、シロガネは伏せていた瞳を開いた。正面にはこちらの様子には気づかず、恐る恐るとリュックの中に手を入れている少女が居る。それを見れば胸を乱した感情は、段々と凪いでいって。そうだ、これが現実だ。貫かれた瞳が戻ることはなくとも、それを彼女が補完してくれた。シロガネは何一つ失わず、今を生きている。今、目の前にいる少女のおかげで。
法陣で移動する瞬間、自分の体を貫いたのは二本の槍。声から判断するに、恐らくクドラの瞳である左目を貫いたのはビャクなのだろう。ただその瞬間のシロガネは、何が起こったのかもわからずに法力の渦の中に取り込まれ。そうして気づけばシロガネは一人、どこかもわからない森の中に居た。全身を苛む痛みと共に。
腹の傷は、見ればわかる。だが瞳の傷は、見なければわからない。自分の体を痛みが埋め尽くしているのはわかって。されど体中が傷だらけだったせいか、その痛みがどこから来ているものなのかもわからなかったのだ。緊張状態が続いた脳内では、クドラの瞳の再生能力が効果を発揮していないことにも気が付けず。
『ごめん。手当、どうすればいいかわからない。貴方が知っているなら、教えてほしい』
だからこそ申し訳無さそうな顔をした少女の、その瞳を見るまで気づけなかった。その黒の瞳の中に映った自分を見て、シロガネは初めて気づいたのだ。自分に宿ったクドラの瞳が割れてしまっていることに。
そこからはもう、絶望でしか無い。家族が、使用人たちが、姉が、自分を命懸けで守ってくれたというのに。それに何も報いることが出来ないまま、自分は死ぬ。腹の傷は致命傷だった。クドラの瞳さえあれば治るだろうが、それも壊れてしまった。それならば自分に待ち受けているのは、死のみだ。何にもならない、無為にしかならない、希望の一欠片もない。そんな、命の終わり。
『……じゃあ、あげようか?』
……その絶望を塗り替えたのが、少女だった。諦めたシロガネに、散るだけのシロガネに、しかしそれでシロガネが助かるのならとそう笑って。そして少女は、シロガネの両目の眼孔に重ね合わせるように視線を合わせた。その瞬間、左目に感じたのは痛みとは別種の熱で。
その声を最後に倒れ込んだ少女を抱えながら、シロガネは呆然と修復されていく体を見つめていた。傷に気づいてから痛みを主張するように叫んでいた左目は、徐々にその声を抑え込んでいき。それが完全に収まれば、擦り傷だらけだった体や、致命傷だった腹の傷も徐々に治っていく。奇跡だと、そう思った。体とは違い治るはずのないクドラの瞳が、修復されたのだ。
怒りはまだ、心にあった。どうしてという嘆きも、起こったことを理解できない感情も、まだ心を占めていた。けれどそれすらも吹き飛ばした奇跡を、なんと言葉にすればいいだろう。自分の絶望を、これからに塗り替えてくれたのは一人の少女。出会ったばかりの人間に瞳をあげると笑顔で言うような、そんなお人好し。
やがて傷が完全に修復されたのと同時、シロガネは少女を抱えて立ち上がる。何が起こったのかはわからずとも、少女が自分を救ったのは明白だったからだ。仮にそうじゃなくとも、意識を失った少女を森の中に置き去りにするわけにもいかなかった。少年であれど幻獣人であるシロガネにとって、少女の重さは何の妨げにもならないわけであるし。
抱えづらいという理由で荷物を置いて、シロガネは森の中を彷徨った。何とか少女を寝かせてあげる洞穴でもないかと、安全地帯を探し回ったのだ。そうして、結果として寂れた小屋を見つけることに成功した。そこに置いてあったベッドの埃を軽く払い、少女を寝かせて。
「……シロ様、どうしたの?」
「……いや、何も」
そこから先のことは、語るまでもないことだろう。そこで漸く視線に気づいたのか、少女がこちらを不思議そうに見つめてきた。それに軽く首を振れば、少女はそっかと呆気なく納得して。その素直さは、美徳というべきか愚かというべきか。恐らくそれを長所にするか否かは、周りの人間次第なのだろう。
シロガネを助けてくれたこの少女の名前をミコト。恐らく稀人である彼女は、シロガネから見ればひどく無垢な存在だった。恐らく自分よりは歳上なのだろうが、それでも彼女はどこか幼い。誰かに迷惑を掛けるのを過剰なまでに拒み、切り捨てられることを恐れる。それは彼女が異世界から来た人間だからなのか、それとも彼女自身の資質であるのか、シロガネにはそこまではわからないけれど。
ともかく小さなことを気にする人間であることはわかっている。なんせ不思議そうにこちらを見つめるその表情は先程まで、怯えと恐怖に歪んでいたので。流石に腹が立ったものだ。要らない子、だなんて。シロガネにこれ以上無いくらいの過剰な程の救いを齎しておきながら、全くとんだ無自覚なお人好しが居たものである。素直さと相まって弩級のお人好しとは、悪人に捕まれば食い物にされるのがオチだろう。
「あ、もしかして気になったの?」
「……まぁ、そうだな」
「それならおいで!」
だがそれでもシロガネは、彼女のそれらを短所ではなく長所にしたい。シロガネが頷けば、疑いを知らない瞳が柔らかくほころび手招きをする。片方が空いているその瞳は、口さがない人が見れば不気味だと謗るものなのだろう。その裏にあった彼女の優しさや強さを全て蔑ろにして、無責任に人はそう告げるはずだ。
それならば、シロガネはそれらの全てから彼女を守ろう。救ってもらった対価というわけではなく、単純にシロガネが不快だから。自分の恩人を謗られて笑っていられるわけがない。彼女にはない力を持って、シロガネは彼女に向けられる侮辱や暴力、その全てを屠ってみせよう。そのために更に強くならなければ。姉との誓いを果たすためにも、戦士として死ねなかった父の無念を晴らすためにも。
それを後押しするように、父と彼女から受け継いだ瞳は強く熱を灯している。
「ほら、これ地理の教科書! もしかしてだけど、全部この辺の地名になってるかも」
「……お前」
しかしまずはともかく、この世界の正確な地図がどれだけ貴重かを知らない彼女にそのことを伝えなければならないけれど。無知で無垢で、しかしその荷物があまりにも非常識過ぎるミコト。どうやらシロガネが彼女を全てから守りきるには、父をも超える強さを手にしなければならないらしい。全く、手がかかることである。




