二話「落ちた先は何故か大森林」
マンホールから落ちて、そうしてあれからどれくらい経ったのだろう。体感では数分程、現状私はまだ落ち続けている。終りが見えない落下。絶えること無く下から吹く風に、私の髪はぐちゃぐちゃになっていることだろう。
ここまで来てさすがにいよいよおかしいぞと、私は瞑っていた瞼を開けた。開いた先の視界は相変わらず真っ暗、ここだけはマンホールの中らしくはある。だが流石に、そろそろ地面に叩きつけられてもいいのでは? 人が少ない田舎町のマンホールの下、それがこんな長時間の落下が続く大空洞なわけがないのだから。
「……え!?」
落下は終わらず、考えたところでこの謎の解明は出来ないまま。しかしそこで私の視界に光明は見えた。問題解決に繋がる糸口という意味ではなく、文字通りの光明かりが。長い間暗闇が続いていた世界、だが今私の足元には光が見えている。マンホールの下にはありえないだろう、太陽が射すかのような清々しい光。そこに抵抗も出来ないまま飛び込んだ瞬間、私の世界はぐるりと反転した。驚愕のまま、怯える余裕もないまま。
「……っぐ、」
光に飛び込む、視界が巡る、体が軸を失って回転して上下を見失う。浮遊感に胃の中をかき混ぜられるような不快感が交差して、目眩が実体を持って頭を殴りつけた。呼吸になり損なった息が口から零れ、ぐぐもった言葉が意識外で零れていく。一瞬意識が遠のいて、叩きつけられるような衝撃を味わって。
それは全て一瞬の出来事だった。知覚するのも難しいほどに、一瞬で巻き起こっていった出来事。しかし長い間の浮遊感で私の感覚が馬鹿になっていたのか、私は一瞬の間のそれを余すこと無く実感してしまった。言葉にならない不快感に吐き気が生まれる。だがそれでも私は、瞼を閉じなかった。何に抵抗しているのか自分でもわからないまま、瞼を開き続けて。そしてだからこそ、世界の変容を私は目にしてしまった。
「……え?」
体内の環境を全て乱していった光が明けた先、私はいつの間にか地面に足を付けていた。何故か怪我一つ無い、五体満足の形で。ぺたりと両膝を地面へと付ける形で、私は地面へと座り込んでいる。理解できない状況に、間の抜けた声が零れた。最もそれを笑うような存在は、ここには居なかったけれど。
濃い土と植物の匂い。何かに導かれるかのように視線を上げれば、光すらも射さない程に茂った緑が私の頭上を埋め尽くしている。ほんの僅かに隙間から射す木漏れ日がなければ、真っ暗だったかもしれない。それこそマンホールの中とすら、見分けがつかない程。
「も、り……?」
見開かれた瞳の中、一面に映るのは緑だ。それも現代日本では山などに赴かなければならない程の、雄大な。何故マンホールから落ちてきて、私は森の中に居るのだろう。そもそも何故地下へと落ちていったはずなのに、まだ上に木漏れ日を降らせている太陽があるのだろう。いくら考えてもその疑問への答えは出せないまま、私は地面に手と足をつけて座り込んでいた。
「…………」
整理しよう。私はお使いの帰り道、足元が不注意だったせいでマンホールから落ちた。お使いをしていたという状況は、手で握ったエコバッグが証明している。あの長い落下時間の間、エコバックを離さなかった自分の根性を褒めるべきか呆れるべきか。勿論学校用に使っているリュックも離れることがないまま、私の背中にある。
そうしてマンホールから落ちた私は長い長い落下時間の末、謎の光に呑まれた。そうして何故か今、見たこともないような森の中にいる。駄目だ、冷静に努めて考えたところで光から森が繋がらない。あの瞬間に味わった不快感と光が晴れる瞬間は確かに頭にある。だがそれでも、私の感覚ではこうとしか言い表せないのだ。光が晴れたらいつの間にか森に居た、と。
「……夢、じゃないよね」
考えたところで答えは出なかったが、整理したことで少し冷静にはなれた。夢かと期待して地面をなぞったところ、指へと伝わった触感は現実味がありすぎて。思わず私は顔を顰める。恐らくこれは夢であるわけでも、走馬灯のような幻覚でもない。理解は出来ないが間違いないく現実として、私はこの森の中にいる。落下して体が真っ赤に弾けなかっただけマシだと思うべきか、理解の範疇外の世界へと投げ出されたことを嘆くべきか。
「はぁ……」
思わず溜息を零しながらも、私は体育座りという態勢で座り直した。生きていただけ良かったとそう思おうとしても、見知った場所から未知の領域に投げ出された不安は消えない。慣れ親しんだエコバックとリュックだけが、今の私の拠り所だ。後は、今身につけている制服だとか。
これからどうするべきか。何とか人里を探して保護を求めるべきなのだろうが、この左右どころか上下すらも見失いそうな深い森の中をどうやって抜け出せばいいのだろう。そもそもここは日本なのだろうか。道が道であったことだし、言葉が通じない外国ということも考えられる。果たして私は無事に家に帰れるのだろうか。そんな不安ばかりがじわじわと心を埋め尽くしていった。膝に顔を埋めて、後ろ向きな思考を何とか押し殺そうとする。そんなことをやっている場合ではないとわかっていても、不安は胸から消えてはくれなかった。誰かに助けてほしいと、そんな感情ばかりが頭を埋め尽くしていく。
「っ……ぐ……!」
「っ!?」
しかしその瞬間だった。到底人が居るとは思えないほど深い森の中、だがそこで私の耳が捉えたのは確かな人の声で。呻き声にも似た苦しげな声に、力なく座り込んでいた私は弾かれたように顔を上げた。一瞬だったが確かに聞こえたのだ。まだ幼くも聞こえる、何かの声が。
「誰か居るんですか!?」
声を張り上げたところで、返事はない。先程の声は自分の不安が生み出した幻聴ではないかと一瞬迷って、けれど私は立ち上がった。幻聴でもなんでも、家に戻る救いかもしれない糸に手を伸ばさなければ。そうして立ち上がった瞬間、しかしそこで鼻を掠めた匂いに私は凍りついた。
鉄錆のような、おどろおどろしい匂い。ひゅっと息を呑みながらも、私はその匂いがした方へと恐る恐る視線を向ける。そこにあった茂みの緑を染め上げる赤に、一気に血の気が引いていった。私は自分の現状ばかりを考えていたせいで、気づけていなかったのだ。自分の近くに、血だらけになって倒れている存在が居ることに。
「っ、だ、大丈夫!?」
自分の現状も窮地も全て忘れて、私は血溜まりへと駆け寄る。流石に夥しい程に血を流している人を見て助けてほしいと思うほど、腐っては居ない。寧ろ自分が助ける側に回らなければ。がさりと漁るように茂みを探れば、そこには確かに人が居た。しかし私はそこに倒れていた存在に再び、息を呑むことなる。
「……こど、も?」
そこに倒れていたのは、私よりも年下に見える少年で。呆然と呟いた私を、息も絶え絶えな少年は貫くように睨みつける。血に塗れた体で、片方が抉られた白銀の瞳で。木漏れ日に照らされ輝く、血に濡れた白銀の髪を持つ少年。現実味のない美貌を持ったその少年の頭には、何故か動物の耳のようなものが生えていた。