閑話「雪の結晶を手のひらに」
吹き荒れ舞い散る積もり積もった粉雪。凍りついた湖はしんと静まり返って、返事を返す者など誰も居ない。夕の気配が濃くなり、空に赤と紺の断層が作り上げられる中、男は黙ってそこに立っていた。白と色づいた風が己の黒髪を揺らすのを、全くと言って良いほどに気にかけないまま。
薄いベールのような白い手袋、それで包まれた手のひらが小さな結晶を摘む。夕日に小さな輝きを透かせば、やがて浮かび上がったのは一つの紋様。小さな結晶に精巧に刻まれた紋を、男はただ見つめる。己で刻んだそれに、一切の綻びがないことを改めて確認するように。
「…………」
やがてその結晶は、なだらかな弧を描いて湖へと吸い込まれていった。男が放ったのだ。ごうごうと音を立てる風に紛れるように聞こえたのは、凍りついた水面へと結晶がぶつかった音。瞬間、夕焼けの光すらもかき消すような光が辺りを染める。目を伏せた男。数秒経って再び瞼を開けば、もう光はそこにはない。さっきまで確かにあったはずの、石ころと見間違えてしまうような結晶だって。
「任務完了、と」
そこでようやく、男が口を開いた。玲瓏な声が紡ぐはどこか悪戯っぽい呟き。今しがた自分が埋めた”地雷”は、近いうちに爆発する。その結果がどうなるかなんてことは、男の頭にはなかった。ただそれが、自分の受けた命令だから。それならば自分はただ粛々とこなすだけなのだ。
そう、ただ一つの目的のために。そのためならば何人が犠牲になろうが、いっそ世界が滅んでしまおうが構わない。自分に手段を選ぶだけの余裕がないことを、男はよく知っていた。だってどれだけの時間があれど、所詮自分は傀儡に過ぎない。傀儡に過ぎない道化に求められることなど、目的をただこなすだけの従順な舞台装置としての役割だけ。それ以上もそれ以下でもない。あの日選択してしまった時から、定められた己の最期が揺らぐこともない。
それでも今の自分には、やりたいことがあるから。
「……ん、メイ?」
『あ、やっと繋がったー! ジンくん、メイだよ!』
「いや、知ってっけど」
そこまで考えたところで、耳が拾ったのは特殊な風の音。法力を繋いでその風に己の身を委ねれば、耳元から聞こえてきたのは明るい声だった。今終わろうとしている日に相応しくない、これから新たな朝日が降り注ぐかのような希望に満ち満ちた声。ふっと男の口元が綻ぶ。けれどその柔らかさは、次の瞬間には消え去って。
『あのね、今ジンくんのとこまで来てたんだけどね、メイお願いされちゃって』
「……お願い?」
『そうなの! 主様がね、悪い子が出たから”愛して”あげてって!』
染まる、染まる。僅かに光を帯びた黒が、深淵よりも深い闇に。それは到底風運の先から伝わってくる明るい声音にも、愛するという穏やかな響きにも似つかなかった。それはそうだろう。だって男は知っている。この後の彼女が何をするのか、何をやらされるのかを。
過るはふわふわな髪を揺らす無垢で明るい少女の姿。無垢故に残虐な価値観を刻みこまれ、間違った愛を執行してしまう子供の姿。それを止める術も、言葉も、男は持ち合わせていない。己が伸ばしたとて、その手はきっと彼女を悪戯に壊すだけの結果で終わってしまう。最後に待っているのは男と少女、二人の破滅だ。あの方は決して裏切りを許しはしない。裏切りと失敗は、それ即ち永遠の終わりへと繋がるのだ。
『だからメイ今から、エーナの方に行かなきゃ。ジンくんにサンドイッチ買ったんだけど、また今度になっちゃう』
「……いや、いいよ。主の言うことじゃ仕方ないだろ」
『うん。でも絶対届けるから、一緒に食べようね!』
「りょーかい。じゃ、気をつけろよ」
うん! 元気な返事と共に、繋がってた風が切れる。赤で濡れた手のひらは、無垢なままにまた汚れていく。それを止められない自分に嫌気がさしながらも、それでも男には何も出来ない。あの日差し伸べられた手のひら。それを取ってしまった時から、ずっと。
「……はぁ」
”あの人”には、感謝も恩もあった。ついていけない思想にも、こうやって手を貸してしまうくらいには。けれどそれ以上のものが今は生まれてしまった。だからこうして手を染め続けている。いつかの機会が巡ってくるまで、きっとこれからもずっと。
男は湖に背を向けた。この後ここで起こる惨劇は、きっと白い虎たちが統治する大地のあちこちで起こっている事件よりも酷いことになる。自分がそうしたのだ。あの人の願いを叶えるために、自分の目的のために。それに今更罪悪感なんて抱いたりはしない。そんな段階は、とうの昔に飛び越えてしまったから。罪悪感を抱ける人間性なんて、もうこの手のひらの中にはない。
それでもただ一つ、守りたいものがある。手のひらの中に一つ、掬い上げたいものがある。自分勝手なただのわがまま。ひしゃげて潰れた中に一つだけ残った、唯一の可能性。そのためならば何人だって死ねばいい。いくつの街だって潰れていい。いっそのこと国だって。
男は悪人だ。大罪人だ。どう足掻いたってその事実はもう、覆ることなんて無いのだから。だったら地のそこまで堕ちて、そこでこの知を己のためだけに奮おう。それが一族の掟から背いていることだとしても、もう止まることは出来ないのだから。
「……何人、死ぬかな」
その呟きを最後に男は姿を消す。その首に刻まれた甲羅と蛇の黒い紋様を、筋張った指でなぞりながら。
後日、リーレイの地にとある激震が走る。その激震は、とある一報を以て齎された。それはリーレイの西南に位置するポルカ村のシベリ湖にて、霧雪大蛇という魔物が発見されたという報告。
霧雪大蛇。それはいくつもと首を持った巨大な蛇のような魔物。氷で作られた人を容易に砕くことが出来る巨大な牙を持ち、こちらが攻撃しようとすると霧のように変化し隠れるという凶悪さから災害級と称されているその魔物は、氷上釣りに勤しみにきた釣り人たちの命を残酷に奪ったらしい。報告を受けた国は何人ものの騎士や討伐者を村へと送り、村人たちを逃した上で村を閉鎖状態に。しかし霧雪大蛇はそれ以降シベリ湖で姿を現すことがなく、地下水源を通って別の湖へと渡った可能性も考えられているとか。
霧に姿を変えることが出来る霧雪大蛇では、移動がありえない話でもない。騎士団によって齎された一報はリーレイの民を、そうして周辺国であるレイツやレイメルの民を不安の真っ只中へと突き落とした。管理者と定められている一部のレイブ族は霧雪大蛇と深い関わりがあるミツダツ族に連絡を取ろうとしているらしいが、不可侵という条約が重く未だ相手からの返答は来ず。レイブ族だけで倒すことも視野に入れているらしい。
「…………」
そこまで新聞を読んだところで、男はそれを雑に地面へと放った。結果なんてどうでもいい、そんなことを思いながらも”自分がしたこと”の結果を追ってしまう自分を嗤いながら。