百八十六話「選んだこたえ」
重い沈黙が落ちた。風に揺れる髪が時折頬を掠めるのが気にならないほどの、沈黙。きゅっと握った自分の手のひらが白を帯びていく。けれどそのまま俯くことをしてはいけない。それをもしこっくんが了承と受け取ってしまったら、待ち受けているのは一人の命が失われる瞬間だ。
猫背をやめて、しゃんと背筋を伸ばした少年がこちらを見ている。じっとじっと、先程までの子供らしさをどこかへと置き忘れて。ただ冷たい冬だけをその瞳に宿して。喉が凍りついたように言葉が出ない。それでも絞り出さなくてはいけない。間違いをそのままにしては、いけないのだ。
「……もしかして、落とすだけじゃ納得できない? それなら火の玉程度じゃなくて火の川でこいつを泳がせる事もできる。燃えながら泳ぐさまは滑稽だろうね」
「……こっくん」
「焼死は嫌? それなら土でできた箱の中に水と一緒に閉じ込めようか? 風で切り裂いてずたずたにすることだって、いっそのこと土砂で生き埋めにすることだって、」
「こっくん!」
「……!」
しかし暫くの間私が黙ってしまっていたせいか、残虐な選択肢はいくつもと並び立てられる。それに怯えた男の人は、正直今はどうでも良かった。こんなことを思うなんて人でなしだと思われるかもしれないけれど、今私はその人に多くの関心を持てなかったのだ。頭に過ぎったのはその人の命どうこうよりも、その人があの火の玉を撃ったことよりも、もっと別のこと。遮るような私の声に、動揺して目を見開いたこっくんのこと。
「……駄目、だよ」
「…………」
「その人を殺しちゃったら、こっくんは戻れなくなる」
縋っていた腕くんの指から離れて、ぎゅっと自分の胸元を掴んだ。この声、届くかな。ちゃんと彼の心に届くかな。そんなことを考えている余裕もないままに、心のままに言葉は滑り落ちていく。駄目だ、そう思った。そう思ったなら、伝えなければ。
知ってること。それはこっちの世界では、私の世界よりも人の命というものが軽いということ。法や倫理よりも権力が勝ってしまうことが多いということ。命のやり取りというものが、私が思うよりもずっとずっと軽く起こってしまうこと。それはシロ様がビャクに追手をかけられた時から、シロ様がケヤさんの話を聞いて彼を殺そうとした時から、なんとなくは分かっていた。
でも。
「人を殺しちゃいけないのは何故、って私の居た世界では結構議題にされることがあった。法律だからとか、同族同士でいがみ合うのは馬鹿げてるとか、色んなこと言われてたと思う」
「…………」
「でも私が一番しっくり来たのは、『選択肢が出来てしまうから』って答えだった。人を一度殺してしまえば、問題解決の手段としてその答えが大きくなっちゃう。それが一番的確で、正確だから」
道徳の問題か、はたまた哲学の話か。到底この場で議論するわけでないことを、私は静かに紡ぐ。いつのまにか男の人は悲鳴を上げるのを止めていた。風の音しかしない空の近くでは、私の声が孤独に響くのみ。そうしてそれを、ただ理知的にこっくんが受け止めるのみ。
「……ならいいじゃん」
「…………」
「的確で、正確なんでしょ? どうしてそれを選んじゃいけないの?」
返ってきたのは冷たい声。確かに、と呻きそうになるのをなんとか堪えた。的確で正確な選択肢が選べるようになるのを、どうして止めなくてはいけないのか。それは何故か。到底私の浅い人生経験では出せそうにない答えを、しかし今ここで出す必要がある。全ては少年一人の人生を、捻じ曲げないために。
「……重い、から」
「……は?」
「私は、人を殺すってことは……その人の人生を反転した結果を自分が背負うってことだと思う」
少し考えて、そうして答えは思ったよりも早く出た。的確で正確が正しいわけではない。そんな簡単なことを見落としてしまっていた。的確で正確、だからこそに背負うことになる代償がある。物事にはいつだって、代償がついてまわることになるのだから。
ふっと一度息を短く吐いて、そうして真っ直ぐにこっくんを見つめる。彼は変わらずにただじっと私を見つめている。他の何も知らないというように、他の何も目に入らないというように。……こっくんは頭が良い。私よりも、もしかしたらシロ様よりも。けれど少しだけ、彼の世界は狭すぎる。きっといつか誰かに、世界を狭められてしまったから。
「その人が向けられていた好意は軽いものから重いものまで、全部重くなって憎しみに。その人に向けられていた悪意は、軽いものから重いものまで全部軽くなって感謝に」
「…………」
世界が狭いってことは、思考を広げられない。井戸の中で突き詰めた思考だけが、正しい答えだと思ってしまう。世界に選択肢は溢れているのに、狭まってしまった価値観がそれらを見過ごす。たとえば今、簡単に殺すという選択肢を取ろうとしているように。
それは酷くもったいないことだと思った。だってこっくんは頭が良いんだから、きっと色んな価値観で色んな思考を深くまで突き詰めることが出来るはずなのだ。けれどここで人を殺してしまったら、彼の価値観は固定されてしまう。考えを行動に移すということはそういうことなのだ。一番確かな選択肢を選んでしまったら、他を選ぶ余地がなくなってしまう。幼い少年では、後についてまわる代償になんて気づけないまま。
「私にとって、人を殺すってことはそれくらい重いことだと思う」
……私が語るこの価値観にそこまで価値があるかなんて、そんなことはわからない。けれど今、彼に彼にはない価値観を伝えたいと思った。どうして人を殺してはいけないの? 選択が生まれてしまうから。どうしてその選択肢はいけないの? 代償が重いから。月並みでしか無い答え。それでも月を知らないこっくんにとっては、新しい答え。
「それを覚悟して、自分でどうしても殺したくて、そうしなければいけないほどの感情をこっくんがこの人に向けているなら……私に止める権利はない、んだと思う」
レイブ族の価値観としては知を侮辱する人は、殺しても良いのかもしれない。それなら私は止めれない。こっくんがこの人に殺意を滾らせて、代償全部を背負ってでも殺したいと言うならやっぱり私に止める権利はない。でもこっくんが私に選択肢を委ねるなら、どう殺してほしいと委ねたのなら。……つまるところ、その程度の気持ちならば。気持ちを向けてる先がこの人ではないのなら。
「でも、それを……それをこっくんが、私に向けてるなら」
「……!」
「なら私ははやくここから降りて、こっくんとあったかいご飯でも食べたいなって思うよ」
気持ちを向けているのが、彼越しの私ならば。私のためならば。それなら、私は止めたい。この人の血で、こっくんのこれからを汚したくない。その価値観を、血で汚してほしくはない。そう思った。コダなんちゃら様のように、誰かを殺すことを軽いことだとは思ってほしくない。利己的なそれを幼い少年へと押し付ける。それが良いことなのか悪いことなのかなんて、答えは出ないままだったけれど。
「……なにそれ」
「…………」
「なんだよ、それ」
暫く経って、落ちていったのは寂寥感に濡れた呟き。その呟きが落ちると同時に一本の腕がぐらりと揺れて、下へと戻っていった。当然、あの男の人が揺らされていた腕である。突然の動きに上がった悲鳴が、徐々に遠ざかっていく。多分殺してはいないだろう。だってこっくんの瞳にはもう、冬はなかったから。
静かな空の上、二人きり。地上がどうなってるかなんてこともわからないままに、私は静かにこっくんの言葉を待っていた。どうやら殺すのはやめてくれたらしいけれど、それでもまだ何か話したいことがあるらしい。私と自分を下へと降ろさなかったことがその証左だ。だから私はただ待った。渦巻く波の中で必死に自分の言葉を捏ねて、私へと何かを伝えようとしている少年を。
「知を馬鹿にするやつは殺すべきだ。そういう奴らはいつか馬鹿を起こすから。こいつも、あの悪趣味な男も」
「こっくん……」
「いつか、後悔したらどうするんだよ。こいつらが変にお姉さんを逆恨みして、いつか殺しに来たら。そうしたら俺は多分、後悔する」
数秒か、数分か。時間の感覚が曖昧になる世界の中で流れていったのは、文句のような言葉たち。けれどそれらの言葉の奥底にあるのは私への心配で、私への親愛で。種族としての価値観と、こっくんとしての価値観と、私の価値観。それらが入り混じって出した答えは、彼にとって納得がいくものではなかった。この緊急事態の中、三つを比べて比重が傾いた私の考えを選んでくれただけ。私がしたいことを優先してくれただけ。だからこそ残るわだかまりが、彼の中で渦を巻いている。
いつか、後悔したら。これで良かったんだと自分を納得させて、けれどいつかそれが覆る時が来たら。そうしたらどうするのか。彼の言いたいことは痛いほどにわかった。私にだって重い後悔はある。あの日を悔やんだことだって、何度も。確かにこっくんにはそれを背負ってほしくない。それならばどうするか。
「……なら、一緒に行く?」
「……え?」
少し考えて、気づけばそんな言葉が零れていた。
「えっと私、旅してるって言ったよね。結構さ、危険な旅なんだ。多分」
「……聞いた、けど」
「そっか。それでね、追手に負われてるし、多分変な人に目を付けられてるし……気儘でもなんでもなくて、重い目的がある旅をしてるんだ」
落とした言葉をはっとして取り繕うように。やばい、急に勧誘してしまった。そんな軽い気持ちで勧誘していいものではないのに。けれどここでやっぱなし、というのは呆けながらも期待を目に僅かに灯している少年に悪い気がして。だから私は注意事項やら、旅の危険性やらを捲し立てた。それでも曇らない黒の瞳に、諦めを心に浮かべながらも。
「そ、それでも良いって言うなら。結構大変な思いをすると思うけど、危ないこともあると思うけど……」
「…………」
「……いつかあの人達が襲ってくるようなことがあったら、こっくんが私を守ってくれると嬉しいかな、って」
今日みたいに。その言葉を最後に俯けば、脳内に溢れ出したのは後悔で。誘ってしまった。まだシロ様とヒナちゃんからの許可も出ていないのに。っていうか自分を守るために来てほしいとか、年下の子供相手に私は何を言ってるのだろう。あまりにも情けない、というか最早嫌な奴ではないだろうか。自分勝手が過ぎる。
……でも。それらの後悔の中には、確かな納得が浮かんでいる。こっくん。頭が良くて力があるからこそに、放っておくのが少し怖い子。そうしてきっと、一人な子供。道中が変わろうが結局最後に私は、この選択肢を選んだ気がするのだ。一度伸ばした手は、途中で振りほどくことをしてはいけない。きっとあの日彼を助けようと壇上に上がったときから、この結末は決まっていた。
「……うん」
そうして、彼の返答だって。風に紛れそうな小さなイエス。それでも確かに聞こえてきたその声の方へと視線を向ければ、彼は小さく微笑んでいた。子供らしく無邪気に、ただはにかむように。……この世の幸せを今、いっぺんに貰ったように。