百八十三話「革命」
「お、おじいさん……?」
これはどういうことだろう、と予想外の展開に目を白黒とさせていた私。当然私にとって予想外の展開は、コダなんちゃら様側としても予想外だったらしく。剣を抜いた状態で眉を寄せた従者っぽい人と、ぽかんと目を見開いたコダなんちゃら様。しかしそんな私達を気にもかけず、おじいさんは静止の声に続けて叫んだ。
「このお嬢さんは殺させはせんぞ! 儂の命の恩人なのじゃからな!」
「え、え、……?」
びし、と杖を向けて従者の人を威嚇するおじいさん。その姿はあの日セクハラをしてシロ様に殴り倒された時とは違い、妙に堂に入って見えた。例えばそう、その背中に歴戦という気配が漂って見えるような。
さりとて、その言葉が間違いであることに変わりはなく。いや私は命の恩人なのではなく、どちらかと言えば殺しかけた側というか。その訂正は、残念なことにこの場では出来そうになかった。異様な空気に支配された大通り。そこをまた、この人の声が駆け抜けて行ったのだから。
「大体、お前らもいい加減このままでええのか!」
枯れた声が、轟くかのような咆哮を生む。びりびりとした音の波動が、悲痛とも呼べる感情を乗せて走っていく。そうしてその声はきっと、世界を変えた。
「知っとるぞそこの商人! お主は数ヶ月ほど前に難癖を付けられ、この男に己が仕入れた商品をめちゃくちゃにされただろう! 損害は酷いもんだったとか!」
「……!」
「儂とてこの男はばあさんの仇! だからこうしてまた無実な人間が、この男に殺されるのを黙って見てはおれんかった!」
剣呑さを秘めた声がまず、先程私に助け舟を出してくれた商人さんを指した。その声に肩を震わせ、そっと視線を逸らす商人さん。成程、そんな事情でコダなんちゃら様に一矢報いたかったのか。そう納得するよりも早く、今度は衝撃の事実が目前から聞こえてきて。
……この人もまた、奪われた被害者だったのか。きっとこの場に出てきてくれたのは私が命の恩人どうこうよりも、もう一度と繰り返される悲劇を見たくなかったから。そう思えば胸が詰まるような心地になる。看守さんも、商人さんも、おじいさんも。きっとコダなんちゃら様に逆らうだけの理由を、心に留め続けてきた。その均衡が揺らいだのはきっと、私が来てしまったから。
「今はまだいい! 一週間後には領主様が帰ってこられる。だがその間この男がやっていたことはかのお方の耳には届かず、無かったことにされるばかり!」
「…………」
「それならば領主様亡き後はどうなる!? お前らは家族や友人、そして自分が理不尽な言いがかりをつけられるのを黙って受け入れるのか!?」
語りかけている。そう思った。この言葉は私に向けられているのではない。そして当然、コダなんちゃら様たちに向けられているわけでも。ここに集まった群衆の人々に、向けられている。今はまだ何も関係がなくて、けれどいつかは被害者として舞台に上げられるかもしれない人々に。
多分きっと、ここに集まった人たちは何度だって見て見ぬ振りをしてきたのだろう。それが正解だ。だって声を上げた分だけ、自分は損をするだけ。もしかしたらその損が、自分の家族や友人にも刃になって襲いかかるだけ。けれどそれが延々と続くのであれば。そのまま救いなんて一切ない未来へと、更に理不尽へと化した舞台へと続くのであれば。
「そうして失うのを、これ以上繰り返すつもりか!?」
きっとこれ以上の見て見ぬ振りは、いつか己を刺す刃となる。
「…………」
「…………」
おじいさんの悲痛な叫びが止まると同時、残るのは静寂。誰もが顔を見合わせて、不安に瞳を揺らがせる世界。しかしそんな沈黙は、長くは続かなかった。
「そうだ! 悔しいがこのクソジジイの言うとおりだ!」
「娘がこの子みたいに無罪で殺されるよりは、娘にセクハラしたジジイの言うことをまだ聞く方がマシだってな」
「違いない!」
まず一つ。あの日シロ様に貢いでいたおじさんたちが、意気揚々と声を上げる。引きつった笑みを浮かべて、恐らくは心の中にある恐怖を皮肉で和らげて。それでも確かに、「これは間違っている」を叫ぶ。そうして一つ一つと声が上がる度、それは波紋のように隣へと伝わって隣人を鼓舞した。
「これ以上家族に死んでほしくなかった……でもあの日秘密裏に処刑された弟だって、あんたの罪が白日に晒されることを望むはずよ!」
「あんたの難癖で俺の友人の店は潰れた。友人と美味い酒が飲めなくなるのは死ぬより辛いんだよ!」
「お前のせいで薬が流通しなくなり、おじいちゃんは死んだ! それが今度は父さんや母さんに続くってなら、これ以上は我慢できない!」
満ちて満ち溢れかけていたコップに落とされた最後の一滴。それが私だったのか、おじいさんの言葉だったのか。数々と上がる恨み言は、こっくんの断罪の場だったはずの大通りを混沌へと変えた。連なるように続く言葉。突如として始まったデモンストレーションのような何かは、勢いが途絶えることなく広がっていく。
それがまるで、この人のしてきたことの証左に思えた。今目を白黒とさせて、あちこちから上がる怒りの声に戸惑ってばかりのこの人の。きっとコダなんちゃら様はあれだけのことをしておいて、それでも恨まれるだなんてことは露も思っていなかったのだ。育ち方が悪かったのか元々の性質なのか。性善説も性悪説も唱える気はないけれど、それでも確かなことは一つ。この人に罪の意識は、今でもないということ。ただそれだけ。
「っは、ハヤ、なんとかしろ!」
「……御意」
そうでもなければこの期に及んで、謝罪の一つも出てこないなんてことはあるわけがないのだから。どうしていいかわからないと訴える表情のまま、動かずにいた従者の人に声をかける。ぎらりと獲物を狙うように煌めいた灰色が狙うは……このデモが始まったきっかけとなった、おじいさん。その刃が彼の首を切り落とさんと動き始めている。
「なっ……!?」
「っ、シロ様!」
それを黙って見過ごすのは、どうしても出来なかった。突如として向けられた刃に、近づいてくる死の音に、覚悟していたとは言え動揺を隠すことは出来なかったのだろう。震えた声がそれでもと私を庇おうと両手を広げたその人から聞こえた瞬間に、私は叫んだ。太陽の光が反射して輝いた刃が向かうよりも速く、と。
「……!」
「……ここで水を差すのは些か無粋だろう? やった側であれば結末を見届けろ」
けれど私が叫ぶよりもはやく、頼りになる私の相棒はとっくに行動に走っていたらしく。風が動いた、それが答えだった。まるで瞬間移動でもしたかのようなスピードでおじいさんと従者の人の間に入り込んだシロ様が、その風為の白爪牙を煌めかせる。カン、と金属同士が擦れるような高い音。それに混じって、低く息を呑む音が聞こえてくる。
従者の人はその一刀を交えただけで突如割り込んできた子供が只者でないと悟ったのか、警戒するかのように距離を取った。しかしそれを許さないのがシロ様である。儚げな美しい容姿に不釣り合いな不敵な笑みを浮かべた少年は、迷うことなく追撃を繰り広げる。従者の人が耐えるので精一杯な、鋭い剣戟を。
「お前なんて次の領主に相応しくない!」
「亡くなった人たちに謝れ!」
「『知なき愚者』が!」
その突然の、さりとてこちらが優位に立ったことを示す光景に、もはや観客ではなくなった人々の声はヒートアップしていく。もう私がメインを張っていた舞台は終わりを迎えて、演目の名前は悲劇から転じて喜劇、そして革命劇へと。自分一人では何も出来ないコダなんちゃら様は、段々強くなっていく声に震えることしか出来ない。もはやその体は怒りではなく、別の感情で震えていた。
きっとそれは、恐怖。自分がこれだけ数多の人の恨まれているのだと、こんな殺意を向けられるほどに忌み嫌われているのだと、この人はここに来てようやく自覚したらしい。けれど何も出来ないまま。自分の従者が子供の姿をした武人にやり込まれるのを、負けそうになるのを、黙って見ているだけ。じりじりと、その足を後退させていくだけ。人に囲まれたこの場所では、自ら作ったはずのこの舞台には、逃げ場なんてないと分かっているはずなのに。
「な、なぜ……わ、たしは領主の息子で、知ある黒髪だ……こんな侮辱が、許されるわけが……」
慄き震える声は、いっそ不憫になるくらい哀れめいて見えた。それでもこの人は間違いなく、悪なのだ。罪無き人を何人だって殺して、人を傷つけるためだけに難癖を付けて、そうしてそれが許されるのだと踏ん反り返ってきた。心を知らぬ王様気取り。その溜まりに溜まったツケを、ここで払わされている。
「なぜ……父上、助けてください……」
「…………」
助けを求める声は、届かない。その父上が居ないから自分が好き勝手に出来たということすらも忘れて、その人は呻くように繰り返した。耳を塞いで蹲る姿は、子供のようにも見える。自分がやってしまったことを後悔もできない幼い精神性が、この裁きの場を作り出したのだ。
……ここまで来てしまえば、もう私にすることは何もない。コダなんちゃら様の糾弾は終わる気配を見せないし、一番の脅威であった従者の人は負けの気配を濃厚にシロ様にやり込まれている。それならばもういいか、と看守の人に教えてもらった通りに手錠の輪を叩いた。そうすれば教わっていた通り、手錠はあっけなく外れていく。それがこの劇の終わりのように思えて。
けれど私の役目は、まだ終わっていなかった
「……! 危ない!」
そこで見えたのは眩い光がこちらへと向かう光景。恐らくはおじいさん目掛けて飛んできたその光を自分の身で遮るために、私は飛び出す。後のことは何も考えられなかった。ただこの光は危ないのだと、そう本能が叫んでいたから。
驚愕に見開かれたおじいさんの瞳。どこからか、お姉ちゃん!と悲痛に歪んだ叫び声が聞こえてきた。背中に迫るは熱の気配。きっとこれが当たれば、私は火傷では済まないのだろう。その予感はあるのに、もう体は動かなくて。
私は背を、もしかしたら命を焼くかもしれないその予感に、ぎゅっと目を強く閉じた。