百八十話「舞台前夜」
深夜。牢の中は外の世界に居た時よりも、世界が寝静まっているように思える気がする。なんとなく寝付けなかった私は、わらのベッドからもぞもぞと起き上がった。緊張でもしているのだろうか。先程から目が開いてしまう。
ちらりと少し離れた位置にあるこっくんが眠っている方のベッドを見れば、そこには毛布を二枚重ねにして横たわる少年の姿が。いや、外套までもを被っているせいで一見少年にはとても見えないのだが。もはや布の塊にも見えるその姿に笑みを零しつつ、私は牢屋の天井を見上げる。ところどころ薄汚れた石の天井。圧迫感のある作りは、最初にここに入れられた時から印象が変わらないまま。
「ふぅ……」
ついに明日、明日。そう思えば心臓の鼓動が速くなり、落ち着かないような心地になる。大丈夫、私は勝てる。そのための布石だって、彼と勝負をすると決めた時にもう打ってあるのだから。でも勝敗に置いての話と、大勢の人が集まる舞台上に引き上げられる緊張感は別のものなのだ。
息を大きく吐いて、吸って。深呼吸を何回か。それでも中々引いていってはくれない緊張に、私は苦く笑った。こっくんにあれだけ豪語しておいてこれである。小心者と言うかなんというか。やっぱり私に知ある者の称号は似合わないな、とぼやいていたところで私は目を見開いた。……こつこつと、硬質めいた足音が遠くから近づいてきている。
「……起きていたのか」
「……看守、さん?」
「ならいい、手間が省けた」
まさかこんな夜中にヤツの襲撃か……?と緊張が走る暗闇の中、格子越しに覗いたのは何度か見かけたことがある顔。この三日間、私達に朝夜と食事を運んできてくれていた看守さんだった。コダなんちゃら様ではなかったと安堵する反面何故こんな時間に、という疑問と手間が省けたというのはどういうことなのか、という疑問が私の中に浮かび上がる。しかしそんな疑問たちは、それらを上回る衝撃によってかき消えていった。
がちゃりと、牢の扉が開けられたのだ。
「え、な、なんで……」
「…………」
開かれた牢の鍵。そうして開けた張本人である看守さんは、襲ってくるわけでもなくこちらを複雑そうに見下ろしている。まだ朝は来ていない。夜中の真っ只中。どうして弁論が始まるわけでもないのにここの鍵が開けられたのか。それがわからずに動揺する私を見て、彼は静かに口を開いた。いつものよく通る声ではない、葛藤と覚悟に満ちた重々しい声が心境を語る。
「……私は、ずっと後悔をしていた」
「え……?」
「いくらコダ様の命とは言え、罪無いとわかっている者たちをこの牢から出さないまま断頭台へと見送ることに」
それは、懺悔のような言葉だった。ここが一瞬教会の懺悔室にも見えててくるような、そんな後悔と苦渋に満ちた言葉。私は生憎とその罪を許すシスターさんにも神様にもなれそうにはなかったけれど、それでもここでこの人の話を聞くことが出来るのは私だけだと思ったから。だから状況が何もわからなくても、真剣にその話に耳を傾けた。
「私は孤児だった。それを領主様が拾い上げてくれ、こうして勤められるようになった」
「孤児……」
「この場所にこうして配属された時は、ただ嬉しかった。責任ある仕事を、なんの後ろ盾もない私に任されたと思ったんだ。そうしてエーナの街に害する悪党を、私が決して見逃さないようにしようと……」
そうしてそこから語られたのは、看守さんの過去。いや、過去と言うには少々浅すぎるだろうか。ならば経歴と呼ぶべきなのかもしれない。領主様に拾われたこと、責任ある仕事を任されて嬉しかったこと。そうして結ばれた決意。
淡々とした口調で語られていくそれに、私はどこか侘しい感情がこみ上げてきた。だってそれは、全て過去形の話だったから。その語り方を証明するように、嬉しかったと告げる看守さんの表情に笑みはない。ただ痛切な悔恨がその瞳を深く染めるだけ。遺言のように、言葉を落とすだけ。その理由は、なんとなく私にもわかっていた。
「しかし私が今しているのは、きっとそんな仕事ではない」
「…………」
そう、全部は未来に期待を持っていた過去の彼の話。彼は気付いているのだ。私達が過ぎる冤罪でここに入れられたことに。そうしてきっと、薄々と気付いていたのだろう。多分この牢に入れられたのは、私達が初めてではない。きっと彼は冤罪でここに入れられた人を何度だって見てきた。見過ごしてきた。
心に最初に生まれた希望は、きっとそんなことを何度も繰り返すうちに消えてしまった。今彼の中にあるのは諦めと、それでも仕事を全うしようとする古びてしまった義務感だけ。でもそれならどうして、今彼は鍵を開けてくれたのか。何が彼の心境に変化を起こしたのか。
「だが、気付いた。知ある少女よ」
「えっ」
その答えは、思い描くと同時に返ってきた。知ある少女。恐らくは私に宛てられた、その言葉。重々しい空気の中では「いやそんなんじゃないです……」などと言うことも出来ずに、私は困惑したまま彼の言葉を待つ。看守さんはどこか、憑き物が落ちたように笑っていた。
「時折この少年との会話を聞かせてもらっていたが、お前は優秀な学者の卵のようなものなのだろう。お前が話すことは、私にとって知らぬことばかりだった」
「え、いや、あの……」
「そんな未来ある少女と、そうして知識欲に旺盛な将来有望な子供。きっとそんな二人を失うのは、巡り回ってエーナの街にとっての損となる」
罪人でないのならば、尚更。と何か勘違いをしているらしい看守さんは、そこで顎を上げた。行け、合図する動き。何かを言おうと思ったのに、覚悟が決まったその人の目は悲しすぎて。言葉は飲み込まれてぐるりと心が渦を描く。
私は彼が言うように頭は良いわけではないけれど、それでもわかることは一つある。それは私達がここから逃げ出せば、責任を問われる人が居るということ。そうしてそれは間違いなく、目の前の人であるということ。きっとこの人は、それを覚悟でこの選択肢を選んだ。
「……その、私達が逃げたら看守さんは……」
「……気にしなくていい。今まで見過ごしてきた分の罰が当たるだけだろう」
「そんな……」
尋ねても、返ってくるのはそんな言葉ばかり。コダなんちゃら様は確かに悪い。きっと何人もの人をこっくんのような状況に陥らせては、その命を奪ってきたのだろう。その行いは到底許されるべきことではないし、寧ろ彼こそがこの牢屋に入れられるべきだとも思う。その後命が奪われるかどうかは別として。
けれどこの人は、この人は本当にそのような罰を受けるべきなのだろうか。彼は確かに見過ごしてきた。ここで助けを叫んだであろう人たちの声を、聞かぬふりをして過ごしてきた。しかしそれは彼が生み出した結果ではない。彼が直接の原因なわけではない。果たして理不尽な人間に逆らうことのその結末を恐れて動けなかった彼を、誰が責められるというのだろう。
「お前たちが無罪であっても、私は有罪。何かしらの沙汰が下されるべきだと思う。それこそが己だけ安寧を享受し、思考を停止した私への罰だ」
彼に沙汰は、本当に必要なのか。少なくとも私の中では、一つの答えが出ている。
「……行きません」
「……何?」
「看守さんの気持ちは嬉しいんですけど、行けません」
はっきりと、声に出して拒絶を。首を振れば、予想外だったのか慄くような声が返ってくる。私はそんな看守さんに微笑みかけると同時、そっと開かれていた牢の扉を閉じた。こっくんが起きていたら、後でどうしてと憤られるかもしれない。それでも私は、勝負から逃げるということを選びたくはなかった。
「私は貴方が思うような知ある少女じゃありません。……あ、こっくんが将来有望なのはそうだと思うんですけど。いや、それは置いておいて」
「…………」
「でも看守さんがそう思ってくれているなら、そう在れるように頑張りたいんです」
全部、私の勝手だ。こっくんを助けるためあの場に突撃したのも、今こうして彼が折角開けてくれた扉を閉じるのも。それにこっくんを巻き込んでしまうことに、小さな罪悪感はある。彼からすれば逃げる絶好の機会だと言うのに。頼りない私に頼るよりは、勝率がずっとずっと高いはずだ。
好きなだけ恨んでいい。理想だけ見てる頭空っぽのお花畑脳だと、蔑んでくれたっていい。それでも私は、私を助けようとしてくれた人が傷ついたり殺されたりするような結果にはなってほしくない。私に知なんてものは、レイブ族の人達からの祝福は、ないけれど。でも両親や祖父母や、あの人が育ててくれた心だけは失いたくなかった。
「本当に私が知ある者なら、あの人には負けません」
「……!」
「だから看守さんにも、信じてほしいんです。私が勝つことを」
全部全部、はったりだ。既に罠を仕掛けただけで、知というよりはずるで勝つようなそんな結末になる。言葉遊びで相手の足を引っ掛けただけの、そんな勝利。でも必ず、勝ってみせるから。だからどうか。そう募った私に、何を思ったのだろう。そこで看守さんは大きく目を見開いて、そうしてわななく唇を開いた。
「……本当に、勝てるというのか? あの無理難題に?」
「絶対なんて無いって言っちゃったので……でも、勝ちます。勝ってみせます」
「……そう、か」
縋るような、そんな言葉。それに迷いなく頷けば、返ってきたのはやはり力ない頷きで。けれどもう彼は、私達を外にと促そうとはしなかった。開けた鍵を静かに閉めて、じっとこちらを見下ろす。得意げに笑った私に、願いを託すように。
「勝って、コダな、……コダ様をこてんぱんにして、それで看守さんもちゃんとお仕事ができるように……とまで上手くいくかはわかりませんけど、それでも」
「……ああ」
「それでも、私達を助けようとしてくれた看守さんに、幸せが訪れますように」
描く未来予想図。流石に上手く行きすぎだろうか、なんて脳内で苦笑を一つ。でもそうなればいい。勝つのはひとまず確定として、そこから起こる混沌からも逃げ抜いて、そうして。
例えば、コダなんちゃら様が改心して……いや、そんなのは今更望めないか。じゃあ例えば、巡り回ってこの牢に入れられることになって。そうして看守さんが、ちゃんと最初に全うしたかったお仕事が出来ますように。死ぬかもしれないような選択を選んでしまう彼が、それを選べなくなるくらい大切な存在が出来ますように。願ったことはそんなこと。
「……私も、貴方に幸運があるよう祈っている」
「はい、ありがとうございます!」
彼もまた、同じように私の幸運を願ってくれたらしい。弾けるように笑えば、同じように小さく微笑んだ看守さんが背を向けて去っていく。遠ざかっていく足音。それを子守唄に、私は再びわらのベッドへと戻った。なんだか今ならよく眠れそうだ。
「……ねぇこっくん、まだ人間なんて信じられないかもしれないけどさ」
「…………」
でも眠る前に、一つだけ。起きていたのか、それとも夢の世界にいたのか。返ってこない返答からは察することは出来ないけれど。それでも眠っていたとしても、彼に一つだけ伝えたかった。周りの全てが敵だと言わんばかりに心を尖らせる、寂しがりの少年に。
「きっとああいう人も、この世界にはいっぱい居るんだよ」
それに彼が毛布の中でぎゅっと拳を握ったことには、相変わらず気づかないまま。