百七十九話「絶対」
それから昨日と同じ食事が看守さんの手によって運ばれてきても、こっくんは私がゆで卵を渡した時に「ありがとう」と言うだけで無口なまま。何かを思案するような表情に、私は何も言えないまま。
結局その空気は二日目を飲み込み、本日は牢に収監されてから三日目。そうしてお昼時を過ぎて今も尚、こっくんの考え事は続いているようである。本日も本日とて忙しいはずのコダなんちゃら様の襲撃に遭ったのだが、というか今現在進行系で遭っているのだが、こっくんは外套を深く被るだけで昨日とは違い何かしらの反応を見せることもなかった。ここまで来ると心配になるレベルである。もう明日は弁論のその日だというのに、こっくんは何を悩んでいるのか。原因が私の言葉だというのは、何となく分かるのだが。
「コダ様、そろそろ……」
「ふん、もうか」
現在コダなんちゃら様の襲撃真っ只中の牢生活三日目のお昼時。しかし今日も時間が来たのか、コダなんちゃら様はあの強そうな従者の人と一緒に上へと戻っていった。「明日と……それと明日からを楽しみにしているぞ!」なんて自信満々に去っていく背中をぼんやりと見送る。今日は何を言われたんだったか。こっくんが気にかかって正直話は殆ど聞いていなかったが、恋愛小説でしか聞かないような口説き文句を延々と言われ続けた気がする。新手の拷問だったのかもしれない。
「…………」
「…………」
そうして騒がしい人が居なくなれば、当然誰も喋らない静かな空間が出来上がるわけで。私はそこでそっと、本日は外套をずっと被ったままのこっくんの方へと目を向けた。恐らく具合が悪い、とかではないとは思う。朝ごはんのパン二つとスープはしっかりと完食していたわけだし。
となると、やはり昨日私が言った言葉のどれかが彼の中で引っかかっている可能性が高い。かといってどれが引っかかったのかなんて、彼の心を読めない私ではわかるはずもなく。果たしてそんな状況で声をかけていいものだろうか。明日が本番だということで何かしら話はしておきたいのだが、下手に声をかけて信頼を失う結果に繋がるのは怖い。いやそこまで信頼されているかと言われれば、正直微妙なところではあるけれど。
「……ねぇ」
「…………」
「……お姉さん?」
「……えっ!? はっ、はい! なんでしょうか!?」
「いや、どういう反応……」
どう出るべきかと、考え事に没頭していた私。だからこそ驚いてしまった。ずっと黙って何かを考えていたこっくんが、突然こちらに話しかけてきたことに。驚きのあまり裏返った声で返事を返せば、聞こえてきたのは戸惑うような声。そりゃあ声をかけた相手が急にこんな風に挙動不審になれば怪しむだろう。こちらとしてはびっくりしただけではあるのだが。
「いやその、驚いちゃって……それで、どうしたの?」
「……一個、お姉さんに聞きたいことがある」
「聞きたいこと?」
こほんと一つ咳払い。取り繕うように問いかければ、若干訝しげではあったもののひとまず流してくれることにしたらしい。僅かな沈黙の後に聞こえてきたのは、躊躇うような声音。それに私は目を丸くした。昨日は矢継ぎ早と問いかけてきたというのに、まさかその”聞きたいこと”とやらを問いかけるため、こっくんは約一晩くらいを悩んでいたというのだろうか。
……それつまり、その質問は彼にとってかなり重要だということ。もしくは、私に聞き辛い質問だということなわけで。ごくりと生唾を飲み込み、私は外套を被ったままの少年を見つめた。一体今から何が聞かれるというのか。というかそんなに重要な質問をするならできれば事前告知をしておいて欲しかった。心の準備が出来ているかいまいち怪しいところである。しかしそんな準備をさせてくれないまま、こっくんは言葉を続けた。ある意味予想外の質問を、その口で。
「……お姉さん、外に仲間居るんでしょ?」
「う、うん……居るね」
「もし、もしだよ。明日、お姉さんが危なくなった時……」
そいつらが助けに来なかったら、どうするの。それは私が予想だにしていなかった問いかけで。助けに来なかったら。一切と想像していなかったその言葉に、私は思わず虚を突かれた。そんな私を外套から覗く瞳が暗く見つめる。まるで勇者に何かの試練を与える魔法使いのように。
……正直に言おう、ない。シロ様とヒナちゃんが私が危なくなった時、私を助けに来ないなんてことは絶対に。でもこの問いかけはそういう前提を放棄するための質問ではない。そうなった時どうするのか。こっくんはそれを聞きたいのだ。私に向き合って欲しいのだ。瞳の奥に覗く寂寥感を私は知っている。放棄することだけは、していけない。
「……うーん、来なかったら、か」
「……うん」
「心配になる、かな」
「……え?」
それならば、私の答えは至ってシンプルだった。重い空気を切り裂くような回答に、今度虚を突かれたのは問いかけてきた少年の方。そんな彼ににこりと微笑みながらも、私は瞳を伏せる。明日、混沌と化す舞台上。それをイメージするように。
「シロ様は、……じゃなかった。私の仲間は、私のことをすごく大切にしてくれているから。だから私が危なくなった時に助けに来なかったら、きっと何かすごく危ない目に遭ってるんだと思う。きっと私よりもずっとずっと危ない目に」
「…………」
「だからはやくこっちをなんとかして、助けにいかなきゃって思うかな」
そう、もしシロ様やヒナちゃんが明日私の結末を見届けに来てくれないのだったら。そこで起こる、何かしらの危険から助けようとしないのであれば。それにはきっと”助けに来れなかった”という理由が滲むはず。だってそうだろう。それ以外の理由なんて考えられない。
それならばどうするか。それならば私は、たとえどんな混沌とした状況でもその場を逃げ出して二人を助けに行く。私に出来ることなんて精々糸を操ることくらいで、それで誰かを傷つけるなんてことも出来ないけれど。それでもなるべく平和的にその場を……たとえばこっくんと籠繭に籠もって透明壁を作り、外から襲ってくる人を全員ぐるぐる巻きにするとか。もしくは籠繭を上手いこと移動式にするとか。そんな方法で切り抜けて、危ない目に遭っているであろう二人を助けに行く。それが、私の答えだ。
「……裏切って逃げたのかもしれない」
「ないよ。絶対に」
「っ……! 人間なんて、簡単に裏切る! 絶対なんて無い!」
けれどこっくんとしてはその答えはお気に召さなかったようで。憎々しげな呟きに首を振れば、少年は激昂したように叫んだ。その鋭い旋律を聞いて抱いたのは、驚きではなく痛み。やっぱりそうだったのか、そうじゃなかったら良かったのにな。そんな思考が私の頭を過ぎった。けれど現実は変わらないまま、目の前では憤る少年が居るだけ。
なんとなくわかっていたこと。それはこっくんが、誰かを信頼するきっかけを見失ってしまうくらいにかつて誰かに傷つけられたこと。きっと恐らくは今彼が言ったように、手酷く裏切られたということ。だから彼は未来の希望を信じないし、人も信じたくない。信じて裏切られるのが怖いから。手を掴んだ瞬間、離されることがあんまりにも怖いから。その怖さは私だって知っている。人を信じるということは、幸福だけではなく痛みが伴うことも。
でも、それでも。
「……そうだね。言っておいて何だけど、絶対なんて無いかもしれない」
「え……?」
「きっと世の中に絶対とか、必ずとかなんてないんだ。人がそれを信じたいだけで、縋りたいだけ」
そう、絶対なんて無い。私はそうは思わないけれど、この少年がそれを信じたいというのなら信じればいい。でも信じるのは悪い方向ではなく、良い方向でだ。ぎゅっと胸元を握れば、視界に映ったのは乳白色。そこから繋がった糸が、彼との繋がりが、私に言葉をくれる。踏み出す勇気をくれる。
「でも絶対なんてないからこそ、私はこっくんを助けに来たんだよ」
「……!」
「あの人が絶対勝てるなんて保証はどこにもない。絶対にこっくんが盗んだことを証明できない、なんてことはない。だってこっくんが言ったんだから。絶対なんてないって」
どうせ絶対なんて信じられないなら、良い方向に考えてみようよ。言外のその言葉は、けれど正しく目の前の少年に伝わった。息を呑むと同時、はらりと舞っていった外套はその先の少年の顔を晒す。困惑と混乱が泳ぐ黒。しかしその底にはまだ、期待が眠っている。人を、絶対を信じたいという心が眠っている。
今絶対を信じれないなら、それでいい。私の言葉を信じないなら、それでもいい。でも貴方が百パーセントという確率を信じられないのなら、どうか”自分が百パーセント死ぬわけじゃない”ということを信じて欲しい。悪魔の証明なんて絶対に証明できない、いつか自分で言った言葉も裏返して欲しい。だって絶対なんて無いんだから。そう、自分で言ったのだから。
「……話、すり替えただけだろ」
「う……」
「それで言うなら、お姉さんが絶対に俺の冤罪を晴らせる……なんてのもないわけだし」
「ね、ネガティブ……」
当然賢い少年には、話をすり替えてしまったことはバレてしまっていて。何なら言葉の裏までもを突かれてしまって。けれどその瞳にはもう、全てを暗く染めるような深淵はなかった。どこか憑き物が落ちたようにこちらを見つめるこっくん。相変わらず言っていることは後ろ向きではあったが、浮かぶ笑顔はどこか少年のような無邪気さを取り戻していて。
「……でも、わかった。お姉さんのこと、信じる」
「……こっくん」
「忘れてた。元からそう決めてたんだ」
「え……?」
俺の命、お姉さんに預けるから。そう言った少年の真意は私にはわからなかったけれど、それでもその言葉にはどこか信頼が滲んでいて。こっくんから貰った初めて見るそれに私は泣きそうになるのを我慢しつつ、笑った。ここで泣くのは、あんまりにも格好悪いから。
……この少年が、絶対を信じられるようになればいい。そんなこと、私が願うことではないかもしれないけれど。余計なお世話だろうけれど、それでも。けれど言えることは一つだけ。それは恐らくはこっくんが人を信じられるようになる一歩目の鍵は、間違いなく私が握っているということ。彼を処刑なんてさせないという重い一歩を、私は改めて大事に心に抱えた。来る明日の舞台劇を、勝者側で終わらせてみせる。そんな覚悟と共に。