百七十六話「牢の中の授業」
その後、「こっくんはやめろ」「可愛いでしょ」などの押し問答を繰り広げつつ。結局私の勢いに負けた少年は……こっくんは、その呼び名を許可してくれた。諦めた、とも言う。私に素直に端名を教えてくれなかった罰だと思って欲しい。下手に本名を教えると妙ちきりんな渾名を付けられるのだぞ、という教訓である。
いやまぁ、個人的にはこっくんって呼び名は可愛いと思うのだけれど。コクくん、だとちょっと呼び辛いし。そんなことを考えながらも私は現在、もぐもぐとパンを食べていた。食事が運ばれてきたのである。当然泊まっていたホテルの食事と比べれば格が落ちるが、食べられるものがあるだけマシだ。あの大変に性格が悪そうなコダなんちゃら様にも一応、囚人に食事を与えるという良識はあるらしい。
「食事は一日に二回だ。感謝して食べるように」
「はい。ありがとうございます!」
「…………」
メニューはいつか食べたような硬いパンと冷めたスープにゆで卵。野菜がないのは気になるが、奴隷として捕まっていたときよりは数倍マシな献立である。運んできてくれた兵士の格好をしたおじさん……恐らくは看守さんにぺこりと頭を下げながらも、私はスープにパンを浸しては口に突っ込むという作業を繰り返していた。そんな私に降ってくる、奇妙なものを見るような視線。
「……ええと、なにか?」
「……いいや。これから先、悲惨な未来しか待っていないというのによく礼を言えると思ってな」
その視線が気にかかって問いかけてみると、返ってきたのは気まずそうなお返事で。成程。奇妙なものをみる「ような」ではなく、彼からすれば奇妙なものを見ていたらしい。確かに私には不条理に捕まってしまった挙げ句、これから無償で奉仕を強いられる可能性がある少女という悲壮感があまりにもないかもしれない。この看守さんもある程度の事情は知っているだろうし。
悲壮感、あった方が怪しまれないだろうか。こんなすこぶる元気です!と叫んでいるような状態では、何か怪しまれてしまうかもしれない。けれど私は演技なんて出来ない大根役者である。なら下手に演技するほうが怪しまれてしまうのでは? 参った、正解がわからない。
「お、お礼は大事ですから……」
「そ、そうか……」
結局私は、適当に誤魔化すことにした。お行儀がいいんですよアピール、とも言っていい。実際どんな状況でも誰かに感謝を示すことは大切なことだ。例えそれが敵とも言ってもいい存在の、手の内の人であったとしても。
私の言葉に何を思ったのか、困惑したような表情を浮かべた看守さんはその言葉を最後に去っていってしまった。しまった、変なやつだと思われたかもしれない。こっくん相手にはもう手遅れかもしれないが、看守さんにはか弱い普通の女の子を装っておきたかったのに。いや装うも何も「か弱い普通の女の子」はその通りなのだが、中々周りには理解が得られない。悲しいことである。
「っと、忘れてた。はい、こっくん」
「……は?」
「ゆで卵、私のあげる」
まぁ撃退した、と捉えておこう。彼が居なくなれば私も心置きなく動くことが出来るので。そう思考を切り替えた私は、今までの会話の間黙々とパンを咀嚼していたこっくんへとゆで卵を差し出した。すると怪訝そうな視線がこちらを突き刺す。だがそんな反応が返ってくるだろうと想定していた私にそんな攻撃は効かない。その視線ごと押し出すように、私はゆで卵をずずいと彼へと押し付けた。
「成長期にはタンパク質大事なんだよ。特にゆで卵は高タンパク低糖質! ダイエットにもおすすめ……だそうです!」
「いやなんの販促……」
だがそれでも中々こっくんはゆで卵を受け取ってはくれなかった。困惑して心底理解できないと言わんばかりにこちらを見つめるだけである。理解できないも何も、私としては成長の余地がある子供のお腹を少しでも満たしたいだけなのだが。なんせ私の成長期はもう終わりを迎えてしまったので。
ここまで話してて気づいたことだが、こっくんは何かと疑り深い。そりゃあ無実の罪で投獄されればそうもなるよとは思うが、なんというかそれ以上に人間不信の気があるのだ。自分に渡される親切全てに裏がある、と思っているような。つまるところやさぐれている、というやつである。根は優しい子なのだとは思うが。
「……まぁ私はダイエット中……痩せたい感じなので、食べてくれると助かるんだよね」
「…………」
そんな子に私を信じて! とゴリ押しすることはあんまりよろしくないだろう。うるさい、と手を跳ね除けられる可能性のほうが高い。だから私は少し考えて、こっくんにゆで卵を渡す理由を作ってみた。私にも利があるんだよ、ということを遠回しに伝える方法だ。ダイエットが通じない可能性も考慮して、注釈を付けながらも再びゆで卵を差し出す。すると少し経った後、正面からは微かに笑うような声が聞こえて。
「……ゆで卵はダイエット中におすすめ、って言ってたの誰だっけ」
「……あっ」
「あんた、馬鹿ではなさそうだけど抜けてるよね」
そのことに思わず視線を彼の顔へと集中させれば、そこにはおかしそうに口元を歪めたこっくんが居た。子供らしさはないが、嘲笑以外の初めて見た笑顔である。ついでに自分の抜け具合を指摘されたが、それ以上に彼の笑顔を引き出せたことが嬉しかった。
ひょいと、子供にしては長い指先が私の手の中のゆで卵を摘み上げる。そのままその子がもぐもぐと二つ目のゆで卵を食べるのを、私は見守った。ちょっとは信用、してくれたかもしれない。あくまでほんのちょっと、粉雪に満たないくらいの僅かな欠片だけ。それでも嬉しいことに代わりはないだろう。信用してくれたこと以上に、この子が少しでも安心できたという事実が。
「……ありがと、お姉さん」
「……! うん、どういたしまして!」
初めて呼ばれた、私を示す固有名詞。それも嬉しくてにこにこと微笑みを返せば、こっくんは少し目を見開いた後にふいと視線を逸した。先程浮かべていた笑顔は子供らしさなんてなかったが、仕草はところどころ子供っぽい。それに微笑ましさを感じながらも、私は引き続きスープでひたひたになったパンを咀嚼した。こころなしか先程よりも美味しく感じる。
「……ところで」
「うん?」
「たんぱくしつとか、ていとうしつ、って何?」
やっぱり気分って大事なのだな、とパンと一緒に感傷をしみじみと噛み締めていた私。しかしそんな私に投げかけられたのは、若干の好奇心が秘められているように感じる問いかけだった。
くるりと再びこっくんの方に視線を向ける。そこでは期待を秘めた黒い瞳が二つ、私を待っていた。ご飯を食べ終わったのだろう。どこかそわそわとして見えるその姿に疼いたのは庇護欲。こっくんは見た目はかっこいい感じの少年だが、なんというか全体的に仕草やら表情が可愛らしい。間違いなく弟属性だ。しかもシロ様のような暴虐的で強制的に構わせられることになる弟属性ではなく、こっちが自主的に構いたくなるタイプの。つまり好奇心に当てられている状態のこっくんは、ヒナちゃんとちょっと似ていたのだ。
「えっとご飯とか食材にはそれそれ栄養素、っていうのがありまして……」
「栄養素」
「うん。でゆで卵にはタンパク質っていう、筋肉を作ったりするホルモンの材料になる栄養素が含まれてて」
「……ほるもんって何?」
「あ、えっとね……」
その結果、私は急遽牢屋の中でうろ覚えの家庭科&保健の授業を少年に披露することになってしまって。どうやらこの世界、ダイエットという概念はあるのに栄養素関連に関してはあまり研究が進んでいないらしい。レイブ族の人はグルメだとシロ様がいつか言ってたが、それならば栄養素関連の研究も進めてほしいものである。
質問に答えを返す度、また生まれる質問。それになんとか小学校から高校までで習ったはずの知識を引き出しつつも、私はこっくんの質問に答え続けた。一時期おじいちゃんやおばあちゃんの健康のため、バランスの良い献立を作ろうと図書室でレシピ本を漁ったのも功を奏したのかもしれない。なんとか質問攻めから生き残った私は、食べかけだったパンとスープを飲み干した。達成感に満ち溢れたその味は、大変美味しかったと言っておこう。